「カトリック教会のカテキズム」
日本語訳の問題点

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

「カトリック教会のカテキズム」は9年前、1992年11月16日に出版された。それ以来、待てど暮らせど日本語訳が出版されないと思っていたら、意外なことが分かってきた。鹿児島の司教様から「シスター菊池の翻訳が悪いから、訂正している」と聞かされていたので、そうであろうと思っていた。何しろ私は司祭だから、司教を敬い、信頼すべき立場にあるではないか。最近、シスター菊池訳に手を入れたと思われる「カトリック教会のカテキズム」日本語訳を思いもかけぬ方から入手したので、読んでみた。そこには多くの問題がある。日本司教協議会から正式に依頼を受けたシスター菊池は1995年7月にそれを訳し終わり、各部が終わる都度、日本司教協議会事務局に提出していた。教義神学の専門家であるネメシェギ神父がその翻訳を詳しく調べ、いくつかの修正を加え、さらに、ヴァティカンから事前に検閲者として指名されていたサレジオ会の尻枝正之神父に送られることになっていた。が、実際に送られたのは第一部だけであった。もちろん、それはよい翻訳として認められていた。

用語に問題ありと教理委員長の糸永真一司教がクレームを付け、岡田武夫司教、深堀敏司教と共同で「訂正」し、それを中央協議会阿野武彦神父が調整したという。また、シスター菊池が提出した原稿はおそらくワープロで打った原稿をプリントアウトしたものであったことも想像される。それを受け取った、当時、中央協議会出版部長だった山本量太郎神父がその原稿を全部コンピュータに入力し直したと伝えられている。それは、たとえば「ぽ」と「ぼ」の間違いが、彼が使用する親指シフトキーボード特有の間違いであることなどからも、確認される。おそらく、そういう過程で、シスター菊池のオリジナルは見る影もなくゆがめられたのであろう。入手した原稿を見てもミスタイプ、ミス変換、間違った翻訳が多い。間違った翻訳は山本神父でなく、三人の司教様方のせいであろう。以下に挙げたのはその一部である。こういう「訂正」はまったく不要であった。このような翻訳が出版されるようであれば、信者の信仰は弱くなりかねない。また、著者である聖座に対しても無礼きわまりないことになる。

なお、当研究会がホームページで紹介している「カトリック教会のカテキズム」日本語訳は、ごく一部を除いて、私も含む別人の翻訳である。

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1=日本カトリック司教団訳・シスター菊池の翻訳に手を入れたもの。現在出版の準備が進められていると聞くが、最終的には少々異なっていることが予想される。

2=英語(ラテン語訳、フランス語訳も大差はない)

3=日本カトリック司教団訳の英語訳

4=正しい日本語訳・没にされたシスター菊池の訳もおそらくこういうものであったろう。

5=もっと正しい日本語訳と説明

6=本ホームページで採用してある翻訳 

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1322-1
感謝の祭犠で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、まさに感謝の祭に参加し、共同体全体とともにキリストの犠牲にあずかります。

1322-2
The holy Eucharist completes Christian initiation. Those who have been raised to the dignity of the royal priesthood by Baptism, and configured more deeply to Christ by Confirmation, participate with the whole community in the Lord's sacrifice by means of the Eucharist.

1322-3
The rite of thanksgiving completes Christian initiation. Those who have been raised to the dignity of the royal priesthood by Baptism, and configured more deeply to Christ by Confirmation, participate with the whole community in The rite of thanksgiving by means of the Eucharist.

