1908年8月4日
司祭叙階金祝にあたって
カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告
教皇 ピオ十世
親愛なる兄弟たちよ、挨拶と教皇掩祝とをおくります。
教皇聖下の第一の聖慮である司祭の聖化
私の心には、「彼等は責任を問われる人として、あなたたちの霊魂を警戒している」(ヘブライ13・17)と、まれにみる壮重さをもって断言している異邦人の使徒の怒るべき言葉が深く刻みこまれています。彼、聖パウロは、この言葉を、長上に対する従順の義務を思い起こさせるため、ヘブライ人にあてて書き送りました。
もちろん、この言葉は、聖会の中で頭立つすべての人にあてられたものでありますが、とりわけ、神の恵みによって、及ばずながら、聖会内に最高の権威を行使する私に対して、あてはまる言葉であります。それゆえ、私は、日夜おのが重責を思い、主の羊群を安全に保護し、これを成長させるために助けとなりうる一切のことを、たえず熟考し、追求しているのであります。
ところで私が第一に気づかっていることは司祭たるものが、あらゆる点でその職責を全うするに足りる人物となるようにということであります。宗教生活の善益と発展とは、ここにこそ期待すべきであると私は確信しているからであります。
ですから、聖職者全体を総観してみますと、その功績は明白で、おびただしいとはいえ、私は、教皇の位についた当初より、敬愛する兄弟である全カトリック教会の諸司教に次のことを切に勧告することを、私の義務であると信じたのであります。すなわち、職責上、他の者の中にキリストを形づくるべき使命を帯びている者の中に、まず、そのキリストを形づくるよう、根気強く、効果的に努力していただきたいということでありました。
司教らが、この務を熱意をもって果たされたことは私もよく知っています。また、どれほどの注意と配慮とを傾けて、聖職者たちの聖徳への養成に専念されたかも承知しています。私はそれについて、司教たちを称賛し、いや、それ以上に、公に感謝の意を表したいと思います。
すべての司祭、特にあまり忠実でない司祭にあてた切なる訴え
すでに、司教らのこの献身的労力によって、多数の司祭たちが、司祭叙階の日に受けた恩恵を、自分の中によみがえらせ、増大させるために、聖なる熱意をもって努力したのを確認して、私は喜びに耐えません。しかしまた、私は、多くの国において、キリスト者の模範とされるに足りない司祭が、見受けられるのを嘆かずにはおられません。当然のことながら、キリスト者は、キリスト教的徳の鑑として、司祭らの上に目を注いでいるのです。私は、この文書をとおして、かかる司祭たちに、病気の愛児を打ちながめて、気づかわしげに高なる慈父の心のような私の心を打ち明けたいのであります。司教らの勧告に加えて、さらに私自身の勧告を発するのは、この慈愛にかられた結果に外なりません。この勧告の目的は、主として、正道を踏みはずすか、あるいは微温におちいっている司祭を改善に導くことであります。しかし、また他の司祭らをも鼓舞し、発奮させるものであることを望んでやみません。聖パウロが美しくも表現しているとおり、各自が、まことに「神の人」(チモテオ前6・11)となり、聖会の正当な期待に応えるため、日毎にいや増す熱心をもってたどるよう努力すべき道を、次に示したいと思います。
これから述べようとすることは、あなたたちにとって、耳新しいことでもなければ、始めて聞くことでもありません。しかし、これらのことを思い出すのは、誰にとっても肝要なことであります。そして、神は私に、これらの言葉が、やがて少なからざる実を結ぶであろうとの希望を与えられるのであります。
私は、あなたたちに懇願いたします。「霊的な思いによって自分を新たにし、義とまことの聖徳において、神にかたどってつくられた新しい人を着なければならない」(エフュゾ4・23−24)と。そして、これは私の司祭叔階金祝に当って、あなたたちが、私に献じうる何よりも美しい、何よりも私の心にかなう贈物となるでありましょう。
私自身、神のみ前に「痛悔の心と謙遜の精神とをもって」(ダニエル3・39)私の司祭としての幾とせを振り返るとき、あまりに人間的に流れたことを遺憾に思うのであります。「すべて主によみされるように、その御旨にしたがって行なう」(コロサイ1・10)よう、あなたたちに勧め、促して、やまないのも、これによって、幾分でも私の遺憾な点を償いうるのではないかと思われるからであります。
司祭のよしあしは全体的影響をもっていること
さらに、この勧告によって、私が擁護しようとするのは、あなたたちの利益のみでなく、カトリック界全体の共同利益をも含むのであります。なぜなら両者は互いに離し得ないものであるからであります。実際、司祭は善くなっても悪くなっても、自分ひとりのために善くなるか悪くなるかすることのできない境遇におかれているのです。司祭の言行、そしてその生き方は、人々の上にどれほどの影響をもっていることでしょう!真に善良なひとりの司祭は、どこにあっても、人々のために何とはかりしれない宝であることでしょう!
