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全司教にあてた教皇ヨハネ・パウロ二世の書簡

Dominicae Cenae
聖体の秘儀と礼拝について

目次

序文

1 敬愛する兄弟の皆さん

第一章 教会および司祭の生活における聖体の秘義

2 聖体と司祭職

3 聖体の秘義の礼拝

4 聖体と教会

5 聖体と愛

6 聖体と隣人

7 聖体と生活

第二章 聖体と犠牲の神聖な性格

8 神聖な性格

9 犠牲

第三章 主の二つの食草と教会の共通の善

10 神のみことばの食卓

11 主のパンの食卓

12 教会の共通の善

13 結び

序文

敬愛する兄弟の皆さん

1 今年も、来たる聖木曜日のために皆さんに書簡を送ります。これは、昨年同じ機会に司祭たちにあてた書簡と一緒に皆さんが受けたものに直接関連しています。わたしは何より先に、主がわたしたちの間に確立された一致の精神をもって、わたしの先の書簡を快く受け入れてくださったことに対し、また教皇登位の始めに表明したわたしの考えをそれぞれの司祭たちに伝えてくださったことに対して深く感謝いたします。

聖木曜日の聖体典礼の間に、あなたがたは司祭たちと一緒に、叙階の折りになした約束と義務感を新たにされました。あなたがたの中の多くのものが、その後で、それについて、個人的な感謝の言葉、さらに司祭団の感謝の言葉まで添えて報告されました。その上、多数の司祭たちは、いわば、例年の司祭の祝日である聖木曜日の主の晩さんの感動的かつ厳粛な意味を知り、また自分たちにあてられた書簡に扱われている問題の重要性を理解して、喜びを表明しました。

このような応答は一つの豊かな収穫を意味しています。それは、教会が、幾世紀の間歩み続けて来た司祭生活の道が、カトリック教会の大多数の司祭たちにとって、いかに貴いものであるか、つまり、彼らがどれほどそれを愛し、また尊重していたか、将来もそれを続けたいと望んでいるかを改めて証するものです。

しかし、ここで付言しなければならないことは、司祭たちへの書簡においては、その冒頭にも強調してあるように、ただ幾つかの問題にしか触れていないという点です(1)。その上、司祭職の司牧的性格が主として強調されました。無論、それは、司牧活動に直接従事しない司祭のグループが考慮されなかったことを意味するものではありません。この点でわたしは、今一度第二バチカン公会議の教えだけでなく、一九七一年のシノドス宣言にも訴えたいと思います。

司祭職の司牧性は、司祭が遂行している日常の務めが、はっきり諸秘跡の司牧的授与に向けられていないにしても、常にすべての司祭の生活の特徴をなすものです。この意味で、聖木曜日に司祭にあてた書簡は、右に述べたように、司祭の生活と活動のすべての面に触れたものではないが、例外なく、すべての司祭にあてられたものです。本書簡の冒頭からこの点を明らかにしておくことは、有益であり、また時宜に適ったものでしょう。

第一章 教会および司祭の生活における聖体の秘義

聖体と司祭職

2 司教職において敬愛する兄弟の皆さん。わたしのこの書簡は、 — すでに断った通り、以前出した幾つかの書簡の継続であり — 聖木曜日の秘義と密接なつながりがあり、司祭職と関係があります。実際、わたしはこれを聖体、とくに聖体の秘義とそれへの奉仕者の生活に対するその影響との幾つかの面の説明に当てたいと思っています。それで、本書の直接の名あて人は、教会の司教であるるあなたがたであり、またあなたがたとともにすべての司祭、そして固有の段階における助祭であります。

実際、司教および司祭の司祭職、すなわち、職務的あるいは位階的司祭職、そのかたわらの助祭の職 — このような職は普通、福音の宣教で始まる — は、聖体と極めて密接な関係にあります。実際、聖体は、その制定の瞬間に、それと共に生まれた(2)司祭職の秘跡の主な、そして中心的存在理由であります。「これをわたしの記念に行いなさい」という言葉が、聖体の聖別の直後に発せられ、それをわたしたちがミサを行うごとに繰り返すのは、ゆえないことではありません(3)。

わたしたちは叙階を通して — この式は、すでに初代の典礼書からミサ聖祭と組み合わされています(4) — 特殊なまた例外的仕方で聖体に結ばれています。わたしたちは、いわば、「それから」また「それによって」存在します。また特別に「それに対して」責任があります。 — すべての司祭が自分の共同体において、またすべての司教が、聖パウロが言っているように「すべての教会に対する心遣い」(5)にもとづいて、自分に託されたすべての共同体について配慮しなければならないからです。それで、わたしたち司教と司祭には、偉大なる「信仰の秘義」がゆだねられています。この秘義は、神の民全体と個々のキリスト信者に与えられたものではありますが、わたしたちには、この秘跡に対する特別の礼拝と愛の証を、わたしたちに期待しているほかの人々の「ため」にもゆだねられています。それは、ほかの人々も「霊的犠牲をささげるため」(6)に教化され、生かされるためです。

このように、わたしたちの聖体礼拝は — ミサの祭儀におけるものであれ、至聖なる秘跡に対するものであれ — あたかも生命の流れとなって、わたしたちの職務的あるいは位階的司祭職を信者の共通の司祭職に結びつけ、これを、そのいわゆる縦の線において、また中心的価値をもって示します。司祭は聖体祭儀を通して自分の主要な務めを遂行し、自己を完全に表わします(7)。そして、このような表現は、司祭が自分の職務を通して、この秘義だけが人々の心と精神に輝くように、その深みが見えるものとなるとき、一層完全になります。これが「王的司祭職」の最高の行使であり、「すべてのキリスト教生活の源かつ頂点」(6)であります。

聖体秘義の礼拝

3 この礼拝は、聖霊において、イエズス・キリストを通して父なる神にささげられます。それは、第一に、聖ヨハネ福音書に言われているように、「み子を信じるすべての人が滅びないで、永遠の生命を得るために、ご自分のおん独り子を賜うほど世を愛された」(9)父に向けられます。

