教皇ピオ12世回勅
「ハウリエーティス・アクアス」

一、問題の提起

1 回勅公布の機会

 ピオ九世が世界のカトリック教徒の願いを入れて、全教会で至聖なるイエズスのみ心の祝日を祝うよう命ぜられてから百周年になる今日、キリストの時代にもたらされた、豊かな、さまざまの神の賜物について、預言者イザヤが残した、あの象徴的なことばを、わたくしは心の中に自然に思い浮かべるのであります。「あなたがたは喜びをもって、救いの泉から水をくみ取る」(イザヤ12・3)。

 至聖なるイエズスのみ心にささげられるこの信心は、キリスト信者の霊魂をきよめ、天上の慰めをもってその魂をさわやかにし、すべての徳の実践へ励み立たせ、そのもたらすあらゆる恵みは、とうてい計り知れないものがあります。したがって、使徒聖ヤコポの英知にあふれる一節「すべてのよい贈物と、すべての完全な贈物は、光の父から、上から下る」(ヤコボ1・17)を思い起こすとともに、全世界に広がっているこの信心に、計り知れない恩恵があることをわたくしは知るのであります。すなわち、託身されたみことばである、わたくしたちの救い主は天父と人類との間の、恩恵と真理の唯一の仲介者として、その神秘的な浄配である教会に、ことに最近の数世紀の煩わしい労苦、困難に当たり、み心の信心というすばらしい恵みを与えたのであります。

 教会はこの無限の恵みを受けて、自分の創立者キリストに、もっと熱烈な愛を表わし、イエズス・キリストご自身から聞いてしるした聖ヨハネのあの勧めのことばを、より完全に実践することができます。「祭りの終わりのもっとも盛大な日に、イエズスは、立ち上がって大声をあげ、『かわいている人があれば、わたくしのもとに来るがよい、そしてわたくしを信じるものは飲みなさい。聖書にあるとおり、生きる水の川が、かれ(キリスト)のふところから流れ出るだろう』と仰せられた。かれは、自分を信じる人々が受けるはずの霊について話しておられた」(ヨハネ7・37−39)のです。このみことばに耳を傾けていた人たちにとってキリストのふところから流れ出る「生きる水」を、メシア王国を預言したイザヤ、エゼキエルとザカリアのことばやモイゼのつえの一撃で奇跡的に水を流した神秘的な岩と関連づけるのはたいして難しくなかったでしょう。

 神の愛は、至聖三位のうちにおん父とおん子の位格的愛である聖霊に本源を有するものであります。異邦人の使徒パウロが、「わたくしたちに与えられた聖霊によって、わたくしたちの心に神の愛が注がれたのである」(ロマ5・5)と、イエズス・キリストのみことばを繰り返して、信ずる者の霊魂に注ぎ込まれる愛を、この愛の霊に帰しているのは、まことに、もっともなことであると言えましょう。

 聖書は、キリスト信者たちの霊魂のうちに燃え上がらなければならない神への愛と、愛そのものである聖霊との間に、このような密接な関係のあることを、説いておりますが、この関係こそ、至聖なるイエズス・キリストのみ心に対する信心の本質を、わたくしたちすべてに示すものであります。この信心の特徴をよく考えてみますと、それは、貫かれた心臓のいきいきとした象徴のもとに救い主の愛に対する完全な奉献をわたくしたちに求める信心でありますから、確かに、もっともすぐれた礼拝の方法であることがわかります。同じようにまた、この信心の中心は、神の愛に答えて、わたくしたちが神を愛することであるといっそう認めないわけにはいきません。というのは、人間が愛の力のみで、神のみ旨に、完全に自己を服従させるからであります。実に、「主につく者は、かれと一つの霊になる」(コリント前6・17)とあるように、わたくしたちの愛は、神のご意思と一致して、一つのもののようになるからであります。

2 ある看たちの不敬な態度

 教会はイエズス・キリストの至聖なるみ心の信心を、常に高く評価し、すべてのキリスト信者のうちに普及し、盛んになるよう、あらゆる手段をつくすばかりでなく、いわゆる自然主義や、感傷主義などの反対論に対して、この信心を擁護するよう全力をふるってきたのであります。それにもかかわらず、過去、現在に、一部の信者たち、しかも、自分たちがもっともカトリック信仰に徹し、完徳に達するため努めていると公言する人々の間にさえ、この崇高な信心がふさわしい敬意と評価を得ていないことは、まことに嘆かわしいことであります。

 イエズスのみ心の信心が人々の誤謬や怠慢にうち勝って、神秘体の中に浸透してきたにもかかわらず、わたくしのある子らは、まだその信心に対して不満をもっています。わたくしは救い主が教会に委託された聖なる信仰と孝愛の宝を守り、これを管理するよう、特別な神の賢慮によって選ばれました。この責任を感じ、「あなたが神の恵みを知っていたら・・・」(ヨハネ4・10)ということばを借りて、その子らに対し、警告したいと思います。それで、ここに、わたくしは、自分の良心の義務を果たします。

 その人たちは、この信心が、教会や人の精神的な要求に対し、適当でないばかりでなく、有害であるとさえ思う偏見に捕われているのであります。この信心と、教会が承認し奨励はしても、命令はしない種々の信心業とを混同し、これをその本質と思っている人もいないとは申せません。この理由で、み心の信心は、単に各人の好みによって取捨すべき付随的なものであると思っています。また、特に、キリスト教を守り、知らせ、発展させ、あるいは、社会問題に対する教会の教えを伝え、信心生活や宗教事業を推進させようと自分の力と時間と財産を使って、神のみ国のため戦っている人たちにとって、この信心は、重荷になり、無益かまたはほとんど役にたたないと考えている人もあります。近代では、すべて活動のほうが、もっと必要であるというのです。さらに、この信心は、各人の私生活、家庭生活における、キリスト教的生活の育成、更新のため、たいした役割を果たさないと決めこみ、これは、理性と心よりも、むしろ、感情に訴える信心業で、婦女子に適当かも知れないが、教養ある男子にはあまりそぐわないものであると思っている人々もあります。

 また、この信心は、外的に何の効果ももたらさない、いわゆる受動徳、痛悔とか償いなどを主として要求しておりますので、現代の信心を育成するためには不適当だとしている人もおります。現代の信心は、おもに外に働きかける積極的努力、カトリック信仰の勝利、キリスト教的道徳を堅固に保つことの方に向かっていなければならないと考えているのです。実は、現代において信者の道徳生活はご承知のように、思想および行動の真偽の区別を無視し、どんな宗教をも同一視する人々の誤りに傾いているのであります。したがって、非常に残念ですが、信者の道徳生活は、無神論的唯物論や世俗主義に染まっているということができます。

3 み心の信心に対する聖座の尊敬の態度

 以上のような見解は、至聖なるイエズスのみ心の信心を認可し、公布した諸教皇の教えと、全く相反していることは今さら言うまでもないことであります。レオ十三世が、この信心を、「もっともすぐれた信心」であると激賞され、現代、広く、激しく、個人と社会全体を悩まし、惑わし続けている諸悪を治療するための疑う余地ない妙薬をこの信心の中に認められたことを考え合わせると、これが役にたたないものであるとか、今の時代に適性を欠いた信心あるとかどうして主張することができましょうか。同教皇は、「わたくしがあらゆる人に勧めるこの奉献はすべての人に役立つ」と言っておられます。また同教皇は次の訓戒と勧告を、み心の信心について書きました。「そこから久しく社会に固守するあらゆる悪が出るのであります。これを撃退できる唯一のおん者の助けを切に求めるほかはありません。そのおん者は、神のおんひとり子イエズス・キリストをさし置いていったいだれでありましようか。『わたくしたちが救われるこれ以外の名は、人間に与えられませんでした』(使徒行1・12)それゆえ、道であり、真理であり、生命であるおん者によりすがらなければなりません」(回勅「アンヌム・サクルム」)。

 なお、教皇ピオ十一世も、この信心がキリスト教的信心の育成にふさわしいものであると公言され、その回勅の中で言っておられます。この信心の中には、あらゆる礼拝方法と完全な生活への規範が含まれているのです。それは、容易に、いっそう深く主キリストを知るよう人々を導き、そのうえ、熱誠を込めて愛し、より正確に模倣するように人々の心を強く動かすものであります。」(回勅「ミゼレンティシスム・レデンブトール」。

 わたしもまた、先任者に劣らず、この真理の重要性を明らかに認め、証するものであります。そして、わたくしが教皇の座に着いたとき、至聖なるイエズスのみ心の信心がキリスト信者の間に広まり、勝利を得つつあるのを強く思い、この信心により全教会が計り尽くせない救いの光りをくみ取ることを喜び、最初に出した回勅でそれを明らかに示した訳であります(回勅「スムミ・ポンティフィカートス」)。種々の困難、苦しみと、それにもまして言い表し得ない慰めに満たされたわたしの教皇在位の年月を通じ、この信心の実りは、数、および力、またその美しさにおいて決して衰えることなく、かえってその熱を増しました。実際この信心を育てて、現代の要求に一番よく答えようとするさまざまの試みが、幸いにも始められたのであります。すなわち、精神文化、宗教生活慈善事業などを促進させるかずかずの組織がそれであり、歴史、修徳神学、神秘神学等について出された出版物がそれであります。また償いの信心のわざや、特に、「祈祷の使徒会員」の行なっている熱心な仕事もそれを証朋しております。この会員たちの熱烈な活動によって、家庭、団体、宗教施設、それに、ある国の国民全体すらも、至聖なるイエズスのみ心に奉献されるようになりました。そのため、わたしは度々、教書、説教、あるいはラジオを通じて、父としての好意をもって感謝と祝意とを表明してまいりました。

 したがって、このような救霊の豊かな恵み、すなわち、聖霊の息吹と活動により、わが救い主の聖なるいつくしみのみ心から、カトリック教会の無数の子らに流れ来る霊的な恵みを目撃するとき、あなたがたがわたくしとともに、よいものすべての与え主であられる神に、最大の賛美と感謝とを、ささげるよう、父の心からお勧めしない訳にはまいりません。「われわれのうちに行なわれる力によって、われわれのすべての願いと考えより以上に、どんなことでもすることのできるお方に、教会とキリスト・イエズスによって、世世代々光栄があるように。アーメン」(エフェゾ3・20−21)。