I 司祭的聖徳の義務
司祭は世の光 地の塩である
愛する子らよ、では、あなたたちの位が要求している聖なる生活へとあなたたちを励ますことによって、この勧告を始めましょう。
司祭職にあげられた者はみな、自分のためばかりではなく、他の人々のためにもこの聖職を授けられたのであります。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、神に関することについて人間のために任命されている」(ヘブレオ5-1)キリストもこれと同じ考えを述べられました。司祭の活動は何に存するかを示されようとして、司祭を塩と光になぞらえ給いました。ゆえに司祭は、世の光であり、地の塩であります。そして、誰でも知っているとおり、この役割はます、キリスト教真理の宣教によって果たされるのであります。しかし、司祭が言葉をもって教えたところを模範によって立証しないかぎり、かかる聖役は、ほとんど無益に終わることも、また人の知るところであります。このとき聴衆はおそらく「彼らは、紳を知っているというが、そのおこないによって、神を否定している」(チト1-16)と軽蔑していうでありましょう。しかも、それは無理もないことであります。そして、聴衆は教えそのものまでも耕斥し、司祭の与える光をも利用しなくなるでありましょう。
それゆえ、司祭の典型にて在すキリストは御自ら、まず模範によって教えられ、その後言葉によって教え給うたのであります。「イエズスは、はじめから行ない、また教えられた」(使徒1-1)
同様に、司祭が自己の聖化を第一としないならば、決して地の塩であることはできないのであります。なぜなら、腐敗し、汚れているものは、決してものを保存するに適さないからであります。聖徳が欠けているところには、必ず腐敗が忍び込みます。キリストも、同じたとえを続けて、このような司祭を、「味を失った塩」と呼ばれ、「もう役に立たず、外に捨てられて人に踏まれるばかりである」(マテオ5-13)とのたもうたのであります。
司祭はキリストの使者であり友である
私たちが司祭の聖役を果たすのは、イエズス・キリフトのみ名においてであり、自分自身の名によるのではありませんから、これによって、右の真理は一層明らかになるでありましょう。そこで聖パウロも「さて、われわれをキリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと皆は考えよ」(コリント前4-1)と言い、また「そこでわれわれは、キリストから来た使者である」(コリント後5-20)とも言っています。キリストご自身、私たちを僕の中に加えずに、友の中に加えられたのも、また、この理由によるのであります。「これからもう、私はあなたたちをしもべとはいわない。私の父からきいたことをみなあなたたちに知らせたから、私はあなたたちを友人と呼ぶ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行って実を結ぶためである」(ヨハネ15・15-16)
ゆえに、私たちはキリフトの役割を果たさねばなりません。キリストが私たちにお与えになった使命は、これを聖主が志し給うたと同じ目的にしたがって果たさねばならないのであります。そして「互いに欲し、欲せざることを一にするのが堅い友愛の特徴」でありますから私たちも友として「聖いもの、罪のないもの、汚れのないもの」(ヘブレオ7-26)にて在すイエズス・キリストのそれに私たちの情を合わさねばならないのです。キリフトの使者として、私たちは、まず自分自身、聖主のみ教や、み掟を守ることから始めて、人々の心を、このみ教やみ掟に和合させなければなりません。罪の鎖から、霊を解放するキリストの権能に与かっている私たちは、まず私たち自身が、この同じ鎖にからまれないよう、できうるかぎりの努力をつくす義務を負っているのであります。
司祭は祭壇の役者である
世の救いのために絶えまなく新たにされる至聖なるミサの奉献において、特にイエズス・キリストの役者である私たちは、聖主が十字架という祭壇の上で、汚れなき生蟄として、ご自身を捧げられたときのご精神と同じ精神状態の中に身を置かねばなりません。一個の外観、象徴に過ぎなかった旧約時代においてさえ、あれほどの聖徳が祭司に要求されていたとすれば、キリストご自身を生蟄として捧げる私たちに一体いか程のものが要求されることでありましょうか。「では、かかる犠牲に参与するものは、どれほど清くなければならないでしょうか。この御肉を分かつ手、霊の火に充たされる口、かしこみ恐るべき聖血に染まる舌は、太陽の光にもいやまさって、どれほど輝かねばならないでしょうか。」(金口聖ヨハネ福音書注解82、マテオn.5S.Joan.Chrysostomus,Hom LXXXII in Math n5.)
この点について、聖カロロ・ボロメオは聖職者に対する説教の中で、次のように適切に力説しています。「至愛なる兄弟たちよ、主なる神が、私たちの手中に、いかに偉大な聖なるものをゆだね給うたかを思いみるならば、かかる考察は、聖会の奉仕に身を捧げた私たちにそれにふさわしい生活を送るよう、どれほどの力を与えることでありましょう。聖主は御自らと同じく永遠であり、同等である御独子を私の手にゆだねられたとき、ゆだねられなかったものが一つとしてあるでしょうか?聖主は、その一切の宝、その秘跡、その恩恵をも私の手中におかれました。聖主にとって、もっとも貴重な人々の霊魂、ご自分の聖血をもって贖われるほど、ご自身よりも愛したもうた人々の霊魂をも、ゆだね給いました。人々のために、自由に、開けたてのできるようにと、天国さえも私の手にゆだねられました。では、これほどのお恵みをいただき、みいつくしみを受けながら、どうして聖主に対して罪を犯すほど忘恩者になりうるでしょうか?聖主に対して尊敬をかき、聖主ご自身のものであるこの体を汚しうるでしょうか?聖主へのご奉仕に捧げられたこの生涯、この位を汚しうるでしょうか?」
聖徳への招きは、司祭職に向かう全段階にこだまして、響きわたっていること
この聖なる生活については、もう少し詳しく話す方がよいでしょう。この聖なる生活は、聖会にとって、絶え間ない懸念の対象となっているのです。神学校は、この目的のために設立されました。司祭職を希望して、ここで教育される青少年に文学その他種々の学問を授くべきはもちろんでありますが、しかし特に大切なことは、学生にこれらの学問と同時に、幼少のころから、主として信心に関する一切の養成をほどこすことであります。次に、長い期間をへだてて、一段一段と段階を追って志願者を進級させるときにも、聖会は注意深い母のように、聖徳への勧告に労を惜しまないのであります。
ここで、しばらくこれらの段階を、楽しく想起してみたいと思います。
聖なる軍籍に入るやいなや、すでに私たちは、聖会の求めに応じて、「主は私のゆずり、また私の杯にうくべきもの、主は、私の分け前を守られる」(詩編15・5)と正式に誓いました。聖イエロニモは、これを注解して、この言葉によって、聖職者は、「自分自身が、聖主の分け前であるか、あるいは分け前として、聖主を所有している者として、聖主をわがものとして、おのが身も、聖主に所有されるにふさわしい者とならなければならない」(ネポンアヌスへの書簡52n5Ep LII,ad Nepotianum,n5)と警告されているのだといっています。
