回勅『フマネ・ヴィテ』は愛への挑戦 — ジャネット・E・スミス
予言者教皇パウロ六世?
回勅『フマネ・ヴィテ』の予言は実現したか?
三十年前、回勅『フマネ・ヴィテ』は、もし避妊の習慣が広まれば結婚制度も社会にも悪影響があるであろうと「予言」しています。現代、圧倒的に多数の夫婦は言うまでもなく、未婚の若者たちでさえも何らかの避妊法を使用しています。
明らかに、回勅『フマネ・ヴィテ』は予言の書として書かれたものではありません。むしろ、その目的は教会が人工避妊について教えていることを明確に説明するということでした。回勅は確かにこの教えを明白に提示しています。しかし過去三十年間、人々は回勅の教えに耳を貸そうとしませんでした。統計によれば、カトリック信者でさえもその教えに従っている人たちは少数派です。そこから、ごく少数のカトリック信者しか回勅『フマネ・ヴィテ』を読んでいないと推定しても間違いではないでしょう。
キリスト信者であれば結婚が崇高な召命であることを承知しています。何しろ、それは新しい人間の生命を生み出すために、神が夫婦の協力を求めるという大事な仕事ですから。教会の教えによれば、避妊は神と神が生命を与えるという祝福の拒絶です。教会は避妊が悪であるだけでなく、避妊が悪であるからにはそれに悪い結果が伴うと教えます。
四つの予言
教皇パウロ六世は、もし教会が避妊についての教えを無視すればどうなるかについて、どちらかと言えば、あいまいな予言をなさっています。
教皇はまず、避妊の広まりは「不倫行為もしくは道徳規律の漸次的衰えを導入する」であろうと書いておられます。過去三十年を振り返れば、道徳、特に性の道徳が広く乱れていることは否定できません。離婚、中絶、婚外子、性病の増加を見れば、現代人が性道徳を守っていないことは一目瞭然です。
無責任の賛美
このような問題の裏に避妊があることは確かです。若い人たちが妊娠のおそれのために婚前セックスに走ろうとしなかった時代と比較して、避妊ができる現代にあって性的活動は容易になりました。避妊ができるので彼らは「責任」ある婚前セックスができると思いこんでいます。しかし、十代の若者たちは、避妊に関しては、ベッドメーキング、自分の部屋の整理整頓、期日に宿題を提出することのようなほかの分野と同じ程度の責任感しかないようです。
女性に対する尊敬の喪失
教皇パウロ六世はまた「男性」が「女性」に対する尊敬心を失い、「妻の心理的、身体的均衡を無視し、妻を自分の欲望に従属させるための道具として使用するようになるかもしれません。その結果、夫はもはや妻を配慮と愛をもって遇すべき伴侶として見なくなる」であろうと論じておられます。このような心配は、後に道徳の「人格主義的」理解と呼ばれるようになる思想を反映しています。道徳的悪は、人格主義的理解によれば人間人格の尊厳に対する尊敬の欠如に起因します。教皇は避妊に関する教会の教えが夫婦愛の善を守ることに気づいておられました。夫婦がこの善を侵すとき、彼らは自分に内在する尊厳を軽んじ、その結果自分自身の幸福を失いかねないのです。自分たちの欲する目的のために体を機械的な道具として取り扱うことで、彼らは相互の体を快楽の道具にしてしまいます。
権力の乱用
教皇パウロ六世はまた、避妊の蔓延が「道徳法を無視する為政者が危険な権力を手にするであろう」と書かれました。発展途上国における家族計画プログラムの歴史を見れば、これがどれほど現実であるか思い知らされます。発展途上国で多くの人々は自分たちの行為の意味も知らないまま不妊手術を受けるのです。中国での強制中絶プログラムは、国家権力が人口政策をどれほどまでに押し進めるか如実に示しています。それだけではありません。世界各所で人口過剰どころか人口不足に悩んでいるというのに、それを認めることのできるのはわずか一握りの人たちだけです。各国の社会に根付いてしまった「反赤ちゃん」メンタリティーを逆転できるまでには長いことかかるのでしょう。
教皇の最後の警告は、避妊を続ける社会で人は自分の体に対して無制限の支配力を持っていると思いこむようになるであろうということでした。米国では、現在、不妊手術が流行の避妊法になっています。各人は自分の体をコントロールする権利が自分にあると思いこんでいるので、自分自身の身体的構造を変更してしまうことさえ躊躇しなくなっています。
自分の体を無制限に支配しようとする欲望は避妊だけにとどまりません。「試験管ベビー」の生産も、人体の使用には制限があることを拒否するもう一つの徴候です。安楽死とか、「まだ完全には死んでいない人たち」の臓器移植にしてもそうです。わたしたちは自分たちの欲望の方に自分たちの体を調節しようとするのです。
明るい予言も
回勅『フマネ・ヴィテ』の中で教皇は明るい予言もなさっています。定期的禁欲を必要とする家族計画法を実践するために必要な自己抑制を身につけるのが、夫婦にとって困難であるかもしれないことを教皇は認められます。しかし、教皇は秘跡による恩寵があれば自己抑制は可能であると教えられます。回勅の二十一で、教皇は次のように言われます。「…夫婦の純潔を一段と輝かせるこの種の規律は愛にとって障害にはなり得ません。それどころか、規律はさらに深い人間的意義を愛に吹き込みます。(このような抑制が)たとえ絶え間ない努力を要求するものではあっても、それは夫婦の徳を高め、彼らを数々の霊的善で満たします。さらに、この徳は家庭に安定と平和の実りをもたらし、その他の種類の問題解決にも役立ちます。それは夫婦の相互に対する優しさと配慮を助長します。それは夫婦が真の愛と正反対である過度の自己愛と戦うときの力になります。それは彼らに自分たちの責任をさらに強く自覚させます」。
回勅のこの部分に触れる人はあまりいないのですが、教皇ヨハネ・パウロ二世はその深い知恵を認める解説者であられます。回勅『フマネ・ヴィテ』について教皇ヨハネ・パウロ二世が考察なさるときに、この部分をしばしば解説・引用なさいます。教皇は性の正しい使用のために「自己抑制」がどれほど大切であるかについて注意を喚起なさり、人間の体と人間人格の意味をセックスに関連づけて説明なさいます。
教皇ヨハネ・パウロ二世は避妊に関する教会の教えについて、それが信仰の「永遠の遺産」の一部であると語っておられます。三十年間も回勅『フマネ・ヴィテ』を無視した結果、わたしたちはこの遺産を浪費することがどれほど愚かしく、危険であるか認識するために、いやと言うほど不愉快な諸結果を体験するに至りました。
『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