4 回勅の目的

 そこで、永遠なる神に対し、果たすべき感謝をささげてのち、わたくしは皆様と教会のすべての至愛なる子らに、この回勅をもって次のことをお勧めしたいのです。至聖なるイエズスのみ心に対する信心の堅固な土台となっている聖書や教父、ならびに神学者たちの教えに源をもつ諸原則を、深く考察することであります。皆さまがこの信心のいっそう深い第一義的本質を、神より啓示された真理の光によって悟るときのみ、この信心の卓越したすばらしさと、その天上の賜物を、正確に、しかもじゅうぶんに評価できると、わたしは確信しているのであります。そして、この信心によって、分かち与えられる限りない恩恵を、心から振り返り、観想するとき、初めて、全教会を通じて祝われるイエズスのみ心の祝日の百年祭を、ふさわしく迎えることができるようになりましょう。

 したがって、神の愛をじゅうぶん悟ることはできませんが、しかし、信者たちがこの信心のまことの意味を、いっそう深く理解でき、その豊かな実りを受けることができるように、人類に対する神の限りない愛を物語る旧新両約聖書の幾ページかを考えたいと思います。さらに、教会の教父や博士たちが残した注釈の主要箇所にわたしはふれてみたいと思います。最後に、神なる救い主のみ心にささげられる崇敬と、おん子および聖三位の人類への愛に対して、返すべき崇敬との間に存する密接な関係に、まことの光明を与えることを、わたくしの仕事にするつもりであります。というのも、この崇高な信心の中心的要素が、聖書と教会の教えから放たれる光によって照らし出されてくるとき、いっそうたやすくキリスト信者たちが「救いの泉から、喜んで水をくみ取る」(イザヤ12・3)ことができると、わたくしは考えているからであります。すなわち至聖なるイエズスのみ心の信心が、教会の内的な、又、外的な生活や活動のうちにさらにまた、典礼中に、占めている特別重要な位置を深く理解できるようになるでしょう。と同時に、キリスト者の群の司牧者たちの望みに従って、各信者は自己の生活改善をなし、霊的効果を納めることができるのであります。

二、旧約聖書に基づくみ心の信心

1 み心への礼拝の根拠

 さて、新旧両約聖書のうちの、この信心に関係のある箇所の意味を納得理解するためには、まず何よりも、教会がみ心に対して礼拝するわけをはっきりさせなければなりません。これに、二つの訳があることは、もうすでに、ご承知のことと思います。第一の理由は、また、イエズス・キリストのおんからだの他部分にもあてはまることですが、この心臓が、人間の最も崇高な部分として、神であるみことばと、位格的に結合していることであります。したがって教会が、人となった神のおん子に崇拝をささげていると同様に、その心臓に対し、わたくしたちは崇敬を表わさなくてはなりません。このことはすでに、エフェゾ公会議と第二回コンスタンチノープル会議で正式に決定宣言されたカトリックの信仰の真理なのであります。

 み心の礼拝を要求するもう一つの他の理由は、神である救い主のみ心に特別な意味であてはまることであります。それは、この心臓がキリストのおんからだの他のどの部分よりも、人類に対する無限の愛を象徴する自然の印になることであります。教皇レオ十三世が指摘されているように、「キリストの愛に応じて愛し合うように促す限りない愛のいきいきした象徴が、み心のうちに見られます」(回勅「アンヌム・サクルム」)。

 その燃える愛の象徴である、人となったみことばの心臓に対し、特別な崇敬をささげるよう、聖書が明らかに何も言っていないことは申すまでもありません。しかし、それは驚くべきことではありません。かと言って、この信心にとって中心的な意味をもつわたくしたちに対する神の愛が新旧両約聖書の中で、人々の感動をそそるたとえをもってえがき出されていることを疑う心要はありません。このようなたとえは、人となられた神のおんひとり子の来臨を預言する聖書の箇所の中に用いられていることを思えば、それらは、このうえない神の愛の象徴、すなわち救い主の拝すべきみ心の予感であったと考えることができるのであります。

2 神の愛を表わす旧約聖書の箇所

 わたしが今取り扱っている問題に関して、神が語られ明らかにされた最初の真理を含んでいる旧約聖書の中から、多くの引用を重ねる心要はないと思います。つまり、ここではいけにえをもって確認し、モーセがその主な掟を二枚の石板に刻み、公布し、預言者たちが解釈した神とその選民との間でかわされた契約を思い起こすだけでじゅうぶんでありましょう。この契約は神の最高主権と、人間の服従の結びをもって保証されたのではなく、より高い愛の動機によって固められ生かされたのであります。イスラエル民族にとっても、神に服従することの第一の動機は、シナイ山の山頂から雷嶋と稲光とをもってかれらの魂を震え上がらせたような、処罰の恐れから出るものではなく、むしろ神に対する当然の愛からでありました。「イスラエル人よ、聞きなさい。われわれの神、主はひとりの主である。あなたは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたくしがあなたに命じるこのことばを、心の中にとどめておきなさい」(申命紀6・4−6)。

 全律法の源泉がこの愛のおきてにあることを、モーセと聖トマスの表現を借りて言えば「大預言者」たちはよく悟っておりました。それで、神とその民との間にあるすべての関係を、神の最高主権をえがくのに、厳然とした表象や、わたしたち皆に要求される恐れを呼びおこすような奉仕、服従から取ったたとえよりも、むしろ父と子ども、配偶者同志のお互いの愛情によって、えがき出しているのは驚くにはあたりません。たとえば、モイゼがエジプト人のくびきから解放された選民についての、あの有名な歌詞で歌ったのを例にとることができます。かれらを解放したのが、神の力であることを示そうと思い、人の魂を深くゆり動かす、次のような比喩を使っています。「わしがその巣のひなを呼び起こし、その子の上に舞いかけるように、神はその翼を広げて、イスラエルを乗せ、その肩の上に負ってくださった」(申命紀32・11)。しかし、聖預言者の中でホセアほど、その民に対する神の絶えざる愛について、はっきりとしかも熱情をもって書き著わした人はいないと思います。簡潔で気力がみなぎった深いことばを使う点、他のすべての小預言者たちにまさっているホセアのことばでは、神はあたかも慈悲深く愛にあふれる父親のように、あるいはまた、自分の名誉を傷つけられた配偶者のように、その選民に対して正しく聖なる愛をお示しになっておられます。裏切りと反逆の極悪の罪を重ねるにつれ、神の愛が減ったからではなく、むしろその愛があるからこそ、受けるべき当然の報いとして、罰せられるのでありますが、このような罰も、不忠実な配偶者や子供たちを勘当したり、離縁したりするためではなく、かれらが自分の罪を償い、自己を清め、新しく強められた愛の絆でもってご自分に結びつけておこうとされるためにほかなりません。「わたくしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたくしはわが子をエジプトから呼び出した。……わたくしはエフライムに歩むことを教え、かれらをわたくしの腕にいだいた。わたくしはかれらを守っているのをかれらは悟らなかった。わたくしはあわれみの綱、すなわち愛のひもでかれらを導く……わたくしはかれらのそむきしをいやし、喜び愛する。わたくしの怒りはかれらを離れ去らせなかったからである。わたくしはイスラエルに対して露のようになる。かれはゆりのように花咲き、ポプラのように根を張るであろう(ホセア11・1、11・3−4、14・5−6)。

 預言者イザヤが神おん自らその選民との間の対話を、次のような形でえがき出しているのを見るとき、それが以上のものとよく似ているのをわたくしたちは知るのであります。「しかしシオンは言った、『主はわたくしを捨て、主はわたくしを忘れられた』と。女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、憐れまないようなことがあろうか。たとえかれらが忘れるようなことがあっても、わたくしは、あなたを忘れることはない」(イヤザ49・14−15)。

 又夫婦の互いの愛のたとえをもって神とその愛する民を結びつけている相互愛のきずなをもとに、歌雅の傑作をつくりあげた詩人が筆をとってえがき出したことばも、またこれに劣らずわたくしたちを感動させるものがあります。「おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。……わたくしはわが愛する人のもの、わが愛する人はわたくしのものです。かれはゆりの花の中で、その群れを飼っています。……わたくしをあなたの心において印のようにし、あなたの腕において印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように、残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、もっともはげしい炎です」(雅歌2・2、6・2、8・6)。

3 旧約に現われた神の愛はみ心の愛を感じさせる

 神のこのようなやさしい忍耐深い愛は、まさに激しく燃え上っていくようにみえるのであります。というのは、イスラエルの民が非行から悪業へと罪を重ねていくのを厳しくいましめられたとしても、神はかれらをまったく見捨てるようなことはないからであります。しかし、この愛は、人間に約束された、救い主キリストのみ心から、いつの日にか万人に注ぎこまれる灼熱の愛、わたしたちの愛の手本であり、新約の基盤である愛の前表に過ぎません。この救い主こそ、数えきれぬほどの罪と悲惨にうちひしがれた人間のうちにおいでになったのであります。そしておん父のおんひとり子であり、「恩恵と真理とに満ちておられた」(ヨハネ1・14)、肉となられたみことばこそ、まさしく神のペルソナと位格杓に結合された人性から、乾いた土地を豊かに潤し、花が咲き、実りある楽園とする「生ける水の泉」を人類にあけ広げることができたのであります。

 あわれみ深い、永遠の神が果たそうと思っていたこのような驚くばかりの愛の計画を預言者エレミヤは次のように言っております。わたくしは限りない愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたくしは絶えずあなたに真実を尽くしてきた。……主は言われる、見よ、わたくしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。……しかし、それらの日ののちにわたくしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわち、わたくしは、わたくしの律法をかれらの中に置き、その心に記す。わたくしはかれらの神となり、かれらはわたくしの民となる、と主は言われる。……わたくしはかれらの不義をゆるし、もはやその非を思わない」(エレミヤ31・3、33・34)。

三、新約聖書に基づくみ心の信心

1 新しい契約は愛の契約である。

 モーセが神と民族との間に結んだ契約はエレミヤが預言した新しい契約の象徴にすぎません。しかし、この新しい契約は恩恵を与える、人となったおん子の働きによって制定された契約であることを福音書からのみ確実に知るのであります。この契約は、以前の契約のように、やぎや小牛の血によって結ばれたものではありません。その従順な動物を前表とした、「他の罪を除きたもう神の小羊」(ヨハネ1・29)の清いおん血によって結ばれたものであります。それゆえ、新しい契約は、このうえもなく崇高、堅実なものであることがわかるのであります。実に、キリストの契約は、昔の契約より、はるかにすぐれた方法で、しかも、奴隷的な精神や恐れに根ざすもではなく、父と子の間になくてはならない愛によって結ばれたものであります。福音史家ヨハネが「わたくしたちはその満ちあふれるところから、恩恵につぐ恩恵を受けたのである。なぜなら、律法はモーセを通じて与えられたが、恩恵と真理とは、イエズス・キリストによってわたくしたちの上に来たのである」(ヨハネ1・16−17)と言っていますように、神の恩恵と真理のあふれるばかりの注入によって養われ、強められた契約であります。