しかし、この礼拝は、救いの経綸において、とくに、最高の奉仕と完全な自己放棄の瞬間における託身のみ子にも聖霊において向けられます。「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」、「これはあなたがたと多くの人のために流されるわたしの血の杯である」(10)と晩さんの間で仰せられた言葉は、そのような自己放棄を指しています。「主よ、わたしたちは、あなたの死を告げ知らせます」という典礼の唱和はわたしたちを正にその瞬間に連れもどします。更に、主の復活を宣言することによって、復活され、栄光の中に「父の右に」座しておられるキリスト、やがて「栄光の中に来られる」キリストを同じように礼拝します。しかしながら、父のみ旨に適い、そして復活によって栄光を受けたその自由な自己放棄は、秘跡的に復活と一緒に記念されますが、それは「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従うものとなられた」(11)贖い主を礼拝するようわたしたちを促します。

そして、このようなわたしたちの礼拝には、別な特徴があります。実際に、それには、世、すなわちわたしたちひとりびとりを「終わりまで」(12)愛されたキリストの人間的死の崇高さがしみこんでいます。それで、礼拝は、十字架の死に至るまで犠牲となったこの愛に報いようとする応答、つまり、わたしたちの感謝であり、ご自分の死によってわたしたちを贖い、その復活によってわたしたちを永遠の生命にあずかるものとしてくださったことに対する賛美であります。

それで、父と子と聖霊の三位一体に向けられるこのような礼拝は、何よりもまず、聖体祭儀の挙式によって行われます。しかし、私たちの聖堂でそれは、ミサ聖祭の時間以外にも行われねばなりません。実際、聖体の秘義は愛によって設けられたものであり、キリストを秘跡的に現存するものとするのですから、それは、常に愛と感謝を受けるにふさわしいのです。ですから、このような礼拝は、教会訪問のとき、あるいは、聖体が病人に運ばれるときなど、わたしたちが聖体に出会うあらゆる場合に示されなければなりません。

なお、この愛の秘跡におけるキリストへの礼拝は、聖体に対する種々の信心の形、すなわち、聖体のみ前における個人的礼拝、公の聖体礼拝、短時間あるいは長時間、更には年間の聖体顕示(四十時間の祈願)、聖体降福式および行列、聖体大会(13)などにおいて示される必要があります。しかし、ここで、聖体に現存するキリストにささげられる公の礼拝行為として、キリストの御体と御血の祝日を特に想起する必要があります。これは、わたしの先任者ウルバノ六世が、この偉大な秘義の制定の記念に行われるよう望んだものです(14)。すべてこのようなことは、以前からある一般原則および特殊な規準に合ったものですが、第二バチカン公会議の間に、あるいは、その後に新たに規定されました(15)。

聖体礼拝の奨励と徹底は、公会議が意図した真の刷新の証明であり、またその中核です。敬愛する皆さん、この点は別に考察する価値があります。教会と世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。イエズスはこの愛の秘跡の中に私たちを待っておられます。わたしたちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエズスに出会うためには時間を惜しまないようにいたしましょう。

聖体と教会

4 わたしたちは、公会議のおかげで、教会が「聖体を作る」ように、「聖体が教会を建てる」(16)という真理を改めて理解しました。そして、この真理は聖木曜日の秘義と固く結ばれています。教会は神の民の新しい共同体として、十二人の使徒の共同体を土台にしています。使徒たちは、最後の晩さんにおいて、パンとブドウ酒の形象の下に、主のおん体とおん血にあずかるものとなりました。キリストは、彼らに「取って食べななさい」、「取って飲みなさい」と仰せられ、彼らは、主のこの命令に従い、初めて神のみ子との秘跡的な交わり、永遠の生命の保証である交わりに入りました。この時から、教会は世の終わりまで、永遠の過越しの保証である神の御子の交わりによって築かれます。

司祭職において敬愛する兄弟の皆さん、わたしたちは、聖体の救いの真理の教師かつ保管者として、いつも、どこにおいても、キリストとの秘跡的出会いと親密さのこのような意味と重要性を守らねばなりません。実際、このようなことによって聖体礼拝の本質が構成されます。上に述べた真理の意味は、聖祭にあずかる人々の間に霊的結合と一致をもたらす聖体の特質を少しも減らさないだけでなく、かえってそれを完成します。聖祭の犠牲は、次いで聖体拝領において、人々にとって会食となります。最後の晩さんにおけるキリストのまわりの使徒たちの一致を原型とするこの一致が教会を表現し、かつ実現します。

しかし、教会は聖体の食卓が機会となる兄弟的愛の経験にもとづく人間同士の一致だけでは実現されません。教会はこのような兄弟的一致と交わりの中で、キリストの十字架の犠牲を行うとき、「キリストが来られるまで、その死を告げ知らせる」(17)とき、そして、わたしたちが救いの秘儀に浸透され、なだめの犠牲の実で秘跡的に養われるため、主の食卓に近づくとき実現されるのです。それで、わたしたちは、聖体拝領によってキリストご自身をいただきます。そして、各人にとって賜ものであり、恩寵であるキリストと一致することによって、わたしたちは、キリストにおいて、教会というキリストの体の一体性にも結ばれることになります。

このようなな仕方でだけ、つまり、このような信仰と心状によって、第二バチカン公会議の有名な表現の通り、自分の源と頂点とを真に聖体の中に見いだす(18)ところの教会の建設が実現されます。同公会議の作業によって、新しく、強い輝きをもつようになった(19)この真理は、わたしたちの考察と教えの主題として、しばしば取り上げられる必要があります。それは、すべての司牧活動の栄養となり、またわたしたち自身と、わたしたちとともに働くすべての司祭と、最後にわたしたちにゆだねられたすべての共同体とにとって食物でもあってほしいものです。それで、そのような教会の慣行においては、教会の霊的かつ使徒的活力と、深い意味とあらゆる観点から理解された聖体との密接な関係が常に示されねばなりません(20)。

聖体と愛

5 聖体の祭儀の問題について詳細な考察に移る前に、聖体の礼拝がキリスト教的生活全体の魂をなす点を簡単に再確認したいと思います。実際、キリスト教的生活は、最大の掟、すなわち、神と隣人への愛の実践に表わされ、そして、この愛の源は、一般に愛の秘跡と呼ばれている聖体の中にあります。

聖体はこの愛を意味し、従ってそれを記念し、現在のものとし、同時にそれを実現します。それに意識的にあずかるごとに、わたしたちの魂の中には、はかりがたい愛の実在的面が開けます。この愛は、「わたしの父は不断に働き、わたしもそのようにする」(21)というキリストの言葉の通り、神がわたしたちのためになされたこと、また続いてなされるすべてのことを含んでいます。このはかりがたい無償の賜ものは、 — 極まで、つまり、神のみ子の救いの犠牲において — 啓示された愛であり、聖体はこの犠牲の消えないしるしであるが、この賜ものと共に、わたしたちの内にも愛の生きた応答が生まれます。そして、わたしたちは愛を認めるだけでなく、わたし自身愛し始めます。つまり、愛の生活に入り、その道を歩み始めます。聖体によって、わたしたちの内に生まれる愛は、またそれによって成長し、深くなり、強くなります。