副助祭の品級を受けるものに対して、聖会は、何と荘重な言葉を述べたことでしょうか。「あなたたちは、今日自ら進んで引き受ける負担が何であるかを、注意深く、繰り返し繰り返し熟考しなければならない。この品級を受けた以上もう二度と決心をひるがえすことは許されない。終生神に奉仕し、その御助によって、貞潔を守らねばならない。」そしてまた「もしも今までは、教会への出入りも怠けがちであったのなら、これからは、ひんぱんにこれを訪れねばならない。今まで惰眠をむさぼっていたとするならば、これからは目覚めていなければならない。今まで不品行であったとしても、これからは貞潔を守らねばならない。あなたたちが託された聖役を考えてもごらんなさい。」
助祭の位を授かろうとする者に、聖会は、司教の口をとおして、次の祈りを神に捧げました。「願わくは、彼らの中に、一切の善徳を豊かならしめ給え。謙譲な権威、不変の慎み、無辜の清さ、霊的規律への忠実さを与え給え。聖主よ、願わくは、御身のみ掟を、彼らの生活の中に輝かしめ、彼らの貞潔の鑑が、人々の心を聖なる模動に動かしめ給わんことを。」
しかし、聖会が、司祭に叙階されるものに与える訓戒は、さらに深く感動的なものでありました。
「かくも崇高な位には、大いなる恐れをもって昇らねばなりません。そして選ばれた者らが、天的上知と非の打ちどころのない品行と絶え間ない正義の遵守によって、真価を表わすよう注意しなければなりません。あなたたちの生活の香りが、神の聖会を楽しませ、あなたたちの説教と模範が、神の家庭である家を築きあげますように。」しかし、すべての訓戒の中で、もっとも切実をきわめているのは、聖会が付け加えている次の荘重な勧めであります。「あなたたちが、とり扱うことにならいなさい。」これは、「キリストにおいてすべての人を完成させるためである」(コロサイ1・28)という聖パウロの教えと一致しています。
司祭に必要な聖徳について、教父ら及び聖会博士らの一致した意見
司祭の生活についての聖会の考えは、前述のとおりであります。とすれば、教父ら及び聖会博士らの意見の一致も、別に驚くべきことではありません。ある人たちは、むしろそれが誇張にすぎると考えるかもしれませんが、注意してしらべてみますと、彼らの教えの中に見出すのは、ただきわめて真実な、きわめて適切なことばかりであります。彼らの意見は次の点に要約されます。すなわち、司祭と、その他の人との間には、その人がどれほど善良な人であるとしても、天地ほどの差異が存すべきであります。したがって、司祭は重大なことにおいてばかりでなく小事においても、少しの非難もあびせられないほどの徳をそなえているよう注意しなければなりません。トレント公会議は、尊敬すべき教父らの断定をおのがものとして、「軽い過失でさえも、聖職者にとっては、きわめて重いものとなるから」(第二二会期改革について、SessXXII de Reform.c.1)これを避けるようにと聖職者に忠告しています。実際、それ自体において、きわめて重いのではありませんが、これを犯す人を考慮して、きわめて重いというのであります。なぜなら、聖職者は、聖堂の建物以上に、「聖なることは、あなたの家にふさわしいことです」(詩編92・5)という言葉をあてはめるにふさわしいものだからであります。
II 司祭的聖徳の特質
惜しみなく献身するだけでは足りないこと
ところで、司祭がこれをもたぬかぎり大きな不幸となるこの聖徳が一体何に存するかを検討することが必要です。なぜなら、これを知らないか、あるいは、これについて誤った観念をもっているものは、皆大きな危険を冒しているかもしれないからであります。
司祭の価値は、ただ身をなげうって、人のためにつくすことにあると思い、あえて教えている人が往々見受けられます。このような人は、その結果、これをもって自己の成聖につくすべき諸徳(このために、彼らが受動的徳と呼んでいる諸徳)は、ほとんど、完全にかえりみず、ただ能動的徳の修得と実行とに、全精力、金奮発心を注ぎつくすべきだと主張するのであります。このような教えは全く誤った有害な謬説であります。
これについて、私の先任者レオ十三世は、賢明な教訓を話されました。(一八九九年一月二二日付、バルチモアの大司教あて書簡、『Testem benevolentlde』「キリスト教的諸徳は、時代とともに変化順応してゆくと主張するものは、『神はあらかじめ知り給う人々を御子の姿にかたどらせようと予定し給うた』(ローマ8・29)という使徒の言葉を忘れているに違いありません。キリストは、あらゆる聖徳の師であり、また模範にてまします。天国の永福にあずかろうと望むものは、誰でもキリストにのっとるべきであります。ところでキリストは、世紀の流れと共に変化し給うのではありません。キリストは、『昨日も今日も同じく、世々も同じである』(ヘブライ13-8)のであります。したがって『私は心の柔和な謙遜なものであるから私にならいなさい』(マテオ11-29)
というみ言葉は、あらゆる世代の人々に向けていわれているのであります。キリストが『死ぬまでしたがわれた』(フィリッピ2-8)み姿を示し給うのは、いつの時代にも変わりがありません。また、『キリストにあるものは、肉をその欲と望みと共に十字架につけたのである』(ガラチア5-24)という聖パウロの格言もいつの時代にもその価値を失っていないのです。」
もちろんこれらの教訓は、すべての信者にあてられたものでありますが、それは一層直接に、司祭にあてはまるものであります。司祭は特に、レオ十三世が使徒的熱誠に燃え立たれて、いいそえられた次のみ言葉を自分のものとしなければなりません。「昔の聖人たちが、実行したように、現代においても、さらに多数の人々がこれらの諸徳を実行することを望んでやみません。昔の聖人たちは、謙遜、従順、節制なとによって、業においても、言葉においても、力をもっていました。そして宗教のためばかりでなく、社会のためにも、最大の貢献をつくしたのであります。」
自己放棄の必要
ここで、賢明なレオ十三世が、特に節制の徳について、述べられたのは、実にもっともなことであるのに注意をひくのもむだなことではないと思います。福音的言い方を用いて、私たちはこの徳を自己放棄とよんでいます。愛する子らよ、それは、司祭の全聖役の精力、効力、効果が、その根源として、特にこの徳の中に、含まれているからです。この徳をなおざりにすると、司祭の言行の中には、およそ信者の心を痛め、目ざわりとなるようなことが現われてくるのです。実際、司祭たるものが、卑しい利益の望みにかられて行動したり、世間の俗事に関係したり、策略を用いてまで、上席を得ようとして、他を軽んじたり、あるいは自然の欲望に負けたり、人々の歓心をかおうとしたり、説得力のある人知の言葉に頼みをおくなどということは皆、キリストのご命令をなおざりにし、「私にしたがいたい人は、自分を棄てなさい」(マテオ16-24)という聖主が課し給うた条件を斥けることから生じる結果に外なりません。
自己の成聖と使徒的奮発心