 この「イエズスが愛しておられ」「食事のとき、おん胸によりかかった」弟子のことばは、人となったおん子の無限の愛の奥義そのものに導きます。この奥義のたいへん甘味な観想に、しばらくとどまって思いをめぐらすことは、まことにふさわしく役立つことであります。その奥義について福音書から流れる光に照らされて、わたくしたちもまた、聖パウロの望むところを得て、それを果たすことができるようになるでしょう。「信仰によってキリストがあなたたちの心に住まわれ、そして、あなたたちが、愛に根ざし、愛に基をおくように。あなたたちは、すべての聖徒とともに、(かの奥義のひろさと長さと深さとを理解するであろう。あなたたちは計り知ることのできないキリストの愛を知り、満ち満ちる神によって満たされるであろう」(エフェゾ3・17−19)とエフェゾ信者に書きました。

 購いの奥義は、それ自身おん父に対する正義を果たすキリストの愛の奥義であります。キリストは、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲において人類の罪に対しておん父に限りない贖いをささげました。「キリストは、愛と従順の心から苦しみを受け、そのおん父に対して、人類の罪の償いとして必要であったもの以上のものをささげたのであります」(神学大全Ⅲ ・q・48a・2)贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と神である救い主の慈悲からでる愛の奥義であります。神と人間の間の友交の契約は、アダムの罪によって、楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきたのであります。わたくしたちはその罪を完全に贖うことはできないのであって、無限の功徳をもって、あの友交の契約を回復し、まったく完成なさいました。神なる救い主はわたくしたちに対する無比の愛から、人類の義務および負債と神の権利とを調停なさいました。このようにしてキリストは、わたくしたちの正当かつ完全な仲介者として神の正義とその慈悲の間の絶妙な和合一致を成し遂げられたのであります。これこそいかなるものにもまさるわたくしたちの救霊の奥義の中心にほかなりません。これについて、聖トマスは賢明にも次のように述べております。 「キリストのご受難によって、人間が救われたとは、神の正義だけでなく、その慈悲にもかなっていると言わなければなりません。正義にかなうとは、キリストが人類の罪のために償いをなさったからであります。したがって、人間はキリストの正義により、自由の身となりました。慈悲にかなうとは人間が自分の犯した罪を自分で償うことができないので、神がそのおんひとり子を贖い主として賜わったからであります。これは、神がどんな償いも要求なさらずに、わたくしたちの罪をゆるすより、もっと大きな慈悲の表われなのであります。これをパウロの次のことばで表現することができます。「慈悲に富む神は、わたくしたちを愛されその大きな愛によって罪のために死んでいたわたくしたちを、キリストとともに生かした」(エフェゾ2・4)。

2 み心の三重の愛

 おん父に対し、しかも、罪の汚れを身に受けている人間に対して、人となったおん子がいだかれた無限の愛の「広さと長さと高さと探さとをすべての聖徒とともに」(エフュゾ3・18)理解しましょう。ゆるされる限りそれを正しく把握するのに「神は霊である」(ヨハネ4・24)から、おん子の愛は単に霊的な愛でしかないと考えてはならないのであります。もちろん、神がわたくしたちの祖先とヘブライ民族を愛したのは、この霊的な愛によることは確かであります。詩篇や預言書や雅歌の中で読み取る、人間的親密さ、父らしい愛の表現は、人類に対する神の真実こもった霊的な愛の比喩的印に過ぎません。それに対し、福音書、使徒たちの書簡、黙示録の各頁には、キリストのみ心の愛がえがき出されております。そこでは、ただ単に神の愛が表示されているばかりでなく、神の人間的な愛情も現われています。このことはカトリック信者なら、だれしも確信しているところです。実際、神のおん子は、キリスト教初期の時代にすでにある異端者が主張しているような仮像とか幻の肉体をもって現われたわけではありません。この異端者たちは、使徒ヨハネの荘重な次のことばで非難されるのであります。「欺く者が沢山世に出て、イエズスが肉体をとって来られたキリストであることを宣言しようとしない。これが、欺く者、反キリストである」(ヨハネ二書・7)。おん子は、聖霊の能力によって童貞マリアのいと清き胎内に宿られ、(ルカ1・35)一つの全き完全な人間の本性をご自分のペルソナと結合されたのであります。それゆえに、神のみことばがご自身に結合一致させた人間性のうちに、何一つ人間として欠けているものはありません。精神的な面でも、肉体的な面でも、その人性には少しも変ったところはありませんでした。つまり、その本性は知恵と意思、およぴ、あらゆる他の内的外的認識能力、さらにすべての感覚的欲望と自然的衝動さえ備わっていたのであります。以上のことはすべて、カトリック教会が諸教皇および公会議によって正式に認め決定した教義として、常に教えてきたところであります。「自己(神性)のことであれば、まったく、わたくしたち(人性)のことにおいてもまったく」(S.LeoMagnus,Epist.dogm.“Lectis dilectionis tuae”adFlavianum,Const.Patr.)、「その神性においてのみでなく、人性においても完全である」(Conc.Chalced.a451)、「神は全き人であり、その人間が全き神である」(S.Gelasius Papa traet.Ⅲ )。

 したがって、イエズス・キリストは、真のからだとともに、それに属する一切の感情、特にそのうちにすぐれている愛情をもおとりになったことを凝ってはなりません。同様に、人間がその肉体のすぐれた器官なしに、生活、特に感情生活をなし得ないことから、キリストがわたくしたちとまったく同じ心臓を備えておられたことを認めない訳にはいきません。それで、おん子のペルソナに結合されているイエズス・キリストの心臓は、確かに、愛および他の感情の衝動によって脈打っていたのであります。しかもこの愛は、神の愛に満たされた人間としての意志と、おん子として、おん父および聖霊とともに共有する無限の愛と、完全に一致結合しておりました。キリストのみ心にはこの三つの愛の間のなんらの不調和や対立も存在しなかったのであります。

 神のみことばは、真に完全な人間の本性を取り、さらに、苦しみ、傷を受けることができるわたくしたちと同様な心臓をご自分のために作り備えたのであります。これは、ただ位格的結合の観点からのみでなく、ご託身の極みである人類の贖罪の立場から考えてみないと、ある人にとっては愚かなことになるのでありましょう。実は、十字架にくぎづけられたキリストの姿が、まさしくそのように、ユデア人と異教徒に見られたのであります(コリント前1・23)。聖書とまったく一致するカトリックの信仰の正当な教えが断定しているように、神のおんひとり子が苦しみと死に従属する人間の本性をとった理由は、おもに人類救済の事業を完成するためであります。なぜならば、キリストが十字架にかけられ、鮮血したたる生贄をささげることを自らお望みになったからであります。以上のことを聖パウロは次のことばをもって要約しております。『聖とする者も、聖とされた者も、みな同じおかたから出ている』だから(イエズスは)かれらを兄弟と呼んで恥じられず「わたくしはみ名をわが兄弟たちに告げよう」……と言い、そしてまた、「わたくしと、神がわたくしに与えられた子らとを、見よ」と言われた。子らは、血肉を共に有していたので、かれも同じくそれを持たれた。……そこでキリストは、神への奉仕において、あらわれみ深い忠実な大司祭となり、人々の罪を償うために、すべてにおいて兄弟に似たものとなられる筈であった。かれは自らの試練を受けて苦しまれたので、試練の中にいる者を助けることができるのである」(ヘブレオ2・11−14、17−18)。

3 教父たちの教え

 そして、神から啓示された教えのまことの証人である教父たちは、使徒聖パウロがすでに明らかに述べたところに注目しています。すなわち、神の愛の奥義は、ご託身と贖罪の出発点であるとともに絶頂でもあり、イエズス・キリストが、わたくしたちと同じ朽ち果てる弱い肉体をおとりになったのは、わたくしたちに永遠の救いをもたらすためで、その無限の愛を、はっきりと感覚的な面においてさえも、現わそうとなさったからであると教父の著作のうちに明らかに述べられています。

 聖ユスチノは、聖パウロのことばを繰り返し、「わたくしたちは、永遠きわまりない神から生まれたみことばを、礼拝し、愛する。なぜならば、みことばは、わたくしたちの苦悩をいやす薬を与え、その苦悩を自ら引き受けるために人となったからである」(S.Justinus Apol.)と書いたのであります。また、カパドキアの三教父の中での第一人者である聖バジリオも、キリストの感覚的な情緒は、聖なるものであり、真正なものであると言っています。「まことに真実であり、決して空想でないご託身を裏付けるよう、主は自然的感情をいだいたのである。しかし、ただ、人間の身を汚す聖なる神性に値しない、邪な感覚を、ご自分の身から遠ざけた」(S.Basilius Epist)と。同じように、アンティオキア教会の光であった聖ヨハネ・クリゾストムは、神である救い主が感情の動きを有し、それによって、主が人間性の全体をお取りになったことが明らかになると言っています。「もしキリストが、まことの人間の本性をお取りにならなかったら、悲しみに襲われることもなかったであろう」(S.Joan.Chrys.)と。ラテン教会の教父たちの中から、今日、教会がもっとも偉大であるとたたえる教父のことばを、更に引用したいと思います。そこでまず、聖アンプロジオは、託身されたおん子がこの感情の動きをもっておられたことが、位格的結合から当然起こってくるものであると証言しています。「ちようど、おん子が霊魂を有したがため、霊魂のもつ感情をも所有したのである。神であるおん者は、単に神としては、感動することも死することもあり得ないのである」(S.Ambrosius“De Fide ad Gratia Graianunum”)。また、聖イエロニモは、主が持っておられたこの感情をもとにして、キリストが実際に人間性を取ったことを証拠立てる主要な論証を引き出しています。「わが主は、おん自ら、真に人間の本性をお取りになったことを証明しようと、実際に悲哀をお忍びになったのである」(Super Matth.)。さらに、聖アウグスチヌスは、特に、託身されたみことばの感情と、救世の目的との間にある関係に注意を向け、次のように言っております。「わが主イエズスは、人間のはかない真の肉とその肉の滅びをとったように、人間の弱みである種々の感情をもおとりになりました。これは必要に迫られてなさったことではなく、主の同情的な愛から出たものにほかなりません。つまり、かしらとして、ご自分の体である教会をご自分にかたどらせるためでありました。すなわち、その肢体を聖なる者、忠実な者にするためでありました。これによって、信者たちのだれかが人間としての試練に悩まされ、苦しめられても、それで、自分が主の恩恵から見離されたと思わないでしょう。合唱する人たちが先唱者に和して歌うように、神秘体が自分のかしらの悲しみに倣うためで、その心の動きは罪ではなく、人間性の弱さの印に過ぎないことを悟るでしょう」(P.L.37,1111)。ダマスコの聖ヨハネの次の引用は、教会の教えを簡明に力強いことばをもって説いております。「キリスト全体は、人間のもの全部を受け取り、キリスト全体は、人間のものを全部救うため、全部と統合なさった。そうでなかったら、キリストが受け取らなかったところは救われなかったであろう」(P.G.94,1006)。