それで、聖体の礼拝は、まさにキリスト信者の召命の真の、そして最も強い特徴であり愛の表現です。この礼拝は、愛からわき出て、愛に役立ち、においてこの愛に召されています(22)。この礼拝の果実は、わたしたちが自分の打ちに宿している神の姿、キリストがわたしたちに啓示したものに相応する姿を完成することです。こうしてわたしたちは、「霊と真理における」(23)父の礼拝者となり、キリストとの一層完全な一致の中に成熟し、キリストと一層固く結ばれ、 — こう言うことができるなら — ますます固くキリストと一体になります。

聖パウロが教えているように(24)、一致のしるし、愛の絆である聖体に関する教えは、さらに多く聖者の書き物によって明らかにされましたが、彼らは、わたしたちにとって聖体礼拝の生きた模範であります。わたしたちは、このような現実を常に目の前に眺め、同時に、このような過去の素晴らしい模範に、わたしたちの世代も、現代を照らす同じように生きた有効な新しい模範を加えるよう、不断に努力する必要があります。

聖体と隣人

6 聖体の真の意味は、そのまま、隣人に対する行動的な愛の学校となります。実際、「互いに愛し合うなら、それによって、あなたたちがわたしの弟子であることをすべてのものが

分かるであろう」(お)と主がわたしたちに教えられたことが、愛の真の完全な命令であることをわたしたちは承知しています。聖体は、このような愛のためにわたしたちを一層正確に教育します。実際、キリストがパンとブドー酒の形象の下に、それぞれの人に同じようにご自分をお与えになるから、聖体は、すべての人、わたしたちの兄弟と姉妹が神のみ前にどのような価値を持っているかを示しています。もしわたしたちの聖体礼拝が真正なものであるなら、それは、それぞれの人格の尊厳さに対するわたしたちの意識を強めるはずです。そして、このような人格の尊厳の意識はわたしたちと隣人との関係の最も深い動機となります。

わたしたちは、人間のあらゆる苦しみとみじめさ、あらゆる不義と不正に対して特に敏感になり、そのようなものを効果的にいやす方法を捜す必要があります。人間の内面に関する真理を尊敬心をもって発見することを学びましょう。この内面的人間が聖体に現存する神の住居となるからです。キリストは心の内に入られ、わたしたちの兄弟および姉妹の心に入られ、彼らの良心を訪ねられます。わたしたちがこのような現実を認識し、これを反省の対象とする時、すべての人、それぞれの人の姿がどれほど変わることでしょう。聖体の秘跡のしるしは、わたしたちをすべての人の愛へとかり立てます(26)。

聖体と生活

7 それで、聖体は愛の源であるから、常にキリストの弟子たちの生活の中心を占めていました。聖体は、外観がパンとブドー酒、つまり、食べ物と飲み物で、従って人間の生活に固く結ばれているものだけに、それだけ人間に親しみやすいものです。愛でいます神の礼拝は、聖体礼拝において、特殊な親密さからわき出ます。個々では神ご自身が食べ物と飲み物のようにわたしたちの霊的存在を見たし、また食べ物と飲み物のように、その生命を保ちます。この神の聖体的礼拝は、救いの計画に完全に一致しています。御父自ら「真の礼拝者」(27)がこのような仕方でご自分を礼拝するのを望んでいます。そして、この望みを言葉とこの秘跡をもって表わしているのはキリストです。キリストは、この秘跡において、父のみ旨に最もよく合った仕方で父を礼拝できるようにしています。

ところで、キリスト信者の入信を成熟させ、前にすでにのべたように(28)、共通の司祭職の行使を職務的司祭職の行使に結びつけるような秘跡的かつ教会的形式をそれに与えるのは聖体であります。そのように、聖体礼拝は(29)、秘跡的生活の中心であり、目的であります(30)。そこには、キリスト教の入信の秘跡、すなわち、洗礼と堅信が、こだまのように、反響し続けています。洗礼によって、「神の子と呼ばれる」だけでなく、「実際にそのようなものである」(31)という真理は、聖体において神のおん独り子の体と血にあずかるものとなる事のほかに、どこでよりよく表わされますか。整信の結果としての「キリストの証人」(32)であるため、キリストがわたしたちに証し、わたしたちがキリストに証する聖体拝領のほかに、何がよりよく準備しますか。

聖体とほかの秘跡、とくに家庭生活の秘跡および病人の秘跡との間にあるつながりをここで細やかに分析することはできません。ゆるしの秘跡と聖体のそれとの間の密接なつながりについては、回勅「レデンプトール・オミニス」(33)の中で注意を喚起しました。悔い改めが聖体に導くだけでなく聖体も悔い改めに導きます。実際、聖体拝領において、わたしたちがいただくかたを理解するとき、わたしたちの心には、自分の罪を悲しみ、そして清めたいという内的要求とともに、自分の無価値の感情が自然にわいて来ます。

しかし、聖体におけるキリストとの出会いがわたしたちに慣れ事にならないよう、また資格なしに、つまり大罪をもって主をいただくことのないよう常に注意しなければなりません。人間は、神ご自身とかくも素晴らしく啓示されたその愛にささげねばならない礼拝の精神を常に保ち、それを深めるためには、悔い改めの徳の実行とゆるしの秘跡とを欠かすことができません。

右に述べたことは、聖体礼拝に関する幾つかの一般的考えを示すためでした。これはさらにふえんされることができます。とくに、他人への愛に対する聖体の結果について述べたことと、聖体拝領において人間と教会とに対して引き受けた義務について先ほど述べたことを結びつけ、さらに、すべての「新しい人」(34)を通して聖体から生まれる「新しい世界」(35)の姿を描くことができるでしょう。実際、食べ物と飲み物、パンとブドー酒のこの秘跡において、すべての人間的なものが特別に改造され、高められます。聖体の礼拝は、近づきがたい超越聖の礼拝であるより、神の自愛と寛大さの礼拝であり、同時に人間の心における慈悲と贖いによる改造でもあります。