以上の点を特に強調しつつも、同時にまた司祭たるものの成聖への努力は自己のためばかりであってはならないと注意したいと思います。なぜなら、司祭は、キリストが「出かけて、ご自分のぶどう畑のために雇われた」(マテオ20-1参照)働き人だからであります。したがって、ぶどう畑の雑草を引き抜き、良い種をまき、これに水を注いで、敵が来て毒麦をまかないように警戒するのは、彼の責任であります。司祭は、自己の成聖に無分別に没頭して、隣人のためにつくすべき職務上の義務を一つでも怠るようなことがないように注意しなければなりません。職務上の義務とは、神のみ言葉を説くこと、告解を聞くこと、病人、特に臨終の病人に霊的援助を与えること、無知な人々に宗教教育をほどこすこと、悲しんでいる人を慰めること、迷える人を連れ戻すことなど、一言で言えば、「あまねく地方をめぐって、善を行ない、悪魔に征服されていた人々をお治しになった」(使徒10-38)キリストの模範を、万事にわたって模倣することにあるのです。
しかし、司祭は、これらの聖役を果たすにあたって、常に聖パウロの「植えるものも、水を注ぐものもとるに足りない。ただ尊いのは、生長させて下さる神である」(コリント前3・7)という荘重な教訓を、心に刻みこんでおかねばなりません。私たちは、涙しつつ種をまくことができます。労苦をしのんで手入れすることもできます。しかし、これが萌え出て、期待どおりの実を結ぶのは、一にかかって神とその全能のみ助けによるのであります。人は結局、霊魂の救いのために、神が用い給う道具にすぎないことを、熟考するのはきわめて肝要であります。したがって、神に扱われるにふさわし道具とならねばなりません。では、それには、どのような条件が必要でしょうか。私たちは、自分の生来の長所、または努力して獲得した才能のゆえに、神がそのご光栄をいや増さんがために、私たちの協力を求め給うとでも思ってはいないでしょうか?決してそんなことはないのです。かきしるして、「神は、知恵のある者を恥ずかしめるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥ずかしめるために世の弱い者を選び給うた。有る者を空しくするために、世の卑しい者、軽んぜられた者、無に等しい者を選び給うた」(コリント前1-27−28)とあるではありませんか。
個人の聖徳と実を結ぶ聖役
真に人を神に結ぶものはただ二つであり、人を神のみ心にかなうものとし、神の御憐みのふさわしい役者とするものも、ただ一つであります。それは、聖なる生店と聖なる品行に外なりません。とりわけ、イエズス・キリストの卓絶した知識の中に存するこの聖徳が司祭の中に欠けているとすれば、その司祭は、すべてを欠いていることとなるのです。すぐれた学識(もちろん私は、これを聖職者間に促進するように努めてはいますが)、手腕、能力などの宝は、この聖徳なしにも、むろん、多少の貢献を聖会及び個人に対してなしうるとしても、双方のために嘆かわしい損害の原因となることも、まれではないのです。
これに反して、聖徳の高いものであれば、たとい、もっとも劣っているとしても、神の民の救いのために、どれほどの驚くべき業を企て、これを成功させうるか、わからないのであります。これについての実例は、いつの時代にも乏しくありません。近代にも、ジャン・パプチスト・ヴィアンネの著しい例がみられます。この信者の模範的牧者に、私自身、福者の尊称を授与することができたのは、私の本懐とするところであります。
司祭の理想
型徳のみが、私たちを、その神的召命の要求にかなったものとするのです。それは、世に対して釘づけられた人、また世を自分に対して釘づけにした人、新しい生活に入った人、そして聖パウロの勧告にしたがって、「労働のときも、徹夜のときも、断食のときも、大いに忍耐し、廉潔、学識、寛容、仁慈、聖霊、偽りない愛徳と真理の言葉とによって」(コリント後6-5以下)真に神の役者としての自分を示す人であり、天上の宝にのみあこがれ、隣人を天国へと導くために全力をつくして、働く人であります。
III 司祭的聖徳を修得する方法
一、あらゆる聖徳に不可欠の祈り
ご承知のとおり、聖徳は、恩恵の助力に強められた私たちの意志が生み出した果実であります。したがって、神は御自ら、私たちさえそれを欲するならば、決して不足することがないほどの豊かな恩恵の賜物を準備しておいてくださったのであります。この恩恵は、まず第一に熱心な祈りによって、かちうることができるのです。実際祈りと聖徳との間には、互いに他方なしには存在し得ないほどの密接な依存関係が存します。
この点について、金口聖ヨハネの「祈りの助けなしには、有徳な生活を送ることは、全く不可能であることは、誰の目にも明らかであろう」(祈り忙ついてDe Precatione,orat.1)という意見は、全く真実なことであります。同様に聖アウグスチヌスも次のように結論して、「よく祈ることを知っている人こそ、よく生活することを知っているものである」(注解四Hom IV,ex 50)といっています。
司祭的祈りの模範であるイエズス・キリスト
この教えは、キリストご自身度々の勧告と特に模範によって、一層きっぱりと私たちの心に教え込まれました。実際、聖主は祈るために、荒野に退かれ、あるいは又ただひとり山に登られたのでした。
一夜を祈りに明かされることもありましたし、度々神殿にも上られました。群衆がつめかけて来たときにさえ、聖主は、御目を天に上げて公然と祈られました。ついに十字架に磔けられ、死の苦しみのさ中に在してさえ、聖主は、大いなる叫びと涙とをもって御父に嘆願されたのです。
ですから、司祭が自分の地位をふさわしく保ち、その義務を果たすためには、まず第一に熱心に祈らねばなりません。これを確実な、動かしえない真理と見なそうではありませんか。しかし、あまりにもしばしば、嘆いても余りあることは、司祭が熱心によるよりも、むしろ習慣によって祈り、規定の時間に粗略に聖務を唱え、わずかな祈りしかこれに加えず、その他の時間は、ごくわずかな暇さえも、熱心な射祷によって神に献げようとは考えてもみないことであります。まことに司祭は、他の人々にまさって、「いつも祈れ」(ルカ18-1)というキリストのご命令と聖パウロが切にすすめてやまない「警戒し、感謝しつつ、絶えず祈り続けよ」(コロサイ4-2)「絶えず祈れ」(テサロニケ前5-17)という勧告にしたがう義務を負っているのであります。
司祭の祈りの個人的、使徒的動機
自己の成聖と隣人の救霊の望みにとらわれている霊魂にとっては、神に心をあげる機会が日に幾度とあることでしょう。内心の苦悩、はげしい執拗な誘惑、徳の不足、事業の不振とか不成果、数知れぬ罪や怠慢、聖主の審判に対する恐れ等、すべては切に私たちを刺激して、聖主のみ前に涙を流させ、そのみ助けを求めさせるばかりか、聖主のみ前に容易に功徳を積ましめるのであります。
私たちは、自分自身のためにのみ、泣くべきではありません。いたる所に炎々と波及しつつあるこの罪悪の洪水の中にあって、できるかぎり、神の御憐みを懇願し、そのみ怒りをなだめるのは、司祭に課せられた義務であります。司祭は、その無限の御仁慈によって、感ずべき秘跡の中で、すべての恩恵を惜しみなく与え給うキリストに向かって、絶えず「主よ、ゆるし給え。御身の民をゆるし給え」と祈らねばならないのです。
二、日々の黙想の義務