 「キリストは、すべてのものを聖化させるために、すべてのものをご自身にお取りになりました」(P.G.94,1081)。

4 三重の愛の象徴であるみ心

 確かに、聖書および教父たちの引用したところ、またここに引用しなかったその他の数々のこれに似た文章から、イエズス・キリストは、感情、情緒などを持っておられたこと、それゆえ、わたくしたちの救いのために人生をお取りになったことが明らかに証明されるのであります。それでも、心臓に対するこの情緒関係は、キリストの無限の象徴をありありとさし示すだけではないのであります。福音史家や他の聖書の著作家は、いきいきし、感激し、あらゆる二重の意思の感情や情緒、また激しい愛、わたくしたちと同じく動かれていた救い主のみ心を、特に詳しい描写で描き出してはいませんが、しばしば、その神的な愛とそれにつながっている情緒の動きについて述べています。すなわち、キリストのおん顔や言葉や態度などに反映していた、欲望、喜び、悲しみ、恐れ、怒りなどを描き出すのであります。そして特に、拝すべき救い主のみ顔は、種々の感情の標識であり、もっとも誠実に写し出す鏡であったことは確かであります。沖でくずれる波のように、その感情はみ心を揺り動かしていたでありましょう。

 ここにもまた、人間の心理とこれと関連するいろいろなことについて、通常の認識経験に基づいて言っている聖トマスの言葉が、よくあてはまります。「怒りから起こってくる動揺は、からだの外部、特に心臓が直接、影響を及ぼす部分、目とか顔とか舌などに、広がっていく」(神学大全Ⅰ ・Ⅱ ・q・48・a4)。したがって、人となったおん子の心臓が、神なる救い主の永遠のおん父と全人類に対する絶えざる三重の愛の主要な印やまたは象徴と当然考えられます。すなわちおん子は、おん父と聖霊とともに分かち合う神的な愛の象徴であります。これはその神的な愛が、神の充満性をかたちをとって宿らせる(コロサイ2・9)人となったおん子のそのはかない、もろいからだを通じてのみ、わたくしたちにあらわれた愛となったからだであります。また、更に、その心臓は、キリストの魂に注がれその忠志を豊かに満たし、燃やす愛の象徴であります。その愛からほとばしり出る行為は、もっとも完全な二重の知識、つまり、至福知識と注賦知識によって、照らされ、導かれたものであります。(神学大全Ⅲ q・9・aa・1−3)。

 最後に、通常の意味でその心臓はキリストの感覚的な愛をさしています。聖霊によって童貞マリアのご胎内に形作られたイエズス・キリストのおんからだは、あらゆる他の人間のからだより一層完全な感情と知覚の能力を備えておられたからにほかなりません(神学大全Ⅲ q・33・a・2)。

 このようにして、聖書の教えと教会信仰についての宣言とは、イエズス・キリストの至聖なるみ心のうちに、このうえない一体性と調和が存することをわたくしたちに教えています。その中に、み心がご自分の三重の愛をもって、わたくしたちの救いを達成するようにとり計らったこともいわれています。したがって、わたくしたちは、この神である救い主のみ心を、キリストの愛の意味深い象徴、またわたくしたちの贖いの証拠として崇敬し観想することができるのであります。また、「わたくしたちの救い主なる神」(ティト3・4)のおんもとに登っていくための神秘的なはしごと、見なすことができるのであります。ですから、キリストのみことばと行動、教えと奇跡、また、特に、わたくしたちに対する愛をはっきりと証明するかずかずのみわざ‥‥例えば、ご聖体の制定、いとも残酷なご苦難とご死去、そのいとも清いおん母をわたくしたちに与えられたおん恵み、わたくしたちのために教会を創立なさったこと、そして最後に、使徒たちとわたくしたちに聖霊をおつかわしになったこと‥‥このすべてのわざを、み心の三重の愛の証拠としてわたくしたちは賛美するほかないのであります。それに、至聖なるみ心の鼓動を、愛をもって黙想するのはふさわしいことであります。この鼓動によって、キリストはその最後の瞬間に至るまで地上の歩みの時を刻まれたのであります。すなわち福音史家がしるしたように「イエズスは、ふたたび大声で叫んで、『すべては成し遂げられた』と言い、みかしらを垂れて、息絶えた」(マテオ27・50、ヨハネ19・30)のが、その最後の一瞬でありました。このようにして、そのみ心の鼓動は止まり、その感覚的な愛は、墓からよみがえり、死を克服するその時まで途絶えたのでありました。しかし、キリストのおんからだが永遠の光遠の光栄の状態に入り、死にうち勝った神なる救い主の霊魂とふたたび合体されてから、また、イエズスの至聖なるみ心は、平和な鼓動を取り戻しました。それからは、もはや決してと絶えることはないのです。同じく、み心は、おん子をおん父に結び、また、全く神秘的なかしらであるキリストを全人類に結ぶ、あの三重の愛をも現わし続けるのであります。

5 全生涯にわたるみ心の愛

 ここでわたくしたちは、以上のすべての敬けんな考察から、あふれるばかり豊かな効果をあげるために、救世主イエズス・キリストの多様な神的人間的感情を、観想したいと思います。今もまた、そしてみ心はこの感情を地上の生涯のみでなく、永久にいだいておられます。福音書の各頁にみなぎる光を受け、この光明に照らされ強められて、キリストの神的み心の奥底に入っていくとき、聖パウロとともに、「キリスト・イエズスにおいて、われわれに与えられる慈悲により、その恩恵の絶大な富」(エフェゾ2・7)を感嘆賛美することができるのであります。

 童貞マリアが、その寛大な一語「フィアト‥なりますように‥」を発した瞬間から、至聖なるみ心は、人間的、神的愛の鼓動を打ち始めたのであります。その時に、使徒パウロが指摘しているように、神のおん子は、「世にはいるとき言われた、『あなたは生贄も供物も望まれない、ただわたししたちのためにからだを準備された。あなたははん祭と罪祭とを喜ばれなかった。それでわたくしは、わたくしについて巻物に書きしるされてあるとおり、わたくしはあなたのみ旨を行なうために来るといった』。……このみ旨によって、ただ一度で完全にささげられたイエズス・キリストのおんからだのささげものによって、われわれは聖とされたのである」(ヘブレオ10・5−7、10)。それから、ナザレトの家庭にあって、特に、いとも甘美なおん母や大工の仕事に精を出していた養父聖ヨゼフと麗しい会話をかわしたときにも同じく、霊的、神的愛とまったく融合した人間的愛情が感動していたのであります。

 そして、前に述べた三重の愛に促されて、キリストは長い旅をなし、人を死から生に呼び戻し、あらゆる種類の病人に健康を授け与え、労苦を担い、幾多の奇跡をなさいました。さらに、汗を流し、飢えと渇きを耐え忍び、夜を徹してその愛する天父に祈り、説教の中では、たとえ話、特に、慈悲のたとえを説明なさいました。ドラグマ銀貨を失った女の話、失われた子羊の話、放蕩息子の話はみなそうです。このようなすべての行ないと言葉のうちに、大聖グレゴリオもいっていますように神のみ心そのものが明らかに示されているのであります。「あなた方が永遠なものに対し、いっそう燃え立つあこがれを感じるために、神のみ言葉のうちに神のみ心を読み取りなさい」。

 しかし、イエズスのおん口から、燃ゆる愛の息吹きとともにみ言葉がほとばしり出ましたとき、そのみ心は、いっそう強い愛によって動かされておりました。たとえば、疲労と空腹に悩んでいる大群衆を目前にされたとき、「わたくしはこの人たちが憐れでならない」(マルコ8・2)と叫ばれました。あるいは、罪によって盲目となり、その結果、滅ぼされるべき最愛の町イエルザレムを見て、「イエルザレム、イエルザレム、預言者達を殺し、つかわされた人々を石で打つ者よ、めんどりが、翼の下に雛を集めるように、わたくしは幾たびも、おまえの子らを集めようとした。しかしおまえは拒んだ!」(マテオ23・37)と仰せられました。それから、商人たちが涜聖の罪を犯して神殿で売買しているのをご覧になったとき、おん父に対する愛と、聖なる憤りが、み心の中で、うち震えていました。そして、この涜聖者達に向かって、次のようにとがめられました。「“わたくしの家は祈りの家といわれる”と書かれているのに、あなたたちは、それを強盗の巣にするのか!」(マテオ21・13)と。

 しかし、いよいよ身に迫ってくる残酷な受難の時を予感され、特別な愛と感動にみ心は動かされました。そして襲ってくる苦悩を厭う自然の気持と、死に対する本能的反発から、「父よ、できれば、この杯をわたくしから取り去ってください」(マテオ26・39)と叫ばれました。また裏切者から接吻を受けたとき、愛と深い悲しみをもってみ心は震えておられました。そのときおっしやったことばこそ不敬不信な恥知らずの心によって、イエズスをその処刑者に渡そうとしている友に対する、慈しみあるみ心が与えた最後の勧告でありましたでしょう。「ユダ、あなたは接吻して、人の子を裏切るのか!」(マテオ26・50、ルカ22・48)。十字架の不当な刑に向かう途上、泣きながらキリストに従う婦人たちに向かって、同情と愛情で一杯となり、仰せられました。「イエルザレムの娘たちよ、わたくしのために泣くことはない、むしろあなたたちとあなたたちの子らとのために泣きなさい、……生木でさえも、そうされるなら、枯木はどうなるだろうか」(ルカ23・28、31)と。

 そして、ついに、神なる救い主は十字架にかけられたのでした。そのみ心は種々の激しい感情に燃え上がるのを感じました。それは、灼熱の愛の感情であり、恐怖の感情であり、慈悲の情であり、強烈な渇望と平静な安らぎの感情でありました。このような感情を、次のみ言葉から明らかに知ることができます。「父よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているか知らないからです」(ルカ23・34)。「わたくしたちの父よ、わたくしの神よ、なぜわたくしを見捨てられたのか」(マテオ27・46)。「まことにわたくしは言う、今日、あなたは、わたくしとともに天国にいるであろう」(ルカ23・43)。「わたくしは渇く」(ヨハネ19・28)。「父よ、わたくしの霊を、み手にゆだねます」(ルカ23・46)。

 しかし、キリストの人間に対するあの最大の賜物、すなわち、聖体の秘跡にあってご自身をお与えになり、そのいと尊いおん母を与え、司祭職の聖なる位をわたくしたちに分け与えられるおん恵みを施すときのその無限の愛の印である聖なるみ心の鼓動を、だれが適切に描写することができましょうか。