このようなことはすべて手短に触れ、後で取り上げねばならない問題のためにより広い紙面を残しておきたいと思います。問題というのは、聖祭の挙式と密接に関連したものです。実際、この祭儀において、聖体の礼拝は一層直接に表現されます。この礼拝は、洗礼においてわたしたちに注入された信仰と希望と愛に鼓吹された最も貴い敬意として心から出るものです。司教職において敬愛する兄弟の皆さん、わたしがあなたがたに、またあなたがたと一緒に司祭および助祭たちに特にこの書簡を認めたいと思っているのは、まさにその点についてです。細かい点に関しては、秘跡と典礼の両聖省から追って出されるでしょう。

(1)『司祭への手紙』第二章参照。

(2)トリエント公会議 第二十二会期 カノン2参照。

(3)主の命令に基づいて、エチオピアの典礼では奉献文の中に次のことばが入っている。「使徒たちは…聖なる教会の儀式を祝うために主教、大司教、司祭、助祭を定めました」Hanggi-Pahl, Prex Eucharistica (Fribourg, 1968) pp. 5-17 。

(4)Botte, ed. La Tradition apostolique de Saint Hippolyte (Munster, 1963) p 183.

(5)Ⅱ コリント 11・28

(6)Ⅰ ベトロ 2・5

(7)第二バチカン公会議『教会憲章』28、『司祭の役務と生活に関する教令』2、5、『教会の宣教活動に関する教令』39以上参照。

(8) 第二バチカン公会議「教会憲章L11

(9) ヨハネ3・16、ヨハネ・クリゾストムの典礼では聖体制定の直前にこの句が引用されている。

(10)マタイ26・26〜28、および並行箇所参照。

(11)フィリピ 2・8。

(12)ヨハネ13・1

(13)ヨハネ・パウロ二世「ダブリン市、フェニックス・パークにおける説教」7参照。礼部聖省「聖体祭儀指針」(一九六七年)、秘跡典礼聖省「ミサ外の聖体拝領と聖体礼拝」(一九七三年)参照。

(14)教書 Transitus de hoc mundo (1264.8.11)参照。

(15)パウロ六世『ミステリウム・フィデイ』参照。

(16)ヨハネ・パウロ二世『レデンプトール・オミニス」20。第二バチカン公会議『教会憲章』11参照。

(17)Ⅰ コリント 11・26

(18)第二バチカン公会議「教会憲章』11、『典礼憲章』10、『司祭の役務と生活に関する教令』5、『教会における司教の司牧任務に関する教令』30、『教会の宣教活動に関する教令』9以上参照。

(19)第二バチカン公会議『教会意章』26、『エキュメニズムに関する教令』15以上参照。

(20)聖木曜日の集会祈願はこのことを嘆願している。『ミサ典礼書』(カトリック中央協議会、一九七八年)22ページ。第二、第三奉献文のエビクレーシス参照。

(21)ヨハネ 5・17。

(22)年間第二十二主日の捧領祈頃参照。『ミサ典礼書』四四九ページ。

(23)ヨハネ 4・23。

(24)Ⅰ コリント10・17参照。聖アウグスチヌス「ヨハネ福音書の注解」31・13、第二バチカン公会議『教会憲章』7以上参照。

(25)ヨハネ13・35。

(26)この意向はミサ典礼書の奉納祈願および拝領祈願に特に取り上げられている。

(27)ヨハネ 4・23。

(28)エフェソ 4・13。

(29)上記注2参照。

(30)第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』9、13、『司祭の役務と生活に関する教令』5以上参照。

(31)Ⅰ ヨハネ 3・1。

(32)第二バチカン公会議『教会憲章』11。

(33)ヨハネ・パウロ二世『レデンプトール・オミニス』20参照。

(34)コロサイ3・30。

(35)Ⅱ ベトロ 3・13。

第二章 聖体と犠牲の神聖な性格

神聖な性格

8 聖体の祭儀は、晩さんの広間と聖木曜日から始まり、教会の歴史と同じような長い歴史をもっています。この歴史の経過の中で、第二義的要素はある変化を受けました。しかし、最後の晩さんの間に、世の贖い主によって制定された「秘跡」の本質は変わっていません。第二バチカン公会議も、いくらかの変更を加え、その結果、現行のミサ典礼は、公会議以前に行われていたものといくらか違っています。わたしは、このような相違について語るつもりはありません。この場合は、聖体典礼の本質的な、そして不変の要素にとどめねばなりません。

このような要素に最も固く結ばれているのは、聖かつ神聖な行為としてのエウカリスチアの神聖さであります。それが聖かつ神聖であるのは、聖体には、神の「聖なる方」(36)、「聖霊に塗油されたかた」(37)、自分の生命を自由に与え、それを取りもどすために(38)、「父が聖別した方」(39)、「新約の大司祭」(40)キリストが不断に現存し、働いておられるからです。事実上、司式者に象徴され、聖所に入り、福音を告げるのはキリストです。「奉献するものと奉献されるもの、また聖別するものと聖別されるもの」(41)はキリストです。それが聖で神聖な行為であるのは、「聖者たちのための聖なるもの」である神聖な形象によるからです。すべての東方典礼が、信者たちを主の晩さんに招くために、聖体をかかげて、「聖者に与えられる — 聖なる物 — 聖なるキリスト」と歌っている通りです。

それで、ミサの聖なる性質は、「神聖化」つまり、人間が広間におけるキリストの行為に付け足した性質ではありません。なぜなら、聖木曜日のあの晩さんは聖なる祭儀であり、第一次的かつ構成的な典礼であって、それによって、わたしたちのために生命を与えると約束されたキリストは、ご自分の受難と復活の秘義を自ら秘跡的に行われたからです。これはすべてのミサの心臓のようなものです。わたしたちのミサは、このような典礼から出て、完全な典礼の形をとり、典礼の派によって式の形には相違があっても、本質に変わりはありません。それで、ミサの固有の「神聖さ」は主から定められた性質です。聖体的集会全体が意識的かつ積極的に参加するところのすべての司祭の言葉と府為は、聖木曜日のそれの反響です。