きわめて大切な点は、毎日一定の時間の間、永遠の真理を黙想することであります。司祭たるものは、重大な怠慢のとがめを受けずに、また、霊魂に害をこうむらせずに、黙想を怠ることはできません。聖なる大修院長聖ベルナルドは、かつての生徒であり、今は教皇の位につかれたエウゼニウス三世に書き送って、最高の使徒職に付随する重大な、無数の激務を口実として、神の奥義についての日々の黙想を決して怠らないようにと率直に、こんこんと説いています。聖人は、きわめて賢明に、黙想の利益を列拳して、この勧めを正当なものとしています。すなわち、「黙想は、そのわき出る泉、すなわち精神を清め、その上、情念を整え、行為を導き、行き過ぎを矯正し、品行を統御し、生活を誠実な秩序あるものとし、さらに神のことや、人のことについての知識を得させます。黙想は、漠然としたものを明確にし、ゆるんだものを引きしめ、散らされたものを集め、隠れたものを吟味し、真理を追求し、真らしいものを調べ、虚偽と欺瞞とをあばくのであります。黙想は、将来の行為を予め調整し、過去の行為を反省し、矯正されていないものや矯正を要するものが一つとして心の中に残らないようにするのであります。その上黙想は、順境にあっては逆境を予想させ、逆境にあっては、いわばそれを感じさせないのであります。すなわちこの二つは、一は剛毅であり、他は賢明であります。」(黙想について第一巻七章De Consid.L1,ch,VII)これこそ、黙想があらゆる点で、どれほどの利益をこうむらせるか、又どれほど絶対に必要であるかということの総括であります。
黙想は、個人の成聖のためにも聖役のためにも必要であること
実際、司祭の果たすべき種々の義務が、どれほど神聖で尊敬すべきものであるとしても、度重なるにつれて、これを果たすものが、もはやその役務にふさわしい宗教的尊敬を払わなくなる恐れもあるのであります。熱心は次第にさめ、容易に微温に陥り、ついにもっとも聖なるものに対してさえ、嫌気を感じるまでにならぬとも限らないのであります。その上、いわば「腐敗した社会のただ中」に生活していくことは、司祭にとって、日常の必要事であります。したがって、度々司祭としての愛徳の業の中にさえ、地獄の蛇のわながかくされていないかと恐れなければならないのです。神に捧げられた霊魂さえ、世俗のちりにふれて汚れるのは当り前のことではないでしょうか。驚くほどのことはないでしょう。
ゆえに毎日、永遠の真理の観想に立ち戻ることは、司祭にとって明らかに緊急、重大な必要事であります。それは、黙想の中から汲みとった新たな力によって、恵魔のすべてのわなに対して、精神を強め、意志を強固にするためであります。
その上、司祭にとって大切なのは、天上のことに向かって、たやすく心をあげる習慣をつけていることであります。司祭は、天上のことを味わい、教え、これを人々の心に刻み込むべき重大な義務をおびています。したがって、その聖役の一つ一つの行為を信仰が鼓吹し、指導するがままに、神に従ってこれを行なうことほど、人間的なものを越えて、その全生活を秩序づけねばなりません。ところで、すべてにまさって、司祭をこのような魂の状態、ほとんど自然的ともいえる神との一致の中に置き、かつ、この状態を維持してくれるものは、日々の黙想の実行であります。これは賢明な人々にとって、これ以上述べる必要もないほど全く明らかな真理なのであります。
念祷を放棄した司祭の悲しい実例
この神的なことについての黙想を重んじないか、これに嫌気を覚える司祭の生活の中に、この真理の・・・悲しむべき・・・証明を見出すことができます。実際かかる司祭の中には、これほどまでも貴重な宝であるキリストの念が消えかかっているのです。彼らは、全く地上の物事に身も心も傾け、つまらないことを追い求めては、くだらないむだ話にふけります。聖役を熱くもなく、不相応にだらだらと果たします。かつては、叙階当時の注油にみたされて入念に聖務を準備し、神を試みる人と相似るところがないように、もっとも適当な時間と、もっとも静かな場所を聖務のために選ぶのが常でした。神の念を味わい知るように務め、詩篇作者と共に賛実し、痛嘆し、喜びに躍り、胸を開いて祈ったものであります。しかし、今は何と変わり果ててしまったのでしよう。同じように、彼らは神聖な奥義に対して抱いていた熱烈な信心を、もはやほとんど失ってしまいました。あの頃は、聖主の幕屋をどれほど愛していたことでしょう(詩篇83-2参照)。聖主の聖卓の傍らにいる、そしてますます数を増す熱心な人々を、ここに呼び集めるのだと考えて心は喜びに打ちふるえたものでした。ミサ聖祭の準備として、どれほど心を清め、愛に燃える魂の祈りを捧げたことでしょう。荘重な礼式を、完全に美しく守りながら、何とうやうやしくミサを捧げたことでしょう。衷心からのほとばしりをもって、感謝の祈りにふけったことでしょう!そしてキリストの芳香が信者の上に流れていくのでした!…愛する子らよ、どうぞ思い出してください。「前の日々を思い出せ」(ヘプレオ10-32)その当時、あなたたちの魂は、聖なる黙想の熱に養われて、燃え立っていたのです。
多忙は黙想を怠る口実とならぬこと
この「心の中で再思三考すること」(エレミア12-11)を嫌うか、あるいはこれをなおざりにする人々の中には、それよりくる内心の貧しさを隠そうともせずに、自分は隣人に最大の奉仕をするため、聖役の渦中に全く身を投じきっているとの口実のもとに、言いわけを試みるものが無いわけではありません。
何とあわれむべき誤りでしょうか?神と物語る習慣をもたない彼らは、人々に向かって、神について語ったり、キリスト教生括についての勧告を与えたりする場合、その言葉には、神の息吹が少しもこもっていないのです。福音のみ言葉も、彼らの中にあっては、ほとんど死んでいるのも同然であります。彼らの言葉は、それがどれほど賢明で雄弁だとほめそやされていようと、少しも善き牧者の声音をしのばせません。草がそれを聞いても為になりません。いたずらに響きわたり空しく流れるばかりであります。時としては、宗教をはずかしめ、善人をつまずかせる悪例とさえなりうるのです。
これは、その他の活動分野においても同様で、実のある成果を少しも生じません。たとい生じたとしても、それはほんの一時的なものにすぎません。なぜなら、「自ら謙る者の祈り」(集会書35-21)が豊かに呼びくだす、天上の露が欠けているからであります。
ここで、私は、有毒な新説に影響されて、あえて前述したこととは反対の意見をもち、祈りや黙想にあてられた時間を、失われた時間のように考える人々の態度を深く嘆かずにはいられません。ああ、何と悲しむべき盲目でしょうか!願わくは、彼らがまじめに自己を糾明して、祈りをなおざりにし、これを軽視する結果が何であるか認めますように。実際、その結果は何でありましょうか?それは苦い果実を生じる片意地な倣慢であります。父としての私の心は、これを思い出させることを望まず、また、これを完全になくしたいと思っています。
念祷への切なる招き
神よ、この願いを聞き入れ給え!迷える者の上に慈しみの御目を注ぎ、「恩恵と祈りの霊」を豊かにくだし、おのが迷いを痛悔させ、誤って踏みはずした元の道に快く立ち戻り、万人の喜びとなって、以後は一層の慎重をもって、その道をたどらせ給わんことを。その昔の大使徒のように(フィリッピ1-8参照)、どれほど私が、イエズス・キリストご自身の心をもって、彼らが残らず立ち戻ってくることを望んでいるか、これは神が証し給うところであります。