 弟子たちとともに最後の晩さんを取る前に、み心は激しい感情にゆり動かされたのであります。というのは、主キリストが新しい契約をご自分の流すおん血によって結び、こうして、おんからだとおん血の秘跡が制定されることを予知しておられたからであります。このみ心の感動を、次のように弟子たちにお漏らしになりました。「わたくしは苦しみの前に、あなたたちともに、この過ぎ越しを食べることを切に望んでいた」(ルカ22・15)。そして、イエズスがパンを取り、感謝して裂き、弟子たちに与えて『これは、あなたたちのために与えられるわたくしのからだである。わたくしの記念としてこれを行ないなさい』、また、食事ののち、杯も同じようにして、『この杯はあなたたちの為に流されるわたくしの血による新しい契約である』(ルカ22・19−20)と仰せられたとき、そのみ心の感動は最高項に達したのであります。

 秘跡であるとともに、生贄であるご聖体と司祭職は、ほんとうに至聖なるイエズスのみ心のこの上もない賜物であります。ご聖体は、秘跡としてわたくしたちに与えられるものであり、犠牲としてキリストご自身が「日の出る所から没する所まで」(マラキア1・11)絶えずおん父にささげる生贄であります。

 至聖なるみ心のいとも高価なもう一つの賜物は、前にふれたように、穢れなき神の母、わたくしたちの愛するおん母マリアであります。救い主の母として、エワの子孫を神の生命にあずからせるにあたり、イエズスとの協力者となったマリアが、まさに、全人類の霊的な母となられたことは、まったくふさわしいことであります。この密接な関係について、聖アウグスチヌスはしるしています。「明らかに、マリアは、救世主の枝体であるわたくしたちの母であります。というのは、頭たるおん者の枝体である信者が教会のうちに生れることができるよう、マリアは愛をもって協力なさったからであります」(聖なる童貞性について・Ⅵ )。

 救い主イエズス・キリストは、パンとぶどう洒の無血の犠牲、無限の愛の印として、十字架上の純血の犠牲を加えることをお望みになりました。そうして、キリストは、ご自分で弟子たちに愛の最高の目標として勤めた崇高な愛の模範をくださいました。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と。ゴルコタの犠牲を通じ、おん子イエズス・キリストの愛は、神ご自身の愛を、意味深く、きわめて明らかに現わしたのであります。「主がわたくしたちのために生命をささげられたことによって、わたくしたちは神の愛を知った。わたくしたちもまた、兄弟のために生命を捧げねばならない」(ヨハネ一書3・16)。実際、わたくしたちの神である救い主は、強制によってではなく、つまり愛によって、十字架にかけられました。まさに、キリストが自ら進んでささげたはん祭こそ、人間にくださった最高の賜物であります。これを、使徒パウロは簡明に「わたくしを愛して、わたくしの為に、ご自身を渡された」(ガラチア2・20)としるしました。

 イエズスの聖なる心臓は、人となったおん子の生命にもっとも深くあずかっており、おんからだの他の器官と等しく、神の恩恵と全能のみ業を果たすための神の道具として、使われたのであります(神学大全Ⅲ ・q・19・a・1)。それゆえ、その心臓は、おん血を流して、教会と神秘的な婚姻を結ぶため、わたくしたちの救い主を動かした広大な愛のふさわしい象徴であることは疑う余地がありません。「教会をおん自らの花嫁にするため、愛をもって、キリストは苦しみを受けたのであります」(神学大全、補足・q・42・a・1・ad・3m)。教会は、救いのおん血の分配者として、わたくしたちの贖い主の傷つけられたみ心から生まれたのであります。そのおん傷口から、すべての秘蹟のあふれるばかりの恩恵がほとばしり出るのであります。ここから、教会の子らがその超自然的生命を、受けるということが聖なる典礼のなかに、読まれるのであります。「貫かれたみ心より、キリストに結ばれた教会が生まれ、……そのみ心から恩恵があふれ出る」(至聖なるイエズスのみ心大祝日の晩課中の賛歌より)。

 このみ心の象徴的な意味について、聖トマスは古代教父たちおよび教会の著作家たちがすでに知っていたところを繰り返して書いています。「キリストのわき腹より、洗い清めの水があふれ出、あがないのおん血が迸り出たのであります。それゆえ、聖体の秘跡にはおん血が与えられ、洗礼の秘跡は水をもって授けられます。しかし、この水は、キリストのおん血の流れから、その清めの力を受けるのであります」(神学大全Ⅲ ・q・66・a・3・ad・3m)と。ここで、兵卒のひとりにより傷つけられ、開かれたキリストのわき腹についてしるされてある言葉は、イエズスのみ心にあてはまるものであります。というのは確かに、兵卒が十字架にくぎづけられたキリストの死去を確認する目的で、キリストの心臓をやりの一つきで刺し貫いたからであります。イエズスが生涯を閉じた後、何世紀もの間、至聖なるそのみ心のおん傷は、神の愛の生ける表象となっております。この愛のゆえにこそ、神はおんひとり子を人間の贖いのために渡され、キリストはカルワリオで自らを流血の生贄としてささげるほど、わたくしたちすべてを熱烈に愛してくださったのであります。キリストは「われわれを愛し、われわれのために、かぐわしい薫りの生贄として神にご自分をささげられた」(エフェゾ5・2)。

 わたくしたちの救い主は、永述の光栄の輝きで包まれたおんからだをもって天上に昇り、おん父の右に座して後も、燃え上がる愛情をもって、ご自分の花嫁である教会を絶えず愛し続けているのであります。キリストは、そのおん手、そのおん足、そのおんわき腹に、輝かしいおん傷の跡を示しております。この傷跡こそ、悪魔と、罪と、死に対してうち勝ち得たキリストの三重の勝利を表わしております。その三つの勝利から生じた限りない功徳の宝を高価な聖櫃であるみ心に保ち、あがなわれた人々に余所無く施し与えておられます。これこそ、慰めに満ちた真理であって、聖パウロは次のように叫んでおります。「上にのぼって、多くのとりこを引き連れ、人々に賜を分けた……下った者は、賜で我々を満す為に、天のいと高きに昇ったそのお方である」(エフェゾ4・8−10)。

 弟子たちに贈られた聖霊の賜物は、イエズスが天に昇り、おん父の右に座して後、最初に与えた寛大な愛のあらわな印であります。十日の後、天上のおん父よりつかわされた慰めの霊は、イエズスが最後の晩さんで約束なさったように、高間に集まった弟子たちの上に下りました。「そしてわたくしは父に願おう、そうすれば、父は、ほかの守護するものをあなたたちに与え、永遠にいっしょにおらせてくださるだろう」(ヨハネ14・16)。おん父と、おん子が、相互に有している愛にまします慰めの霊は、まさしく、この双方からつかわされ、火の舌の形をとって、弟子たちの心に、神の愛と、他の天上の賜物を豊かに下らせたのであります。わたくしたちの心へ注がれたこの神の愛は、同様に、救い主のみ心からも生まれ出るのであります。「知恵と知識とのすべての宝は、(キリストに)隠されてある」(コロサイ2・3)。そして、この愛は、イエズスのみ心の賜物であるとともに、おん父とおん子の霊である聖霊との賜物であります。教会を生まれ出させ、偶像礼拝や、相互の憎しみ、抗争、道徳の腐敗などに沈んだ人々の中にすばらしい勢いをもって、その教会を広げたのは、この霊のおん働きでありました。この神の愛こそ、キリストのみ心とその霊のもっとも貴重な賜物であります。使従と殉教者たちに、あの雄々しいカを与えたのもこの愛であります。この人々はそれに強められ、死をも恐れず、英雄的に福音の教えを宜べ伝え、血を流してこれを証明したのであります。それはまた、教会博士たちにカトリックの信仰を明らかにし、これを守るための熱意を燃え立たせました。この愛は証聖者たちの徳をはぐくみ育て、自己と他人の、永遠の救霊とこの世の幸福に資する立派な善業を行なわせたのであります。そしてついに、童貞者たちに、感覚的悦楽と喜びの心をもって捨てさせ、天上の花婿に対する愛から、自分の身を完全に奉献するよう動かしたのもこの愛でありました。人となったおん子のみ心からあふれ出で、聖霊のおん助けをもってすべての信者の魂に注がれる神の愛をほめたたえるために、聖パウロは、勝利の賛歌を唱えました。この賛歌のうちに、愛のみ国を人々のうちに広めるのを妨げるすべてのものに対する、かしらたるイエズス・キリスト、およぴその神秘体の各成員の勝利を祝したのであります。「だれが、キリストの愛からわれわれを離れさせえよう? 艱難か苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か……しかし、すべてこれらのことに遭っても、われわれを愛してくださったお方によって、我々は勝って、なお余りがある。死も、生命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、その他のどんな被造物も、われわれの主イエズス・キリストにある神の愛から、われわれを離しえないのだと、わたくしは確信する」(ロマ8・35、37−39)。

6 結  び

 従って、救い主の人間に対する今も燃えさかる、計り知れぬ愛の自然な、また、もっとも力強い象徴として至聖なるイエズスのみ心を礼拝することを妨げるものは何もありません。このみ心は、たとえこの世の困難にもはや煩わされることがあり得ないとしても、いまだに生き、鼓動しつつ、神のおん子と一つのペルソナとして不可分に結合され、おん子のうちに、おん子を通して、神の意志と一致しております。従って、キリストのみ心は神と人間の愛に溢れています。しかもわたくしたちの救い主として、おん働きと受難と死去をもって獲得されたあらゆる恵みの豊かな宝庫でありますから、み心は、神秘体の各成員の上にキリストの霊が注ぐ愛の尽きることなき泉であると言えるのであります。

 それで、わたくしたちの救い主のみ心は、ある意味でおん子ご自身を現わし、同時に、神と人との二つの性を示しております。またそれは、単に象徴としてばかりでなく、実際に、あがないの全奥義を要約するものであると言われます。そこで、至聖なるイエズスのみ心を礼拝するとき、わたくしたちは、そのみ心のうちに、そのみ心を通して、神のおん子の人側としての愛とその他いっさいの感情と徳を礼拝するとともに、その永遠な愛をも礼拝します。それは、この二つの愛がわたくしたちのあがない主を動かし、わたくしたちと花嫁である教会のためにご自身を生贄として捧げるに至らせたからであります。そこで、「キリストが教会や愛し、そのために命を与えられた」のは水を注ぐことと、それに伴うことばとによって教会を清め、聖とするためであり、また汚点も皺も、すべてそのようなものの無い、清い、穢れの無い教会を、ご自分にさし出すためであった」(エフェゾ5・25〜27)と聖パウロは書きました。