司祭はキリストとなって(in persona Christi)聖祭をささげるのです。これは、「キリストのみ名で」とか「キリストに代わって」とか言うよりもっと深い意味を持っています。「キリストになって」というのは、「最高永遠の司祭」(42)と特殊な秘跡的同化によってという意味です。この大司祭はご自分の聖祭の創始者であり、主役であって、ここでは誰も代理者とはなれません。彼のかた — キリスト — だけが、「わたしたちの罪のためだけでなく…全世界の罪のための真の有効な贖い」(43)であることができましたが、また常にそうでありうるのです。 — ほかの犠牲ではなく — キリストの犠牲だけが三位の神とその超越的聖性とのみ前で、「なだめの力」をもつことができましたが、今もそれができるのです。この実態を認識することによって、司式司祭の性格と意味が判然となります。司祭は聖祭を行い、「キリストとして」行動しながら、秘跡的に(同時に表現できない)仕方で、この深い「神聖さ」の中に導き入れられ、組み込まれるのです。ここで、司祭とまた聖体的集会にあずかるすべての人を霊的に結合させます。

なお種々の典礼様式で行われるこのような「神聖さ」は、何かの第二義的な要素を欠くことはありえても、本質的神聖性と秘跡性を欠くことは絶対にできません。それは、キリストのみ旨によるもので、教会によって伝承され、統制されたものだからです。この「神聖な事」がほかの目的の手段とされることはなおのことできません。本来の聖祭と秘跡性から切り離された聖体の秘義は、全くそのようなものではなくなります。それは、何かの俗的な模倣も認容しません。それは(普通はありえないにしても)容易に?聖となるでしょう。このことは常に念頭におかねばならないが、とくに今日はその必要があるようです。なぜなら、今日は(少なくともある方面では)あらゆる物の非神聖化の傾向が一般化し、「神聖」と「世俗」との区別を無くする傾向が見られるからです。

このような状況において、教会は聖体の「神聖さ」を守り、強める特別の責任を負うています。わたしたちの多元的社会、往々にして故意に世俗化された社会においては、キリスト教共同体の生きた信仰 — 同じ信仰をもたないすべてのものに対して自分の権利を意識する信仰 — が、この「神聖な事」に市民権を保証します。それぞれの人の信仰を尊重する義務は、良心および信教の自由の自然的かつ市民的権利と相関的なものです。

 

このような聖体の神聖性は神学と典礼の用語に常に表現されましたが、今も表現されています。この聖体の秘儀の客観的神聖性の感覚は神の民の信仰を構成するものであって、それによって信仰は豊かにされ、強められます(45)。それゆえ、聖体の奉仕者は、とくに今日は、このような豊かな生きた信仰に照らされ、この信仰の光の下に、キリストと教会の意志によって自分の司祭職に属するすべてのことを理解し、遂行する必要があります。

犠牲

9 聖体は何よりもまず犠牲であります。つまり、贖いの犠牲であり、わたしたちが信じ、東方教会も声明している新約の犠牲でもあります(46)。ギリシア教会は数世紀前に次のように声明しています。「今日の犠牲は、実はかつて託身のみことばであるおん独り子をささげたそれのようなものである。同一の犠牲であるから、それはかつてのように今日もからから捧げられる」(47)。従って、わたしたちの救いのためのこの唯一の犠牲を現在のものとすることによって、人類と世界は贖いの新しい過越しによって神に返還されます。この返還(救い−訳者注)は無くなることはできません。それは、人間と神の、そして神と人間の「新しい永遠の契約の土台であります。もしそれが無いとしたら、実際に完全で決定的であった贖いの犠牲の貴さとミサの犠牲的価値のどちらも疑わねばならないでしょう。しかし、聖体は、真の犠牲であるから、この神への返還を実現します。

それで、司式者は叙階式において授けられた特別の権能によって — この犠牲の奉仕者として、人間を神に返す犠牲的行為を遂行する真の司祭であります。これに対して、聖体にあずかるすべてのものは、司祭のように犠牲をささげるのではなく、共通の司祭職によって、自分の霊的犠牲を司祭とともにささげるのです。この霊的犠牲は、パンとブドー酒を祭壇に運ぶとき、その奉納物によって表わされます。実際、この典礼行為は、ほとんどすべての典礼によって盛式化されているが、「固有の価値と霊的な意味をもっています」(48)。パンとブドー酒は、ある意味で、聖体的集会が、神への供物として自分でもって来て、霊的にささげるすべてのものの象徴となります。厳密な意味の聖体典礼のこの最初の瞬間が参加者の態度に表現されることが大事です。これと関連したものがいわゆる、奉納の行列です。これは近年の典礼刷新によって規定されたもので、古い伝統に従ってその間に詩編または聖歌が歌われます。ここでは、いくらかの時間の間合いが必要です。それは、同時に司式者の言葉で表現されるそのような行為を皆が意識することができるためです。

 この奉納行為の意識はミサ全体を通して持続されねばなりません。その上、それは、犠牲の瞬間の根本的価値が要求するものとして、聖別と記念の奉献のときに完結されなければなりません。これは、司祭が高声でとなえる聖体の祈りの言葉に示されています。とくに聖体の犠牲的性格およびキリストの奉献とわたしたち自身の奉献のつながりを示す第三の聖体の祈りの中の次の言葉をここで取り上げるのはためになると思います。「あなたの教会の供え物を顧み、わたしたちの贖いのいけにえをお受け入れください。御子の御体と御血で養われるわたしたちが、キリストにおいて一つの体、一つの心となるよう、聖霊を豊かにお与え下さい。キリストがわたしたちをみ旨にかなう永遠の供え物になさいますよう」(49)。

この犠牲的価値は、すべての祭儀において、「わたしとあなたがたの犠牲が、全能の父である神のみ旨にかなうものであるよう」信者に祈りを求めて、供え物の供進を結ぶ司祭の言葉にすでに表わされています。このような言葉は、聖体典礼全体の性格とそれの神的かつ教会的内容の豊かさを表わすものとして、義務づける力をもっています。

それで、信仰をもって聖体を受けるものは、だれでも、それが「犠牲」すなわち、「聖別された供え物」であると分かります。実際、現に祭壇に供えられ、参加者の信心と霊的いけにえに結ばれているパンとブドー酒は最後に聖別されて、真実に、実在的に、そして実体的にキリストご自身の渡された体、流された血になります。こうして、聖別によってパンとブドー酒の形象は、キリストが世の救いのため、十字架において父にささげられたなだめゆき犠牲そのものを秘跡的に、血を流すことなしに表しています。(50)。実際、キリストだけが最高の献身と犠牲との行為においてご自分をなだめのいけにえとしてささげ、「わたしたちの負い目の証文を抹消して」(51)、人類を父に立ち帰らせました。