愛する子らよ、ゆえにあなたたちは皆、私のすすめを深く心に刻みなさい。それは、「注意し、警戎し、かつ祈れ」(マルコ13-33)という聖主イエズス・キリストの勧告を繰り返したものに外なりません。敬虔に黙想するために、各自は、それぞれの才能を働かせ、度々「主よ、祈ることを教えてください。」(ルカ11−1)という叫びを繰り返しつつ、深い信頼をもたねばなりません。私たちには、黙想しなければならない特別な理由、しかもきわめて重大な一つの理由があります。すなわち、黙想の中から、賢慮と徳のきわめて大きな力を汲みとることがあります。それは、あらゆることの中で、もっとも困難な霊的指導のために、私たちにとって、きわめて有益であります。
この点について、聖カロロは、次のような記憶すべき司牧上の勧告を与えています。「兄弟たちよ、すべての聖職者にとって、業の前にも、間にも、後にも念祷ほど必要なものはないのを悟ってください。「我は歌い、しかして悟りを得ん」(詩篇100・1-2)と予言者は、申しました。おお兄弟よ、秘跡を授けるときには、何をなしているのかを黙想なさい。ミサを捧げるときには、何を献げているのかを黙想なさい。聖務を唱えるときには、誰に何を語るのかを黙想なさい。霊魂を指導するときには、彼らがいかなる聖血によって清められたのかを黙想なさい。」(聖カロロ・ボロメオ聖職者への談話)
したがって、聖会が私たちに、「主の掟を黙想し昼も夜もそれを思う人は幸いである、そのなすところは皆、栄える。」(詩篇1・1以下)というダビドの信仰の言葉を度々繰り返させるのは、全く当然なことであります。
最後に、他の動機におとらぬほどに高尚な今一つの黙想の実行を励ます動機を述べましょう。司祭は、「いまひとりのキリスト」と呼はれています。そして、その受けた権能によって、実際そうなのでありますから、キリストの御行ないの模倣によって、いよいよいまひとりのキリストとなり、またそう見えるようになるべきはないでしょうか。「私たちの第一の努力はイエズス・キリストのご生活の黙想でなればならない。」(イミタチオ・クリスチ1-1)
三、霊的読書
霊的読書は、司祭の聖役に欠くことのできない糧であること
司祭が、神の奥義の日々の黙想をすると共に信心書、特に霊感によって託された聖書を絶えず読むことはきわめて大切であります。これは、聖パウロが、「読書に従事せよ」(チモテオ前4-13)といってチモテオに命じたことであります。同じく、聖イエロニモもネポチアヌスに、司祭生活について教えるに当って、「決して聖書を手放してはならない」と切にすすめ、その理由を次のようにあげています。「あなたが、教えねばならないことを学びなさい。教義に基づいた思想を修得なさい。それは健全な教えにしたがって人々を勧め、反対を唱える者に反駁しうるためであります。」まことに絶えず、忠実に読書を続けていくことは、司祭にとって、何と為になることでしょう!かかる司祭は、何と味わい深くキリストを説くことでしょう!聴衆や精神を柔弱にし、これにおもねる代わりに、これを引き立てて唇に向かわせ、天的事物への望みを起こさせることでしょう!
霊的読書は、司祭自身にとって信頼のおける忠実な友の声であること
愛する子らよ、「あなたたちの手中には、絶えず聖書がおかれているように」(第58の書簡パウリヌス宛 n6,EP LVII ad Paulinum)という聖イエロニモの教訓は、他の方面から見て、特にあなたたちの個人的利益のために役立ちます。
卒直に忠告し、良い勧めをもって助け、戒め、励まし、迷いより引き戻す友の声が、その友の心に及ぼす限りない影響を知らない人があるでしょうか?「真の友を見出したものは幸いである」(集会書25-12)「これを見い出したものは、宝を見い出したのである。」(同6-14)ところで、私たちは、信心書を真に忠実な友の中に数えるべきであります。なぜなら、信心書は、私たちの義務や、正当な規律の掟などをきびしく私たちに想超させ、心の中に、とかく消えがちな天上の声を呼びさますからです。また麻痺しかけた良い決心をゆり起かし、作為的な平穏をかき乱します。あまり芳しくない愛情や、ひそかな愛情を咎め、度々油断している者を襲う危険をあばき知らせます。これらのよい務を、信心書という友は、きわめて慎重に、誠意をこめて果たしてくれるのです。それは単なる友ではなく、最良の友と言いうるほどです。私たちは、この友を望みのままにすることができます。彼らは、いわば私たちのそばにつきそい、どのようなときにも、私たちの魂の必要に応ずる用意ができているのです、彼らの声は、決して無情ではありません。その忠告は、決して利欲に基づいていないのです。その言葉には決して遠慮がありませんが、また偽りもないのです。
良い読書と悪い読書の結ぶ実
多数の、また注目すべき実例が、信心書のもつ、きわめて有益な効果を立証しています。しかし、これは、特に聖アウグスチヌスの例の中に、明らかに現われています。彼にとって、読書は、彼が聖会のためにつくした限りない功績の出発点となりました。「とって読みなさい。とって読みなさい…私は(聖パウロの書簡を)とって開き、黙って読み始めました…平和を与える光が、私の心にさし込んだかのように、私の疑惑の闇は、ことごとく消え去りました」(告白録8巻12章)
反対に、悲しいことに今日では、聖職者の中にさえ、次第に疑惑の暗に包まれて、世俗のよこしまな道に迷いこむ者が往々にして見られます。それは主として、彼らが聖書や信心書よりも、微妙な誤謬や腐敗などをみだりに撒きちらすあらゆる種類の書物や新聞を好むからに外なりません。
愛する子らよ、自分自身に気をつけなさい。壮年の、または老年の経験を頼みとしてはなりません。より効果的に共通善をはかりうるであろうとの、空しい希望に欺かれてはなりません。聖会の掟が定めた限界や、賢徳や自己に対して抱くべき愛が教える境界を越えてはなりません。実際、一度この毒に心がかぶれた者が、この毒のひき起こす不幸な結果を免れうることは、きわめてまれなのであります。
四、良心の糾明
さて、司祭が、霊的読書または超自然的真理の黙想から期待する利益は、これに良心の糾明を加えるならば、より豊かなものとなるに違いありません。この糾明は、読んだり、黙想したりしたことを敬虔に日常生活の中に実行に移すよう努力したか否かを知らせてくれます。
このことについては、金口聖ヨハネが、特に司祭にあてて与えた次のすぐれた教訓にまさるものはないと思います。毎日、夜に入るや、眠りにつく前に、「あなたの良心を法廷に出頭させ、これに報告を要求なさい。一日の間に何かの悪い意向を抱いたならば…これを掘り出し、引裂き、償いを課しなさい。」(詩編注解4-8)
忠実に糾明を行なうべき理由
キリスト教的修徳のために、良心の糾明は、何と適当で、効果的な修行でありましょう。もっとも経験にとんだ霊生の師らは、最良の理由をあげて、このことを明らかに証明しています。ここで、聖ベルナルドの規則の中から、次の有名な一節を引用したいと思います。「あなたの魂の清さについての勤勉な調査官として、あなたの生活を日々の糾明に服せしめなさい。何を得、何を失ったかを注意深く調べなさい…自分を知るように努めなさい…すべての過失を目前に置きなさい。他人の面前にいるように、あなた自身の面前に身を置きなさい。こうして、あなたの胸を打ちなさい。」(聖なる黙想5章・日々の糾明について)