 キリストが先に教会を愛したように、今もなお三重の愛をもってこの教会を、もっとも熱烈に愛しておられます。その愛は、キリストがわたくしたちの弁護者になるように、そして、取り次ごうとして常に生き」(ヘブレオ7・25)て、おん父より、恩恵と慈悲をわたくしたちのため得られるように促すのであります。キリストのきわまりない愛からおん父の方へ迸り出る、その折りは、決して途絶える事がありません。「キリストは、地上での生活の間」(ヘブレオ5・7)と同じく、天国に勝利を飾る今も、おん父に向かい、力ある祈りをなすのであります。そして「神はおんひとり子をお与えになるほど、この世を愛してくださった。それは、かれを信じる人々が皆滅びることなく永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3・16)と書かれた、あのおん父に対して、キリストは傷つけられ、なお生きるご自分のみ心をさし示すのであります。そのみ心は、かつて生命が絶えてから、ローマの兵卒によって、やりで傷つけられたときよりも、さらにいっそう深い愛に燃えておられます。「その見える傷を通し、見えない愛の傷をわたくしたちが眺めることができるよう、(あなたのみ心は)傷つけられたのであります」(聖ボナヴェントゥーラの作品Vitis mystica.c.Ⅲ .n°5)。したがって、「ご自分のおん子を惜まずに、われわれすべてのために渡された」(ロマ8・32)おん父は、この弁護者の熱烈な愛からほとばしる祈りを聞くとき、疑いもなくすべての人々の上に、豊かな恩恵を注ぎます。

 わたくしは、至聖なるイエズスのみ心の信心のもっとも内的な本質と、そのみ心から湧き出る永遠の富とに関し、その主な点に沿ってお話いたしました。その為に神の啓示の最初の泉である聖書に遡りました。福音の光のもとに、わたくしは、この信心の根本的な要素が、人となられたおん子の、神としての愛、また人間としての愛、そして、おん父と聖霊が罪びとに対しいだかれた愛にほかならないことを明らかにしたと思います。なぜなら、聖トマスが、わたくしたちに教えていますように、至聖三位の愛は、イエス・ズキリストの人間としての意志ならびに、尊いみ心の上に豊かに注がれ、わたくしたちを罪の奴隷から解放するため、おん血を流すよう、駆り立てたのである限り、それは、人間の救いの本源であるからです(神学大全Ⅲ 、q・48・a・5参照)。「わたくしには、受けねばならない洗礼がある。それが実現するまで、わたくしの悩みはどれほど深かろう!」(ルカ12・50)。

四、み心の信心の起源とその進展

 救い主の貫かれたみ心の象徴のもとに、人類に対する神とキリストの愛を崇敬するこの信心は昔から信者の心のうちにあったとわたくしは確信しております。しかし、いっそう明白に驚くべき勢いで全教会に伝播して行ったのは最近のことでありました。特に、主ご自身ある人々に他の霊的な恵みとともに、私的な啓示でこの秘義を現わし、その人々をこの信心の伝達者としてお選びになったときからであります。実際、聖母マリアと使徒たち、および教会の偉大な教父たちの模範にならって、キリストの至聖なる人性、特にその救世のご苦難にあたり、切り開かれたおんからだのおん傷に対し、礼拝と、感謝と、愛の精神を現わしていた熱心な人々がどんな時代にもいたのであります。

 それになお、不信仰者から一転し、信ずる者となったことを現わし、「わたくしの主よ、わたくしの神よ!」(ヨハネ20・28)と叫んだあの使徒トマのことばは、主の傷つけられた人性を通じての、神のおん子に対する信仰と礼拝と愛の表明にほかならないでしょう。

 十字架上のイエズスについて聖ヨハネが引用した、預言者ザカリアのことば、「かれらは、自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見るだろう」(ヨハネ19・37、ザカリア12・10)は、実に、いつの時代にあっても、すべてのキリスト信者について言われたものであります。したがって、全人類を包むキリストの無限な愛に対し、崇敬を表すため、人は、常に救い主の傷つけられたみ心に力強くひかれていました。なお、人となったおん子キリストの神と人との二重の愛のシンボルとして、イエズスのみ心が崇敬されるようになるまでは、一歩一歩漸進的な段階を経なければなりませんでした。

 全時代を通じてこの信心が特に盛んになった時期をかえりみるなら、ただちにこの信心において有名になった人々の名前が思い出されます。この人たちは、修道会に、静かに、しかも徐々に力を得てきたこの信心の推進者と呼ばなければなりません。イエズスのみ心に対するこの信心を起こし、そして絶え間なくそれを進展させていったすぐれた人々の中には、たとえば、聖ボナヴェントゥーラ、大聖アルベルト、聖女ゲルトルード、シェナの聖女カタリナ、福者ヘンリー・スーゾー、聖ペト・カニジオ、聖フランシスコ・サレジオなどの名をあげることができます。なお、聖ヨハネ・ユードは、至聖なるイエズスのみ心に捧げられた聖務を最初に作成した人であります。そのとき、すなわち一六七二年十月二十日、み心の祝日は、フランスの多数の司教たちの認可を経て、初めて祝われたのであります。

 しかし、この信心の推進者の首位に位するのは、かの聖女、マルガリタ・マリア・アラコックであります。マルガリタ・マリアは偉大な熱意に燃え、自分の霊的指導司祭、福者クロード・ドゥ・ラ・コロンビエールの援助のもとに、だいぶ広がっていたこの信心を、信者の感嘆のうちに、完成させたのであります。そしてこの信心に他の信心とは違った点、すなわち、愛と償いの特徴をもたせて形作ったのであります。

 この信心の恐くべき発展は、愛の宗教であるキリスト教の本質とこの信心が緊密に一致していることから主として生まれ出たのであります。これをはっきり理解するには、この信心が発展した時代を顧みるだけで足りるでしょう。したがって、この信心が起こったのは、神がそれを私的に啓示したからでもなく、また、これが教会の中で、突如として起こったのでもありません。もともと、これは、恵みに満たされた信者たちがあがない主の限りない愛のもっとも感動的な証印であるおん傷を、礼拝せずにいられなかったその生きた熱烈な信仰から、萌え出たものなのであります。ですから、聖女マルガリタ・マリアに対する啓示は、カトリックの教義内容に、いささかも新しいものを付加したわけではありません。この啓示の重要性は、わが主キリストが、自らのみ心を現わし、これにより、いと慈悲深い神の愛の奥義を観想、崇敬することを人々に特別な方法で思い起こさせたところにあります。そして、キリストはこの特別な出現で繰り返されたはっきりした言葉をもって、信者がご自分の愛を知り、認めるよう、象徴としてみ心をさし示されたのであります。同時に、現代の教会の困難に対し、慈悲と恩恵の印および保証として、そのみ心を示されたのであります。

 そのうえ、この信心がキリスト教教義の原理そのものから引き出されている明らかな証拠は、聖女マルガリタ・マリアの書きしるしたものを認可するに先立って、聖座がこの信心の典礼を是認していたことであります。したがって、どんな私的啓示よりも、むしろ信者の願いに寛大に応えて、礼部聖省は、一七六五年一月二十五日、ポーランドの司教たち、並びにローマのみ心の大信心会に、典礼上、み心の祝日を祝う許可を与えました。これは、同年二月六日、クレメンス十三世によって認証されました。これを許可したとき、教皇が目ざしていた事は、すでにある信心を完成させ普及させることでありました。そして、それにより、人類の罪のために、自らを生贄としてささげるよう救い主を促した神の愛を象徴のうちに思い出す信心ができるであろうと思ったのであります。

 この最初の認可は特別な恵みとして、ある限られた地城にだけ与えられたものでした。しかし、約一世紀後に、聖座は、いっそう重要な、荘厳な認可を発表しました。すなわち、それが、前述の布告のことであります。一八五六年八月二十三日、礼部聖省がこれを発布しましたが、教皇ピオ九世は、この布告により、フランスの司教及び、殆ど全てのカトリック世界の要請に応えて、み心の祝日を全教会に広め、それが典礼上祝われるように命令なさいました。この事実は、信者の記憶に、よく留めておかなくてはなりません。なぜなら、その日の祝祭の典礼の中で、読まれますように、「かくして、至聖なるみ心に対する信心は、あらゆる障害を押し流して進んでゆく川のごとく、全世界に向って広がって行った」からであります。

五、回勅のまとめ

 わたくしたちが今まで説明してきたところから明らかにされますのは、もし、信者がこの信心の内的な奥義を見きわめたいと思うなら聖書や聖伝および聖なる典礼から、澄んだ高雅な泉の水をくみ取るように、み心の信心の精神をくみ取るべきであります。そこから信心をこめて黙想することによって、養いの糧を見いだし、信仰生活の熱意を増加させることができるでしょう。

 照らされた精神をもって、み心をいっそう深く知ってこの信心を勤勉に実践する信者は、キリスト教の本質であるイエズスの愛の甘味なる知識に、必ずや到達するのであります。このキリストの愛は、キリスト教的生活の真髄であることを、使徒パウロは自分自身の経験からわたくしたちに教えております。「さて、わたくしは、イエズス・キリストの父のみ前に跪こう‥‥父から天と地とのすべての家族が起こったのである。‥‥彼が、その光栄の富に従って、その霊によって、あなたたちの内的な人間を力強く固め、また、信仰によってキリストがあなたの心に住まわれ、そして、あなたたちが、愛に根ざし、愛に基を置くように。あなたたちは、すべての聖徒とともに、かの奥義の広さと高さと深さとを理解するであろう。あなたたちは計り知ることのできないキリストの愛を知り、満ち満ちる神によって満たされるであろう」(エフェゾ3・14−19)。実にイエズス・キリストのみ心こそ、新約の特徴である神の慈悲の充満の溢れのすぐれた映像であります。新約において、「われわれの救い主である神のいつくしみと、人間への愛とが現われ」(ティト3・4)ました。なぜなら「神がおん子を世に送られたのは、世を裁く為ではなくて、それによって世を救うためである」(ヨハネ3・17)からです。

 信者を導く教会は、み心の信心に関する最初の公式文を出した時から、人類に対する神の無限の愛をたたえる愛と償いが、決して迷信や唯物主義に染まっていないと確信してきました。かえって、この信心の根本的な特徴である愛と償いのわざは、救い主ご自身がサマリアの婦人に仰せられた『霊と真理とをもってする礼拝』を完全に実践する信心であると認めてきました。すなわち、「まことの礼拝者が霊と真理とをもっておん父を拝む時が来る、いやもう来ている。神は霊であるから、礼拝者も霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4・23−24)その礼拝です。

