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 回勅『フマネ・ヴィテ』に向けられた敵意が余りにも大きいので、人工避妊が初代教会のころから論争点でなかったと初めて聞いた人はあっけにとられるほどです。一九三〇年八月十四日、英国国教は重大な理由があれば夫婦が避妊することは許されると決定したのですが、キリスト教諸派はそれまで避妊に関して一致して反対していたのです。教皇ピオ十一世は同年十二月三十一日、回勅『カスティ・コンヌビイ』で、避妊は本質的に悪である、というカトリック教会の伝統的教えを確認なさいました。

 一九三〇年以来、この点について論争が絶えなかったであろうとわたしたちは思いがちですが、事実は違っています。この時期の調査によると一九六〇年代初期まで合衆国に住む六五%のカトリック信者は教会の教えに従っていました。ジョン・ヌーナン著の「人工避妊」には避妊に反対する教会の教えの歴史を詳細に伝えています。それによると、教会はその歴史の初めから避妊に関して「常に明白に」反対でした。

 掟の変更を求める要求は、一九五〇年代の終わりごろから避妊ピルが広く入手可能になった一九六〇年代の始めにかけて聞かれるようになりました。一部のカトリック神学者たちもピルがカトリック信者にとって合法的産児制限法であるかもしれないと考え始めたものです。つまり、ほかの産児制限法と異なり、それが性行為の完全性を損なわないと考えたからです。避妊が道徳的に許されるかもしれないと教会内で議論が試みられたのは歴史始まって以来これが初めてのことでした。その間、政治、経済の分野では人口過剰が話題になり始め、大家族を奨励し続ける教会の「政策」が非人道的であると思う人たちも現れ始めました。フェミニストたちが女性にも政治、職業分野に男性と同じく参加する権利がある、と主張し始めたのもこのころです。彼女らは子供を産み、育てることが、過去においてそのような機会の障害になっていた — 子供がいなければ職場での昇進も可能になり、女性の地位が向上する — という議論を繰り広げました。

 教皇ヨハネ二十三世はこれらの問題に関して助言を求め、六人の神学者からなる委員会を設置しました。その後継者教皇パウロ六世は委員会を引き継ぎ、幾組かの夫婦と各分野から多数の専門家の参加を得て、それを拡充し始めました。この委員会の過半数が教会はそれまでの教えを変更すべきであるという意見に賛成しました。委員会の少数意見は、それは人間の法でなく神の掟であるので、教会であってもだれであっても避妊が道徳的に許されると宣言することができないので、教会は人工避妊に関してその教えを変更すべきでないどころか、それを変更することは不可能であるというものでした。委員会のそれ以外の記録も含めて、この票決の結果と勧告の内容は教皇だけが目にするはずでした。委員会が作業を終えたのは一九六六年のことでしたが、一九六七年、委員会の最終勧告も含めてすべての記録は、ロンドンのカトリック雑誌タブレットと米国のナショナル・カトリック・リポーターにリークされてしまいました。

 事情に詳しい人たちはこの委員会のことを心得ており、何年も前から教会の決定を待ち望んでいました。一九六三年から一九六七年にかけて、避妊に関する記事が数多く雑誌に掲載されたものですが、そのほとんどは避妊に賛成する記事でした。例えば、そのころある大司教が書いた本の題名は「避妊と教皇」というものであり、その内容は結婚した人々とか避妊に賛同する人たちの記事を集成したものでした。委員会の報告は疑いなくこのような反対を扇動するためにリークされ、案の定、それは変化を希望する人たちの期待をあおったものです。

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