実に、この点についても、「この世の子らは、光の子らよりも巧妙なものである。」(ルカ16-8)というキリストのみ言葉が、確認されるのは何と恥ずかしいことでありましょうか!彼らが、どれほどの熱をこめて、その業務に従事するかを見てごらんなさい。なんと度々収支を清算し、どれほどの注意をこめて正確な計算書を作ることでしょう。どれほどその損失を嘆き、これを償おうと奮起することでしょう。ところが、私たちは、名誉を得、富を増し、学識によって、ひたすら光栄と名声を得ようとの望みには燃えているとしても、あらゆる事業の中で、もっとも重大で、もっとも困難な聖徳の修得ということになると、これをいやいや無気力に取り扱っているのではないでしょうか。かろうじて時たま、潜心し、自分の良心を調べてみる位ではないでしょうか。そこから、聖書に記されている怠け者のぶどうのように、霊魂はますます荒れるばかりであります。「私は、怠け者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばをとおってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石垣はくずれていた。」(箴言24・30-31)
経験からの教訓
私たちのまわりに、司祭の徳をさえ危うくする悲しむべき悪例が増してくるにつれ、事態はいよいよ感化していきます。それだけ、警戒と勇敢な努力を日増しに倍加していかねばなりません。
度々、自分の思い、言葉、行ないをきびしく糾明している人は、悪を憎んで、これを避ける、より強い力をもっていると同時に、より熱心に善を望むことは、経験によっても明らかであります。
同じく、正義が判事となり、良心が被告であると同時に告発者ともなって、その前に出頭するこの法廷を避けようとする者は、概して、多くの損害に身をさらしていることも、経験によって示されています。かかる人の中に、キリスト者があれほど尊重しているあの慎みや、特に司祭にふさわしいあの霊魂の細やかさを求めてもむだであります。この慎みは、最少の過失をさえ避けさせ、この細やかさは、神に背き奉ることは、どれほどささいなものでも、これを恐れさせるのであります。
良心の糾明と告解の秘跡
その上、この怠慢や自分自身を省みないことは、時として、キリストがそのたぐいない御憐みによって、もっとも効果的に、人間の弱さをいやすために定め給うた告解の秘跡をさえ、なおざりに付するまでに至らしめるのであります。
熱心に燃えた説教によって、人々を罪から遠ざけながら、自分自身のためには罪を恐れず、がんとして過失の中にとどまっている司祭、霊魂の汚れを、秘跡によって、すぐに洗い清めるようにと他人にはすすめもし、促しもしながら、自分では、この秘跡にあずかることを何ケ月も延ばすほど、無頓着な司祭、他人の傷に、救いの油とぶとう酒とをそそぐ術を知りながら、自らは傷を負ったまま路傍に倒れたきり、すぐ近くにいる兄弟の救いの手を求めようとしない司祭、このような司祭がまれでないことは、否定できませんし、またこれを痛く嘆かねばなりません。ああ、これから、神と聖会に対しては、どれほどの侮辱、信者に対しては、どれほどの害毒、司祭職にとっては、とれほどの恥辱が生じたことでありましょう!そして今日もなお生じつつあることでしょう!
己の召命の要求に不忠実な司祭は禍いであること
愛する子らよ、私は良心上の義務によって、これらのことを思う度に、憂愁に満たされ、思わず嘆息がもれるのであります。己の職務を尊ばず、聖主のために聖となるべき身をもちながら、おのが不忠実によって、神のみ名を汚す司祭は、何と禍いであることでしょう。最良のものの腐敗は、最悪であります。「司祭の位は崇高であります。しかし、一度罪を犯せば、その失墜は、はなはだしいのであります。司祭の進歩を喜びましょう。しかし、その堕落には戦慄しましょう。頂に達したものが与える喜びよりも、高みから落ちた者の与える悲しみの方が大きいのです!」(聖イエロニモ・エゼキエル注解第13巻44章30節)
ゆえに、我を忘れ、祈りの熱を失い、おのが魂に霊的読書の糧を与えるのをいとう司祭は、禍いであります。おのが良心の答めの声に耳を傾けようと自己を反省しない司祭は、何と不幸でありましょうか!悪化するおのが魂の傷も母なる聖会の嘆きも、この不幸な司祭の心を動かしません。ついに、この恐るべき威嚇の叫びが、彼の頭上に発せられるまでは。「この民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないようにするためである。」(イザヤ6-10)
愛する子らよ、慈悲に富み給う神が、あなたたちのひとりひとりを、この悲しい予言から遠ざけ給いますように。誰に対しても苦い感情を抱かず、すべての者に対して司牧者の愛と父の慈愛とにみちている私の心を神は照覧し給うのであります。「主イエズス・キリストの御前にあなたたち以外の誰が、我々の希望、我々の喜び、我々の誇りの冠でしょうか。実にあなたたちこそ、我々の誇り、我々喜びであります」(テサロニケ前2-19)
IV 司祭的徳
今、神の思召しによって、聖会が何と困難な時代に遭遇しているかは、あなたたち自身、何処にいるとしても目撃しているとおりであります。同じくあなたたちが負っている義務が、どれほど神聖であるかを考えてごらんなさい。そして聖会から、これほど崇高な位をうける名誉を得た以上、試練の中にある聖会の傍らにとどまり、これを援助することに努めなさい。
それゆえ、今はかつてなく聖職者には、並々ならぬ徳、模範的で熱心な徳、活動的でキサストのためには、多くをなし多くを忍ぶ覚悟の徳が必要とされています。私が神に求め、あなたたちのすべてに、またひとりひとりに切に願うところは、これ以外にないのであります。
貞潔
ゆえに、カトリック司祭職の最もうるわしい飾りである貞潔が、あなたたちの身に、不変の輝きを放っていますように。この徳の光によって、司祭は、天使と似たものとなり、かくて、司祭は、これによって信者の尊敬に値するものとなり、より多くの救いの果実を生むに適したものとなるのであります。
従順
聖霊が聖会の統冶者として立てられた人々に対して、司祭が公に約束した従順と尊敬は、絶えず強化され、増加されていくべきであります。わけても精神と心が、日増しに、聖座に対して当然つくすべき尊敬にみちた忠誠のきずなを、ますます固いものとしていきますように。
愛徳
あなたたち一同の間にみなぎって欲しいのは、何事にも自分の利益を求めない愛徳であります。こうして、絶えず人間を悩ます、刺すような嫉妬の情と貪るような野心の情を抑えた上、あなたたちの全努力は、兄弟約競争心の中に、神のご光栄の高場のために、一つに集中されますように。
あなたたちの愛徳の恩恵を待っている者は、あの数知れない病人、盲人、らい者、中風者などの不幸な人々の大群、特に今日、八方から腐敗の機会とわなとに囲まれている無数の青年らであります。しかも、この青年らは、社会と宗教との希望なのであります。
使徒的精神