 そのため、イエズスの心臓を観想することは、わたくしたちが神の愛の奥儀に入るのに妨げであり、完徳の頂に向かう霊魂の進歩向上を妨げるものであると主張してはなりません。このような誤った神秘主義は、教会によって完全に排斥されています。イノセント十一世の口を通じて、教会は次のような虚偽のことばを発する者たちの説を否認しています。「このようにこの内的な道を踏んでいこうとする霊魂は、至福童貞、諸聖人、及びキリストの人性に対する愛を喚起すべきではありません。それらがすべて感覚的なものである以上、したがってそれに対する愛も、感覚的な愛となるからです。それが聖なる童貞であっても、聖人たちであっても、どんな被造物も、わたくしたちの心を占めるべきではありません。ただ神のみ、わたくしたちの心を所有することを欲せられるのだから」(InnocentiusⅩ Ⅰ .Bullarium Romanum,t.Ⅷ ,p443)この説のように考える者は、キリストのみ心の表徴が、感覚的な愛以上に出ないものであると解釈し、その結果、元来神であるものにのみ捧げられる礼拝をそのみ心の表徴にささげることはいけないと思っております。しかし、このような考え方が、まったく間違っていることがわからない人はいないでしょう。こういう見方では、画像の広範な意味を持つ内容があまりにも狭い範囲のうちに、限定されてしまっているからであります。カトリックの神学者たちの意見と教えは、これとまったく反対の立場にあります。聖トマスは次のように言っています。「画像に対しては、それ自体のために礼拝がささげられるべきではない。ただ、それが人となった神に導く表徴である限り、崇敬の対象となるのである。この表徴に向かう心の動きは、その中にとどまってしまうのではなく、その表徴の表わしている実体に向かうものであるから、わたくしたちがキリストの画像にささげる礼拝は、別に神そのものにささげられる礼拝ならびに宗教徳と異ならないのです(神半大全Ⅱ ・Ⅱ ・q・81・a・3)。それゆえ、救い主がわたくしたちのために耐え忍んだご受難の遺物にしても、それより意味深い十字架上の貫かれたみ心の画像にしても、そのすべてに対して与えられる相対的な崇敬は、ほんとうの意味で人となったおん子自身にささげられるものであります。

 キリスト教の信仰にささえられ、わたくしたちは、キリストの心臓とその自然的な象徴的な意味から、感覚に受け入れられるキリストの愛にまで遡り、それを観想することはふさわしいのであります。また、それ以上一段と高く崇高な注賦的愛を観想し、これを礼拝することができるのであります。ついに、最高までのぼり、人となったおん子の神としての愛に至り、これを礼拝します。なぜなら、わたくしたちは、キリストのペルソナのうちに、人性と神性が結合されていることを信じて、キリストの感覚的な愛と、神として、また人としての二重の霊的な愛との間に存在する密接な相互関係を理解することができるからであります。この三重の愛は、単に神なる救い主のうちにともにあるのみでなく、白然的な結びをもって一致していると考えるべきであります。それは、キリストの、人間としての、霊的な愛、そして感覚的な愛は、神としての愛の類比的な反映であり、その神的な愛に従属しているからであります。しかし、そう言っても、み心のうちに、キリストの神としての愛の象徴そのもの、すなわち、神的な愛のもっとも完全な印があるとわたくしは言うつもりではありません。

 神の愛を被造物から借りた象徴をもって完全に表現し得ません。しかし、イエズスのみ心を崇敬する信者は、多くの罪に汚されていた人間を、人となったおん子の心をもって愛するほどまでに至った神の愛の象徴や足跡の如きものを教会とともに礼拝するのであります。

 この重要かつ微妙な教義に関し、キリストの心臓とおん子のペルソナとを結びつけている自然的な象徴の関係が、まず第一にキリストのうちに行なわれた位格的結合にことごとく依存していることを忘れてはなりません。それで、もし、だれかが、この真理を拒むとすれば、それは一再ならず教会により排斥された謬説を繰り返すにすぎません。というのは、キリストの二つの完全に区別される性が、その一つのペルソナの中に存在するという真理を否定することになるからであります。

 この重要な真理が一度確定されると、わたくしたちは、イエズスのみ心が神のある位格、すなわち、人となったみことばのみ心であると理解できましょう。その結果、み心はおん子がかつていだき、いまもなお、いだいている全ての愛を、わたくしたちに示し、眼前に映し出していることを知るのであります。以上の理由から、み心の信心は、実際にキリスト教を完全に実践する方法と見なされるものであります。キリストがお立てになった宗教全体は、神人である仲介者に基づいています。キリストご自身が、「わたくしは、道、真理、生命である。わたくしによらずには、だれひとり父のみもとには行けない」(ヨハネ14・16)と言われたように、神のみ心は、キリストのみ心によらず、到達され得ないものであります。したがって、至聖なるみ心に対する信心は、根本的にキリストを通じて、わたくしたちに示された神の愛に対する信心であることを容易に認めうるのであります。また、同時に、この信心は、神と隣人に対するわたくしたちの愛を実践する信心であります。換言すれば、この信心によって、わたくしたちに対する神の愛を、わたくしたちは礼拝し、感謝し、その模範に倣おうと努めています。そしてその到達する目標として、その信心の目ざすところは、わたくしたちを神と他人に結びつける愛を、その完成と結実にまでもたらすことであります。こうしてわたくしたちは、日ごとにいっそう熱心に、神である師が、とおとい遺産として使徒たちに残された新しい掟を、忠実に守っていくようになるのであります。すなわち、「わたくしは新しいおきてを、あなたたちにあたえる。あなたたちは互いに愛し合いなさい。わたくしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。わたくしがあなたたちを愛したように、あなたたちが互いに愛し合うこと、これがわたくしの掟である」(ヨハネ13・34、15・12)。この命令こそ、まさに、新しい掟で、キリスト独自のものでありました。聖トマスは次のように言っております。「旧約と新約との相違は、僅かである。『わたくしはイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る』(エレミヤ31・31)とエレミヤが言った。旧約において聖なる恐れと愛に基づいていたこの掟は、新約に依存していました。つまり愛の掟は固有のものとしてではなく、新約への準備として、旧約に属していたのであります」(聖ヨハネ聖福音書註解)。

六、勧  告

 わたくしはこれまで、慰めで満たされるこの立派な信心の純正な本質と、そのキリスト教的にすぐれた点について話してまいりました。主キリストは、聖ペトロがキリストに対する愛の宣告を三度行なったのち、ペトロに最初の教皇職をお与えになりましたが、わたくしはここからわき出る教皇職の責任を深く感じております。そしてこの回勅の結論に入る前に、司教の皆様、並びに皆様を通じてキリストにおけるすべての愛する子らに対し、このもっとも甘美な信心を熱心に発展させるようお勧めしたいのであります。というのは、現代においても、この信心から数多くの益を引き出しうるものと、わたくしは確信しているからであります。

 わたくしは、傷つけられたみ心に対する信心の基礎になっている証明をいくつか述べてまいりましたが、これらの証明を正しく考察するならば、これが、人それぞれの好き好みに従って取捨することのできる通常の信心業ではないことを、誰もがはっきりと理解されるでありましょう。かえってこの信心はキリスト教的完徳達成のため、もっとも有力な助けであるとわかるでしょう。なぜなら、聖トマスが使っている通常の信心の定義「信心とは、自分自身を神の奉仕に関することにささげ尽くす意志に他ならないのです」(神学大全Ⅱ ・Ⅱ ・q・82・a・1)。そして、もしそうであるなら、神の愛にささげられる奉仕以上に、重要で、高尚で、甘味な神への奉仕はありません。また、神の愛に答え、愛ゆえに神におささげする奉仕以上に、神のお気に召すものがはたしてあるでしょうか。というのは、自発的にささげられるどのような奉仕も、ある意味で一つの贈り物であり、愛は、「それによって全ての賜物が与えられ、最初の贈り物である」(神学大全Ⅰ ・q・38・a・2)からです。したがって、より完全に神を礼拝させ、愛させ自分をよりたやすく神の愛にゆだねさせる信心はもっとも高く評価すべきものであります。この信心は、わたくしたちの救い主が自ら、キリスト教徒に勧め、教えられたものであり、諸教皇が教書をもって擁護し、大いに賞賛してきた信心なのであります。ですから、イエズス・キリストによって教会に与えられたこの感嘆すべき恩恵を、過小評価する者はだれでも、無分別な、危険な態度をとり、神に対して反逆するものであるといえます。

 かくして、救い主の要望なるみ心を崇敬する信者は、疑いもなく神に仕える最大の義務を成し遂げると同時に、創造主、贖い主に、自己とその所有するすべてのもの及び、自己の心情とその行ないを奉献します。これによって、「あなたの心を尽くし、魂を尽くし、意を尽くし、能力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12・30、マテオ22・37)という神の掟を果たします。

 そのうえ、信者たちは神に愛と礼拝と感謝とをもって応えながら仕えようとするとき、霊肉上の個人的利益、すなわち、現地のもの、また来世のものに動かされてではなく、神ご自身の善性にひかれて神だけを崇敬するという確信をもちます。もしそうでないとすれば、この確信により、人はすべてに越えて神の愛を崇敬することにならず、み心に対する信心は、キリスト教の真の本質に合致しないものとなりましょう。その理由でこのいとも崇高な信心を誤解し、それとあまりよくないやり方で実践する者は、自己愛と利己主義の傾向が余りにも強いと非難されるのも当然でありましょう。ですから、だれもがはっきりと確信しなければならないことは、至聖なるイエズスのみ心に対する信心にあっては、信心の外面的な行為が第一次的に重要な部分ではないということであります。また、この信心に向かう第一の動機を、キリストが私的出現において約束された恵みに求めるべきでもありません。キリストが人々を動かし、カトリック信仰の主な務めである愛と償いを、より熱心に果たさせるため、そしてそれによって各人の霊的進歩を計らせるため、その約束をくださいました。

 以上のことから、キリストにおけるすべてのわたくしの子ら‥‥すでに救い主のみ心から流れ出る救霊の水をくみ取ることになじんでいる者ばかりでなく、特に好奇心とか、疑いのうちに遠くから眺めている者にも、この信心を喜んで受け入れるように、わたくしは勧める次第であります。この信心が、前にも述べたように、昔から教会に深く根を張り、福音書の中に確固たる根底を有し、聖伝と典礼の教えから公に推奨され、諸教皇からは、数々の惜しみない賛辞をもって宣言せられた信心であることを、慎重に熟考していただきたいのです。実際、教皇たちは救い主の至聖なるみ心の誉れのために祝日を設定し、全教会にこれを広げるだけでは満足せず、全人類を至聖なるみ心に、いとも荘厳に、奉献したのであります(LeoⅩ Ⅲ ,Enc.Annum Sacrum: PiusⅩ Ⅰ ,Enc.Miserentis-simus Redemptor: )。最後に、なお考えなければならないことは、教会がこの信心から、豊かにして、もっとも慰めに満ちた果実を摘み取っていることであります。すなわち、無数の人々がキリスト教に復帰し、多くの人達の信仰が活発となり、信者等が愛深い救い主と一層密接に一致するようになったということであります。このことはみな、最近、益々ひん繋に、しかも、明白に、眼前にあらわれてきたのであります。

