回勅『フマネ・ヴィテ』は愛への挑戦  — ジャネット・E・スミス

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避妊に伴う負の側面

 決して忘れてならないのは、受胎能力がすばらしいものであるということです。大人の女性にとって受胎能力があるのは健康な状態でしかありません。受胎能力がない人たちこそ専門医による不妊治療を必要とします。現代、女性は受胎能力をそぐために「避妊ピル」を服用しますが、これではまるで受胎能力は治療を要する病気のようではありませんか?

 避妊は女性の健康な体を、それがあたかもどこか悪いので治療を要するかのように取り扱うことです。避妊行為の意味は、神が女性の体を創造したときの不具合をわたしたち人間が訂正しなければならない、ということです。汚染物質を環境に廃棄しないように気を付ける時代に、女性が自分の体内に熱心に汚染物質を取り込むのは皮肉な現象です。避妊ピルの箱に付いてくる説明書を一目見れば分かるように、避妊が女性の健康にもたらす危険はかなりのものです。製造会社に対する訴訟が相次いだために、避妊リングは現在もはや市販されていません。自然に基づく家族計画なら安全でもあるし、信頼性もあるというのに、女性たちはなぜこんな危険に身をさらすのでしょうか?

 更に、いくつかの避妊手段には中絶促進作用があることも付け加えねばなりません。これらは極初期中絶の原因になります。これらの手段には排卵を抑制するのでなく、受精卵つまり小さな人間が子宮内壁に着床できないようにする作用があります。避妊リングにはこのような機能があります。ノープラントとか(時としては)避妊ピルにも同じ作用があります。ですから、中絶に反対する人、女性の幸せを大事に思う人であればこれらの避妊法を使用したくないであろうことは明らかです。その他の方法は格好いいものではありませんし、信頼性もそれほどありません。

 ですから、避妊は性行為にとんでもない否定的雰囲気を持ち込みます。しかし、性行為は相手を肯定する最高に驚嘆すべき行為、配偶者に対して心から「イェス」と言う行為、相手に対して、彼もしくは彼女がすばらしい人であることを分からせる行為であるべきです。自分が完全に受け容れられていることを相手に理解させるのが性行為です。このメッセージは自分を余すところなく相手に与えることで伝わるものです。ところが、避妊する男女が発するメッセージはわたしはあなたに自分を上げたいけれど、受胎能力だけはあなたと分かち合いたくない、あなたは欲しいけれどあなたの精子(卵子)はお断り、ということではありませんか?

 避妊(contraception)という言葉について考えてみましょう。それは「始まりに反対」つまり新しい命の始まりに反対するという意味です。ですから、避妊する男女は新しいいのちを生み出すように神が計画した行為をしていながら、新しいいのちを阻んでいます。彼らは愛し合うのでなく、まるで戦争でも始めるかのように、防御のために精子を殺傷する「障壁」を装着します。これを果たして愛の行為と呼ぶことができるでしょうか?

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