それで、祭壇において秘跡的に新たにされるこの犠牲に対して、信者の信心を伴うパンとブドー酒の供え物は独特の寄与をします。それは、司祭の聖別によって聖なる形象となるからです。これは、聖体の祈りの間、とりわけ、聖別の間の司祭の動作の中に、次いで、聖祭の挙式とそれへの参加に、「師がここにおいでになり、あなたを呼んでおられます」(52)という意識が伴うとき、明らかになります。聖祭の間にわたしたちに向けられるこの主の招きによって心が開かれます。それはわたしたちの心が — 贖いの秘儀の中で清められ — 聖体拝領において主に結ばれるためです。この聖体拝領は、成熟した完全な人間生活を義務づける力をミサの参加に与えます。つまり、「教会は、信者が清いいけにえをささげるだけでなく、自分自身をささげることを分かり、仲介者キリストを通して、神との、そして互いの一敦をますます完成し、神がすべてにおいてすべてとなることを望んでいます」(53)。

それで、新しい典礼に含まれているすべての富を見いだすために、新たな、そして熱心な教育を不断に実行に移すことが必要であり、また時宜にかなっています。実際、第二バチカン公会議に行われた典礼刷新は、聖体祭儀に、いわば、より強い鮮明さを与えました。中でもあずかってカのあるのは、司祭が高声でとなえる聖体の祈りの言葉、とくに聖別と奉挙直後の集会の唱和です。

すべてこのようなことがわたしたちに大きな喜びをもたらすとしても、これらの変更は、司式者の側に、 — とくに、対面ミサが行われる今日は、 — 信者の側にも、新しい意識と霊的成熟が求められていることを念頭におく必要があります。聖体の祈りの言葉、とくに聖別の言葉が、深い謙遜と単純さをもって、理解されるように、それの聖性にふさわしく、美しく唱えられるとき、また聖体典礼の本質的行為がゆっくり行われるとき、さらに、参加者が行われている秘義の偉大さを分かり、それを自分の態度で示すような集心と敬虔をもってあずかるとき、聖体礼拝は成熟し、発展します。

(36)ルカ1・34、ヨハネ6・69、使徒行録3・14、黙示3・7。

(37)使徒行録10・38、ルカ4・18。

(38)ヨハネ10・17参照。

(39)ヨハネ10・36。

(40)ヘブライ3・1、4・15以下。

(41)この表現は九世紀のビザンチン典礼で用いられていた。F.E.Bightman. Liturgies Eastern and Western, 1, Eastern Liturgies (Oxford, 1896). p. 318, 34-35.

(42)Missale Romanum, ed. typica altera (roma, 1975) p. 858.

(43)Ⅰ ヨハネ 2・2

(44)東方、西方の両典礼の伝統を通して「聖なる」性格が強調されている。

(ラテン)divinum Mysterium, Sactissimu, Sacrosanctum, etc.

(ギリシア)Mysterion, Hagismon, trishagion, etc.

(45) 聖体拝領への招きのことばの中に、キリストの聖性のいろいろの面が表現されている。

ビザンチン典礼(ヨハネ・クリゾストモの典礼) — 「主は神。わたしたちにお現れになった神」。

アルメニア典礼 — 「唯一の聖なる御父がわたしたちとともに。唯一の聖なる御子がわたしたちとともに。唯一の聖霊がわたしたちとともに」

カルデアとマラパルの典礼 — 天の国の祝典を秘めていることに言及

(46)第llバチカン公会議『典礼窒早』2、47、『教会憲章』3、28、『エキュメニズムに関する教令』2、『司祭の役務と生活に関する教令=13以上参照。特にトリエント公会議第二十二会期一、二章参照。

(47)「ソテリクスに対するコンスタンチノポリス司教会議」(一一五六、一一五七)PG 140,190。

(48)ローマ・ミサ典礼書の総則』49・C。

(49)『ミサの式次第』18。

(50)トリエント公会議、第二十二会期、一章参照。

(51)コロサイ 2・14。

(52)ヨハネ11・28。

(53)『ローマ・ミサ典礼書の総則』55・f。

第三章 主の二つの食卓と教会の共通の善

神のみことばの食卓

10 聖体祭儀が、古来、祈りだけでなく、聖書朗読と全集会の聖歌とも組み合わされていたことをわたしたちはよく知っています。そのために、教会は古くから、教父たちがしたように、自分の子どもに神のみことばと聖体、すなわち、主のパンを与える二つの食卓との比較をミサに適用することができました。それで、今日しばしば「みことばの祭儀」と呼ばれているミサの第一部にもどり、それについて若干考察する必要があります。

毎日のために選ばれた聖書の朗読は、公会議によって新しい規準と必要に従うよう規定されています(54)。このような公会議の規範に従って、新しい朗読集ができ上がり、それには、ある程度、原文の連続と聖書全体の理解との原則が適用されています。典礼における答唱づきの詩編の導入は、旧約の祈りと詩の最も美しい富に親しませるものです。そして、これらの聖句が国語で朗読され、歌われることによって、皆が一層完全に理解して参加できるようになっています。

しかし、ラテン語の古い典礼で教育されたために、全世界において教会の一体性の表現

でもあり、またその荘重な性格を通して、聖体の秘儀の深い感情を刺激したこの「単一の用語」が無くなったことに不満を訴える向きもないではありません。このような感情や願望に対しては、理解だけでなく、敬意も示す必要があります。よって、できる限り、しかし、新しい規則にのっとって、彼らの望みに答えねばなりません(55)。ローマ教会は、古代ローマの素晴らしい用語であるラテン語に対して特別の義務を負うものであり、折りある毎にこれを示す必要があります。

公会議後の刷新によって導入された種々の可能性は、事実、わたしたちを神のみことばの祭儀の証人かつ参加者とするためにしばしば用いられました。そして、この祭儀に積極的に参加する人の数もふえました。朗読者および先唱者のグループ、さらに、しばしば男女の聖歌隊が組織され、熱心にこの面に献身しています。神の言葉、すなわち、聖書は、多くのキリスト教共同体において新しい生命で躍動し出しています。典礼に集まる信者は、語られる福音を適当な信心と愛をもって聞く準備として聖歌を歌っています。

すべてこのようなことを敬意と感謝をもって認めながら、完全な刷新のためには、他にも要求されることのあることを忘れることができません。この必要は、典礼を通して種々の言語で伝達される神のみことばに対する新しい責任感にあります。これは確かに福音の普遍性と目的に一致します。同じ責任感は個々の典礼行為の遂行、朗読または聖歌にも関わりがあります。これは芸術の原則にもー致する必要があります。これらの行為においては、すべてのわざとらしさを退けるために、朗読の仕方あるいは聖歌の歌い方からして、聖書の特性を明らかにするような能力と単純さと同時に品位を表わす必要があります。