 イエズスのみ心に対するこの信心が、キリスト信者の各階級の間にこれほど広汎に普及発展し、これほど熱心に実践されている驚くべき情景を眺めるとき、わたくしは、大きな喜びと慰めに満たされるのであります。そこで、尽きざる善性の宝庫であるわが救い主に、当然の感謝をささげるとともに、わたくしは、聖職者、信者いずれを問わず、この信心を推進するために努力しておられるすべての人々に、父としての心からの感謝を表明せずにはいられないのであります。

 なお、至聖なるイエズスのみ心の信心が、あらゆるところでキリスト教的な徳の実を結んできましたが、この世で戦う教会、および、特に、一般社会が、人類の救い主、教会の神秘的花婿であるキリストのお望みにふさわしい、円満にして完成状態に迄まだ到達していないことを認めない人はないでしょう。というのは、教会の多くの子らが、自分たちの数々の皺と染みによって、母である教会の顔を醜くしているからであり、すべてのキリスト信者が神から召されている聖性の生活を、自分の身にあらわしているわけではありません。父の家を誤って去っていった罪人も、その全部が、そこで、再びあの最上の衣装(ルカ15・22)をまとうため、そして、魂の花婿に対する自分たちの忠誠の保証であるあの指輪を受けるために、戻ってきたわけではありません。異教徒の全部が、いやその大部分の者が、まだ、キリストの神秘体に結ばれていないのです。たいへん残念なことですが、地上の事物の魅力に引かれた結果、善良な多くの人々の神に対する愛情は冷え、あるいは、なくなってしまい、次第にその信仰も消えてしまいました。しかし、わたくしにとって、それ以上悲しいことがあります。あたかもそれは、悪魔に煽り立てられているかのように、特に、昨今、神と神の教会、とりわけ、地上において救い主の代理者、人々に対するキリストの愛の代弁者である教皇に対しての頑迷な不信をいだく人々の公然とした憎しみであります。ご自分のこの世における代理者を通じてキリストの愛は現われていることについて、アンプロジオは、次の有名なことばを書きました。「質問する人は、なんらかの疑いを宿しているからです。しかし、ペトロに質問した主キリストはなんらの疑いも持っておられませんでした。主が尋ねたのは知るためではなく、教えるためでありました。天に昇る前に、主はわたくしたちにご自分の愛の代理者としてペトロを残しておくことを教えたかったのであります」(P.L.15,1942)。

 そして、確かに、神および神の代理者たちに対する憎しみは、神の似姿、または写しとして創造され、天上にあって神と完全、永遠の友愛を楽しむよう定められた人間が犯しうる最大の罪であります。それは、神を憎むことによって、人は最高の善性からまったく離れ去ることになり、それによって、人は、自分と隣人からも、神に由来するすべてのもの、神と一致するすべてのもの、神を享有するようわれらを導くことのできるあらゆるもの、つまり、真理と、徳と、平和と、正義を捨て去るようにしむけられるからであります」(神学大全Ⅱ ・Ⅱ ・q・34・a・2)。

 したがって、不幸にも永遠の神に敵する者となるのを誇りとする人間の数があらゆるところに増加し、物質主義の誤った思想と実践が広がり、欲望が、どこでも野放しにされているのを見るとき、多くの人々の心の中に、キリスト教の最高の掟である愛つまり、真実、完全な正義のもっとも力ある基礎である愛、平和と純潔な喜びの源泉となる愛が冷え切ってしまおうとしているのに、何の不思議も感じません。わが救い主も、預言し、「不義が増すにつれて、多くの人々の愛が冷えるだろう」(マテオ24・12)とおっしゃいました。

 どの時代にも、そうでありましたが、特に現代、個人、家庭、国家、また全世界をこれほどまでも、酷く悩ましているこのすべての諸悪に対し、どこに、その治療薬を発見することができるでありましょう。至聖なるイエズスのみ心に対する信心以上に優れ、カトリック信仰にこれほどまで適切に合致し、現代の教会と人類の要求にこれ以上妥当する信心が、他にあるでしょうか。神の愛そのものにまったく向けられている、この信心以上に高尚で、甘味で、救霊に役たつ勧めがあるでしょうか(Enc.Miserentissimus Redemptor: )。そして最後に、福音の掟を自分の生活のうちに実践していく為に、この信心が養うキリストの愛よりも更に効果のあるものが、他にあるでしょうか。聖霊がはっきり勧めておりますように、この福音の掟以外に、真の平和は全然、成り立ちません。「平和は正義の結果である」(イザヤ32・17)。

 従って、前教皇達の例に従って、わたくしはすべてのキリストにおけるわが子らに、レオ十三世が、前世期の終わりに、全キリスト教徒および自分自身市民社会の救いのため真面目な心をもって配慮するすべての人たちに対して発表された、あの忠告の言葉を、ここで、喜んで繰り返したいと思います。「今日、わたくしたちの眼前に示された、別の神聖な、また、もっとも幸いな前兆をご覧なさい。それは、至聖なるイエズスのみ心であり、……炎の中にあって、比類のない輝きを放っています。わたくしたちは、その中にこそすべての希望をおかなければなりません。また、そこから人々の救いを求め、期待すべきであります」(回勅「アンヌム・サクルム」)。

 キリスト者の名を誇りとするすべての人々、キリストの王国の建設のために熱心に働いている全ての人達が、イエズスのみ心に対するこの信心を、一致と救霊と平和の旗印として戴くことを、わたくしは望んでやみません。しかし、この信心は、キリスト信者が神なる救い主を教会の指導のもとに、たたえる他の信心を排除するものであると考えてはなりません。かえって、イエズスのみ心に対する信心を熱心に実践することは、至聖なる十字架に対する愛を、特別に増加させるものであることは、疑いありません。イエズス・キリストが聖女ゲルトルードや、聖女マルガリタ・マリアに現わしたところによっても明らかな通り、あのみ心の深奥の神秘的奥義にまだ入らないとすれば、十字架につけられたキリストを正しく理解することも決してないということができます。もし、わたくしたちが、イエズスのご聖体のみ心に対する特別な信心を持っていないならば、わたくしたちに、精神的糧としてご自身を与えるようにキリストを促した、あの愛の激しさを理解することも、決してできないでありましょう。レオ十三世のことばを借りるならば、ご聖体におけるみ心の信心の目的は、「世の終わりまでわたくしたちとともに留まる為、み心のすべての富を注ぎ出し、最高の愛の行為であるご聖体の秘跡を制定させるよう促したこと」(Acta Leonis 22,p.307 sq.)を、わたくしたちに思い出させるのであります。なぜなら、「ご聖体の秘跡を制定したキリストの深い愛を見ると、確かに、その制定に及ばしたみ心の影響は弱かったとはいえない」(S.Albertus M.)からであります。

 ついに、神と教会に反する人々の不敬な陰謀に対抗し、家庭および社会を、再び神と隣人に対する愛に向かわせたいとの熱望に動かされ、わたくしは、神の愛を教えるもっとも効果のある方法としてみ心の信心を強調してやみません。この神の愛こそ、個人の霊魂のうちに、家庭および諸国家のうちに立てられる神の国の土台となるべきものであると、わたくしは言いたいのであります。わたくしの先任者は、いみじくも次のように教えています。「イエズス・キリストのみ国は神の愛によって形づくられ、力を得ているのであります。正しい聖なる愛はそのみ国の基礎であり、完成であります。この愛から、完全に自分の義務を果たすこと、他人の権利を侵害しないこと、すべて人間的なものを天上的なものの下におくこと、他のどんなものよりもまさって、神の愛を重んじることなどが流れ出るのであります」(Enc.Tametsi,Acta Leonis 20 p.303)。

 キリスト信者の全家庭と、世界が、イエズスのみ心への信心から、みのり豊かな結果を得るために、信者たちは神のおん母の汚れなきみ心への信心を、この信心に堅く結び合わせるように努めなければなりません。神ご自身は人間の贖罪のみ業にあたって、聖母マリアがキリストと不可分の関係をもって一致することをお望みになったのであります。その結果、わたくしたちの救い主は、聖母マリアの愛と苦しみに密接に結ばれているキリストの愛と苦しみから出るものであります。したがって、マリアを通してイエズス・キリストの神的生命を獲得したキリスト信者が、イエズスのみ心への信心を果たした後に、当然、天のおん母の最愛のみ心にも、尊敬と愛と感謝と償いとをささげるのは、まことに必要なことであります。わたくし自身が、全教会と、全世界を汚れなき童貞マリアのみ心に、荘厳に奉献した、あの記念すべき出来事は、神のみ摂理の、いとも甘味な賢明な望みに沿ったものであります。

 わたくしの先任者ピオ九世が、至聖なるみ心の祝日を、全教会に制定されてから最初の一世紀が上述のように、ことし果たされるに当って、この記念祭が信者たちすべての礼拝と、感謝と、償いをもって、各地において、荘厳に行なわれるよう、わたくしは、切に望んでいます。神の摂理の配慮によって、この信心のたゆみない推進者、先駆者であった聖女の生まれた国には、信者達が愛と祈りとにおいて全キリスト教徒と一致して、特別な熱意と喜びをもってこの記念祭をすることを期待しております。

 もし、信者が、今まで説明した通り、正しくこの信念を悟って、熱心に実行に移すならば、どれほど立派な効果が生じるでありましょう。わたくしは、高い希望をもって、み心への信心からわき出るその豊かな実りを予感しながら、神が効果ある恩恵の助けをもって、わたくしの切願を満たしてくださることを祈っております。そしてまた、神の導きのもとに、今年の祝祭の結果として、み心に対する信者の愛が日ごとに深まり、そのもっとも甘美なる王国が全世界にその範囲を広げていくよう、祈ります。そのみ国は、「真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国」なのであります(王たるキリストのミサ中の序唱より)。

 司教の皆さま、わたくしはあなたがたひとりひとりに、またすべての聖職者、及びその配慮のもとに置かれている信者たち、それから特に、み心への信心を、真心をもって育成し、これを促進させてゆく人々に、霊的賜物の印として、ここに、心より、教皇掩祝を送ります。

一九五六年五月十五日
ローマ・ヴァチカン宮殿において
教皇在位十八年 ピオ十二世