1322-4
聖体拝領でキリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、全共同体とともに聖体祭儀の中で主の犠牲にあずかります。

1322-5
聖体拝領
でキリスト教入信式が完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、全共同体とともに御聖体を拝領して主の犠牲にあずかります。

1322-6

聖体の秘跡でもって、キリスト教入信が完成する。信者は、洗礼によって真の司祭職の品位にまで高められ、堅信によってより深くキリストと一致したが、聖体によって全教会とともにまさしく主の犠牲そのものに参加する。


説明 — 感謝の祭儀であれば、それは神様に感謝するお祭り…であれば、神社などである豊作とか大漁感謝のお祭り、また、ミサ以外の典礼儀式でもあり得る。入信の式であれば、その流れとして洗礼、堅振、聖体拝領があると思っていたが、1322-1の訳であると、その点がはっきりしない。はっきりしない訳は分かりにくい、悪い訳である。1322と番号を振ってある前に、「第3項 感謝の祭儀(聖体の秘跡)」とあるが、英語版、ラテン語版を見ると「聖体の秘跡」とあるように、ここではミサ聖祭の中で現在化される聖体について取り扱われているのだから、「御聖体」とか「聖体拝領」を訳語に選択する方が正しい。

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1324-1
感謝の祭儀は「キリスト者の全生活の泉であり、頂点です」。他の秘跡と、教会のあらゆる奉仕と、使徒活動はすべて、感謝の祭儀に結びつけられ、それを指向しています。なぜなら、感謝の祭儀には教会の霊的宝のすべて、すなわち、わたしたちの過越であられるキリストご自身が現存しておられるからです」。

1324-2
The Eucharist is 'the source and summit of the Christianlife'. 'The other sacraments, and indeed all ecclesiastical ministries and works of the apostolate, are bound up with the Eucharist and are oriented towards it. For in the blessed Eucharist is cotained the whole spiritual good of the Church, namely Christ himself, our Pasch.'

1324-3
The rite of thanksgiving
is 'the source and summit of the Christianlife'. 'The other sacraments, and indeed all ecclesiastical ministries and works of the apostolate, are bound up with The rite of thanksgiving and are oriented towards it. For in The rite of thanksgiving is cotained the whole spiritual good of the Church, namely Christ himself, our Pasch.'

1324-4
聖体は「キリスト者の全生活の泉であり、頂点です」。他の秘跡と、教会のあらゆる奉仕と、使徒活動はすべて、聖体に結びつけられ、それを指向しています。なぜなら、聖体には教会の霊的宝のすべて、すなわち、わたしたちの過越であられるキリストご自身が現存しておられるからです」。

1324-5
聖体は「キリスト者の全生活の泉であり、頂点です」。他の秘跡と、教会のあらゆる奉仕と、使徒活動はすべて、聖体に結びつけられ、それを指向しています。なぜなら、聖体には教会の霊的宝のすべて、すなわち、わたしたちの過越であられるキリストご自身が現存しておられるからです」(変更無し)。

1324-6

聖体は、「キリスト教生活全体の泉であり頂点である」(教会憲章11)。「ところで諸秘跡も、すべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられている。事実、聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、われわれの過ぎ越しであり生きたパンであるキリスト自身が含まれている」(司祭の役務と生活に関する教令5)。

説明 — いわゆる感謝の祭儀つまりミサであれば、その中にはいろいろな部分がある。たとえば奉納とか献金も…The Eucharistを感謝の祭儀と訳してしまうと、奉納とか献金の部分にもキリストご自身が現存することになる。ここはどうしても御聖体と訳さなくてはならないところ。そうすると昇天がはっきり定まり、信者も理解しやすいし、霊的な深まりも期待される。

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1364-1
新約で、記念は新たな意味を帯びています。教会が感謝の祭儀を行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上で一回限りささげられた犠牲はつねに現実的なものです(44)。「わたしたちの過越であるキリストがささげられた十字架上の犠牲が祭壇の上で行われるたびに、わたしたちのあがないのわざが行われます」(45)。

1364-2

In the New Testament, the memorial takes on new meaning. When the Church celebrates the Eucharist, she commemorates Christ's Passover, and it is made present. 'As often as the sacrifice of the Cross by which " Christ our Pasch has been sacrificed" is celebrated on the altar, the work of our redemption is carried out.

1364-3

In the New Testament, the memorial takes on new meaning. When the Church celebrates the rite of thanksgiving, she commemorates Christ's Passover, and it is made present. 'As often as the sacrifice of the Cross by which " Christ our Pasch has been sacrificed" is celebrated on the altar, the work of our redemption is carried out.