公教要理を教えることばかりでなく、もちろん、このことも、ここでもう一度切にすすめてやみませんが・・・賢明と奮発心とが示唆するあらゆる手段を講じて、すべての人につくすことにも、奮励努力しなければなりません。あなたたちの聖役は、助けること、保護すること、いやすこと、なだめることにあるのです。もはや霊魂をイエズス・キリストのためにかち得るか、これを聖主のもとに忠実にとどまらせることのみを熱望し、これ以外の目的をもってはなりません。ああ、キリストの敵対者は、無数の霊魂を亡ぼそうと、どれほどの疲れをしのび、なんたる確信をもって活動しつづけていることでしょう。
カトリソク教会は、司祭らが、キリスト教的平和の福音を告げ、未開の民に、救霊と文明とをもたらす、あの称賛すべき献身を、何よりも喜ぶと同時に誇りとするものであります。彼らの数知れない労苦によって、時としてはその流血の値によって、キリストのみ国は日毎に拡張され、カトリックの信仰は、新しい勝利の光に、いよいよ輝きを増していくのであります。
離脱と犠牲の精神
愛する子らよ、あなたたちの献身から出た種々の愛徳の業が、嫉妬や非難や中傷などによって、報いられることがあったとしても・・・これは度々起こることでありますが・・・決して悲しみに打ちひしがれてはなりません。「善を行なうことに倦きるな」(テサロニケ後3-13)
むしろ、使徒らの模範にならい、キリストのみ名のために、非常な恥辱にあってもこれを忍び、「呪われては祝しつつ、喜んで行った」(コリント前4-12)人々、数の上でも、功徳の上でも新しいこの人々の群れを、目前に仰がねばなりません。
なぜなら、私たちは、聖人らの子弟であるからであります。彼らの名は生命の書の中に輝き、聖会はその功績を讃えています。「私たちは自分の光栄に汚点をつけるな。」(マカベ前9-10)
司祭的完徳についての勧告
すべての聖職者の間に、司祭的精神が新たにされ、強化されたとき、私が提供するその他の改善案は、それがどのようなものであろうと、神の御助力によって、ずっと効果的なものとなるでありましょう。
したがって、私は、すでに述べたところに加えて、司祭職の恩恵を保ち、これを養うために助けとなる二・三の実際的勧告を述べるのがよいと考えるのであります。
毎年の心霊修業と毎月の静修
まず第一に、加えたいのは、一定の期間、霊魂が心霊修業に専念する黙想会であります。誰ひとりこれを知らない者はなく、皆その有益性を認めてはいますが、しかし一様にこれを実行するには至っていません。できうるかぎり、毎年個人的にあるいは共同で、これを実行すべきであります。通常、共同で行なわれる方が、より効果的でありますが、それには、教区司教の規定にしたがわなければなりません。私自身は、かつて同じ考えから、ローマ在任の聖職者の規律に関して、いくつかの決定を下した際(一九〇四年十二月二七日、ローマ司教総代理枢機卿あての書簡 experiendo)すでにこの実行の利益を称えておきました。
次に毎月一度、個人的あるいは共同で、数時間これと同様の静修を行なうのも、同じく霊魂にとって有益であります。この習慣が、司教の奨励をもって、時としては、その司会のもとに、所々で取り入れられたのを見るのは、私の本懐とするところであります。
司祭の団体への加入
司祭らにすすめたい今三のことは、司教の認可と指導のもとに、司祭らが互いに兄弟にふさわしく、より密接な一致を保っていくことであります。逆境に際して、相互に融通し合い、敵対者の攻撃に対して、司祭の名誉と聖役の保全をはかるため、あるいはこれと類似したその他の目的のため、団体を結成することは、大いに奨励すべきことであります。しかし、聖なる学識をみがき、より大いなる熱心をこめて、聖なる召出しの義務に専念し、着想や努力を一つにして、救霊のためにより有効に働くという目的のために団結するのは、なおさら大切なことであります。聖会の年代記は、司祭らが、そこここで共同生活を営んでいた時代には、この種の団体が好ましい成果を豊かに収めていたことを立証しています。では、どうして今日でも、国柄の相違や、役務の差違を考慮に入れた上で、このような団体を復興することができないでありましょうか?当然、昔と同じ利益を、聖会の喜びのために、そこに期待し得ないでありましょうか?
実際、司教の認可を受けたこの種の団体がないではありません。後になってよりも、司祭叙階直後から、これに加入すれば一層有益であります。私自身、司教であった頃、経験上その有益性が認められた一つの団体を奨励してきました。また今でも、この団体を支持し続けると共に、その他のこれに類似する団体をも特別の好意をもって奨励し続けています。
その他一切の聖成の手段を尊重すること
愛する子らよ、あなたたちは以上述べた司祭的恩恵を維持するための種々の方法及び状況に応じて、司教が賢徳に照らされて指示するその他一切の方法を尊重し、利用しなければなりません。このようにして、日増しに「召されたお召しに適うように生き」(エフェゾ4-1)、あなたたちの聖役に誉を帰し、おのがうちに神のみ旨、すなわち「自己の成聖」を実現していくべきであります。
最後の勧告
聖なる父よ、彼らを聖となし給え……
実際、以上は私の思いと配慮の主なる対象であります。それゆえ、私は目を天にあげて、すべての聖職者のために、「聖い父よ、彼らを聖別して下さい」(ヨハネ17・11・17)とのイエズス・キリストご自身の嘆願を、ひんぱんに繰り返すのであります。
あらゆる階級に属するきわめて多数の信者が、私のこの祈りに一致して、あなたたちと聖会の善益を熱心に気づかってくれるのを思い、私は喜びにたえません。また修院の囲いの中ばかりでなく、世間のただ中にあっても、この目的のために、絶え間ない生賛として、神に身を捧げる寛大な霊魂が、数多くみられるのも、私にとって大きな喜びであります。
願わくは、いと高き神が、彼らの汚れない崇高な祈りを、かんばしい香のごとく嘉納され、私のつたない祈りをしりぞけ給いませんように。願わくは、その御憐みとみ摂理の中に、私たちを助け、すべての聖職者の上に、至愛なる御子の聖心にやどる、恩恵と愛徳とすべての徳の宝を注ぎ給いますように。
使徒の元后なる聖母マリアの御取り次ぎによって
最後に、愛する諸子に私の司祭叙階金祝が近づくにつれて、あなたたちが、あらゆる形式のもとに示された孝愛の情のあふれる祝詞を、心から感謝したいと思います。私がその返礼として、あなたたちに向ける願望を、私は使徒の元后なる至聖童貞マリアに委託しました。それは、この願望が、一層完全に実現されるようにとのためであります。事実、聖母は、司祭職制定当初の使徒らに、聖霊の能力をこうむるまで、心を合わせて熱心に祈り続けなければならないことを、ご自分の模範によって教えられたのであります。聖母は、ご自分の祈りによって、この賜物を彼らのためにより豊かにかち得られ、そのよきすすめをもって、ますますこれを増加し、強化されて、彼らの仕事に最大の成果をあげしめ給うたのであります。
愛する子らよ、それまでの中に、私は、キリストの平和が聖霊の喜びと共に、あなたたちの心の中で、勝利をしめることを願ってやみません。この熱願の印として、あなたたち一同に、愛を傾けて教皇掩祝を施します。
一九〇八年八月四日 在位六年
ローマ聖ペトロ大聖堂隣地にて
教皇ピオ十世