それで、典礼における神の言葉に対する新しい責任にもとづくこのような要求は(56)さらに進んで、みことばの奉仕者が典礼集会においてその役割を果たす心構えにも関わりがあります(57)。最後に、同じような責任は聖書の文句の選択にも関わりがあります。このような選択は、すでに教会の主管者によってなされ、特殊な場合により適した朗読箇所を選ぶことのできる道も用意されています(58)。その上、ミサの朗読文の枠の中には神の言葉だけが入ることのできることを常に念頭におく必要があります。ほかの書の朗読を聖書のそれに替えることは許されません。それが確かに宗教的かつ道徳的価値をもっているにしても、そうです。そのような書は、むしろ典礼説教の中で極めて有効に使用することができるでしょう。実際、典礼説教は、そのような書を用いるのに格好の場です。ただし、用いられる書は、教理の要請と条件に合うものでなければなりません。神的な、啓示された英知と種々の方法で真理を探究する勝れた人間的考察との間の一致点を明らかにするのが典礼説教の特別のねらいだからです。

主のバンの食卓

11 聖体の秘義の第二の食卓、すなわち、主のパンの食卓も、今日の典礼刷新の観点から特別の考察が必要であります。これが極めて重要な問題とされるのは、生きた信仰の特別の行為に関するからだけではなく、初代の教父たちが証言しているように(59)、聖体拝領において、わたしたち一人びとりに、わたしたちの心に、わたしたちの良心に、わたしたちの唇に、わたしたちの口に食べ物の形でご自分をお与えになるキリストへの礼拝の表現に関わるからです。それで、この間題に関しては、聖体礼拝に対して責任のある司牧者の方にも、まさにここで極めて強い「信仰の感覚」(60)を求められている神の民の方にも、福音書に言われている警戒が必要であります。

それゆえ、この問題も司教職における兄弟である各位の配慮に任せたいと思います。あなたがたは、何よりもまず、この事をあなたがたに託されたすべての教会のための配慮の中に入れる必要があります。わたしは、わたしたちが使徒から遺産として受けた団体的一体性の名でこれをあなたがたに求めています。このような一体性は、ある意味で、聖木曜日の主のパンの食卓で生まれました。司祭職におけるあなたがたの兄弟たちの助けによって、聖体の奉仕の神聖な尊厳と聖体拝領の深い意味を守るために、できる限り全力を尽くしてください。聖体拝領は、神の民としての教会の特別の恵みであるだけでなく、使徒的かつ種々の典礼的伝承、さらには「十字架の学校」(痩け)と聖体のそれによって教育され、しばしば、キリストの英雄的証人となった幾世代の信者から伝えられた特別の遺産であります。

それで、主のパンの食卓としての聖体は、不断の招きであることを記憶する必要があります。これは、「見よ、神の小羊を、小芋の食卓に招かれたものは幸い」(61)という司式者の典礼的指示でも、また婚宴への招きに関する福音書の中によく知られている誓え(62)からも伺えます。しかし、この誓えの中で、種々の事情を理由に招きに応じないものが多くいることも承知しています。

確かにわたしたちのカトリック共同体の中にも、聖体拝領に参加できても、また良心に大罪の妨げがないのに、それに参加しないものがいないではありません。実を言うと、このような態度は、ある人の場合は過度の厳格さから来るもので、今もあちこちに見られるが、今世紀になって変わっています。実際、よりしばしば見られるのは、不適格の感情よりもある心情の欠如です。 — もしこのように言うことができるなら — 聖体的な飢えと渇きの欠如です。その裏には、愛の偉大な秘跡の性質に対する十分な感情と理解の欠如がかくされています。

しかし、近年は別な現象も見られます。時として、いやかなり多くの場合、聖体集会にあずかるものが皆聖体を拝領しています。しかし、経験のある牧者たちが確認しているように、時には、良心を清めるために、まず、ゆるしの秘跡を受けるという必要な心遣いがなされていません。もちろん、これは、主の食卓に近づくものが、自分の良心において、また神の客観的法に従って、キリストとの秘跡的一致の崇高な喜ばしい行為を妨げるものが何も無いと感じていることを意味することもできます。しかし、そこには、少なくとも時として、別な考えがかくされていることもありえます。つまり、ミサを単なる宴会と考え(63)これに与ってキリストの体をいただくのは、何よりもまず兄弟的愛を表すためと思っています。このような動機には、容易にほかの人間的な考えや順応主義が加わることができます。

このような現象は、警戒的な注意と重大な責任感とによる神学的かつ司牧的分析を要求しています。わたしたちは、共同体の生活において、キリスト教的良心の繊細な感受性が無くなるのを容認することはできません。この良心は、聖体拝領によってわたしたち一人びとりの心にふさわしい住居を見いだすはずのキリストに対する尊厳だけで指導されます。この問題は、ゆるしの秘跡の実行にだけでなく、道徳的教えの全遺産と善悪の正確な区別に対する正しい責任感にも固く結ばれています。このような区別は、聖体にあずかる各人にとって、良心における自己判断の土台となります。「ひとりひとり自分を吟味しなさい」(64)という聖パウロの言葉はよく知られています。このような判断は、聖体を受けるか控えるかを自分で決めるための欠かせない条件です。

聖体祭儀の挙式は、聖体の食卓の奉仕に関して、わたしたちにほかの多くの要求を持ち出します。それは、あるものは司祭と助祭だけに関し、あるものは、聖体祭儀にあずかるすべてのものに当たります。司祭と助祭は、主のパンの食卓の奉仕によって特別の義務を負わされることを記憶する必要があります。それはまず、聖体に現存するキリストご自身に対するものであり、次に、現実にあるいは可能的に聖体にあずかるすべてのものに対するものです。前者に関しては、司祭叙階の折り、司教が、信者から奉納され、助祭から用意されて、皿にのせられたパンと杯に入れられたブドー酒を新司祭に渡しながら唱える次の言葉を想起することは無駄ではありません。「聖体祭儀のための聖なる民の供え物を受けなさい。あなたが行おうとしていることを理解し、あなたの手に置かれた秘儀に生き、わたしたちのためにいけにえとなられたキリストに倣いなさい」(65)。司教から与えられたこの最後の訓話が司祭の聖体奉仕のための最も重要な規範とならねばなりません。