1364-4

新約で、記念は新たな意味を帯びています。教会が聖体祭儀を行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上で一回限りささげられた犠牲はつねに現実的なものです。「わたしたちの過越であるキリストがささげられた十字架上の犠牲が祭壇の上で行われるたびに、わたしたちのあがないのわざが行われます」。

1364-5

新約で、記念は新たな意味を帯びています。教会がミサ聖祭を行うとき、キリストの過越を記念し、これが現在化するものとなります。キリストが十字架上で一回限りささげられた犠牲はつねに現実的なものです。「わたしたちの過越であるキリストがささげられた十字架上の犠牲が祭壇の上で行われるたびに、わたしたちのあがないのわざが行われます。


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1365-1

感謝の祭儀は、キリストの過越の記念祭ですので、また、犠牲でもあります。感謝の祭儀の犠牲としての性格は、その制定の言葉に明らかです。「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22: I9−20)。感謝の祭儀において、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたほかならぬそのからだと、「罪がゆるされるように、多くの人のために流された」(マタイ26: 28)ほかならぬ血をお与えになりました。

1365-2

Because it is the memorial of Christ's Passover, the Eucharist is also a sacrifice. The sacrificial character of the Eucharistis manifested in the very words of institution: 'This is my body which is given for you' and 'This cup which is poured out for you is the New Covenant in my blood..' In the Eucharist Christ gives us the very body which he gave up for us on the cross, the very blood which he 'poured out for many for the forgiveness of sins'.

1365-3

Because it is the memorial of Christ's Passover, the rite of thanksgiving is also a sacrifice. The sacrificial character of the rite of thanksgiving is manifested in the very words of institution: 'This is my body which is given for you' and 'This cup which is poured out for you is the New Covenant in my blood..' In the rite of thanksgiving Christ gives us the very body which he gave up for us on the cross, the very blood which he 'poured out for many for the forgiveness of sins'.

1365-4

聖体祭儀は、キリストの過越の記念祭ですので、また、犠牲でもあります。聖体祭儀の犠牲としての性格は、その制定の言葉に明らかです。「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22: I9−20)。聖体祭儀において、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたほかならぬそのからだと、「罪がゆるされるように、多くの人のために流された」(マタイ26: 28)ほかならぬ血をお与えになりました。

1365-5
ミサ聖際は、キリストの過越の記念祭ですので、また、犠牲でもあります。ミサ聖際の犠牲としての性格は、その制定の言葉に明らかです。「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22: I9−20)。ミサ聖際において、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたほかならぬそのからだと、「罪がゆるされるように、多くの人のために流された」(マタイ26: 28)ほかならぬ血をお与えになりました。

1365-6

聖体はキリストの過越の記念であるために、聖体は犠牲でもある。聖体のこの犠牲としての性格は、「これはあなたたちのために渡されるわたしのからだである」と「この杯は、あなたたちのために流されるわたしの血による新しい契約である」という制定の言葉自体に現れている(ルカ22・19-20)。聖体においてキリストは、私たちのために十字架上で渡されたご自分の体と、「罪の赦しのために多くの人のために流された」御血をお与えになるのである(マテオ26・28)。


説明 — " Sacrificium eucharisticum" とか" Eucharistia" などの用語は第二バチカン公会議以降のものであり、紛らわしい。異端神学者カール・ラーナーとかフリーメーソンであったといわれるアンニバーレ・ブニーニ大司教が神学・典礼用語として導入して以来流行語になった。" Eucharistia" には元々「感謝」の意味があるので、「聖体」の意味で使用して「感謝の祭儀」と言っても間違いではないように見える。しかし、そこに曖昧さが忍び込むのはどうしようもなく事実である。聖体への尊敬と信仰はこのようにして蝕まれる。因みに、例の用語リストでも" Sacrificium eucharisticum" を「ミサ聖祭」と翻訳することを許されてはいる。