司祭は右の訓話から贖い主の御体と御血になったパンとブドー酒の扱い方についての霊感を汲み取る必要があります。それで、聖体の奉仕者たるわたしたちは皆、祭壇におけるわたしたちの行為、とくに、わたしたちが手にするわたしたちの主なる神の御体と御血である聖い食べ物と飲み物の扱い方、どのように聖体を授けるか、どのように清めをするか、入念に調べる必要があります。

このようなすべての行為には、それぞれ意味があります。小心を避けねばならないことは言うまでもありません。しかし、無礼な態度や度を越したせっかちや、つまずきを与えるような気短さから、神がわたしたちを守ってくださいますよう。わたしたちの最高の栄誉は、 — 宣教の使命を果たすことの他に — 贖い主の御体に対してこのような神秘な権能を行使するところにあります。それで、わたしたちの内にあるすべては、それに全く関係づけられる必要があります。なお、この奉仕的権能は秘跡的に聖別されたものであり、わたしたちは、人々の中から、「人々の利益のために」(66)選ばれたものであることを常に念頭に置かなければなりません。とくに、ラテン・ローマ教会の司祭であるわたしたちはその叙階の式が、長い世紀の間に、司祭の手に塗油する慣行を取り入れたことを考える必要があります。

ある国では、手による聖体拝領が実行されています。そのような慣行は、個々の司教協議会から申請され、使徒座の承認を得ています。しかしながら、聖体の形象に対する嘆かわしい尊敬の欠如の事実が報告されています。この事は、そのような態度に出た違反者だけでなく、聖体に対する信者の態度に十分注意しなかった教会の牧者にも責任があります。なお時には、手による聖体拝領が認められているところで、口で拝領することを望む人たちの意志と自由選択が考慮されていない場合もあります。それで、本書簡において、右に触れた悲しい事実に言及しないのはむずかしいことです。この事は、このような慣行が認められた国で、主イエズスを手に受けながら、深い尊敬と信心をもって、そのようにしているものを指すものでは毛頭ありません。

しかしながら、司祭キリストを象徴するために、叙階において聖別された司祭たちの第一の務めを忘れてはなりません。彼らの手は、その言葉と意志と同様、キリストの直接の道具となったのです。によって、つまり、至聖聖体の奉仕者として、聖なる形象に対して第一次の責任を持っています。そゃは総括的責任だからです。つまり、パンとブドー酒をささげ、それを聖別し、そして聖体拝領を望む集会参加者にそれを授けます。助祭は、単に信者の供え物を祭壇に運び、一度司祭から聖別されたものを配ることができるだけです。それで、古代の慣行ではないとしても、わたしたちのラテンの叙階式における手の塗油式は、この手のために聖霊の特別の恩寵と力とが必要であることを雄弁に物語るものではないでしょうか。

聖なる形象に触れ、それを自分の手で配ることは叙階されたものの特権です。これは、聖体の奉仕への行動的参加を示します。教会がこの権能を司祭でも、助祭でもないものに与えることのできるのは明らかなことです。自分の職務を遂行中の教会の奉仕者、とくに将来叙階に予定されているもの、あるいは、正しい要求に応じて、そのために選ばれたほかの信徒の場合が、そうです。しかし、この信徒の場合は、常に適当な準備を要します。

教会の共通の善

12 わたしたちは、聖体が教会全体の特別の善であることを片時も忘れることができません。それは、天の花婿が自分の花嫁に、恩寵と秘跡の領域で送った、また絶えず送る最高の贈り物です。それで、そのように大きな賜ものであるから、わたしたちは皆深い信仰をもって、真にキリスト信者の責任の感情に導かれねばなりません。賜ものというものは、何か厳格な意味の権利をもってわたしたちに呼びかけるのではなく、むしろ、個人的に与えられ、従って、法的な義務もなく、信頼と感謝の心を要求するものであるから、それだけ責任が重くなります。聖体はまさにそのような賜ものであり、そのような善であります。それで、わたしたちは、聖体が自らにおいて表わしていること、またわたしたちに求めていること、つまり、感謝をささげることに、細かな点にまで忠実でなければなりません。

聖体は、一致の秘跡として、教会全体の善であります。それで、教会には、それらの祭儀と参加に関する一切のことを明確にする厳しい義務があります。それゆえ、先の公会議で決定された原則に従って動かねばなりません。公会議は、典礼憲章において、それぞれの教区における個々の司教あるいは司教協議会の権限と義務を規定しました。そのどちらも使徒座との団体的一体性において行動するからです。

その上、わたしたちは、この分野で関係聖省から出された省令を守らなければなりません。典礼問題では、聖体の秘義に関するものとして、典礼書に決められてある規則、同じ秘義に関する指針(67)、さらに「聖物における交わり」に関しては、「教会一致の問題に関する指針」(68)の規定と「カトリック教会における聖体拝領にほかのキリスト教信者を受け入れる特殊な場合に関する指針(69)があります。刷新のこのような段階で、ある種の自主的な創造の可能が与えられているとしても、その場合、実質的な一体性の要求が大いに尊重されなければなりません。このような多様性(これは、中でも種々の国語が典礼に導入されたところからすでに出ています)の道では、わたしたちは、聖体の祭儀の本質的特徴が失われず、また最近の典礼刷新による規定が尊重される点まで進むことができます。

第二バチカン公会議の計画による聖体礼拝の多様性の中に、聖体がそのしるしかつ原因である一体性が現われるよう、どこにおいても欠かせない努力を払う必要があります。

このような任務に対して、使徒座は事柄の性質上、監視する義務があるが、各司教協議会だけでなく、聖体奉仕者のすべてが、例外なく、この務めを引き受ける必要があります。その上、おのおのが教会全体の共通の善に対して責任のあることを念頭に置かねばなりません。司祭は、奉仕者として、司式者として、信者の聖体集会の司会者として、自分の奉仕を通して代表する教会の共通の善に対して特別の感覚をもたねばならないが、他方、信仰の正しい規則に従って、共通の善に従わねばなりません。司祭は、典礼文や聖なる式を私物のように自由に使用し、あるいはそれに自分の任意の様式をもたせることのできる 「所有者」であるかのように思い込んではなりません。そのような個人的な様式は、ときにはより効果的に思われ、主観的な信心に一層適合することもできます。しかし、客観的には、それは、とくに一致の秘跡の中に真実に表現されねばならないあの一致に常に反します。

聖祭を行うすべての司祭は、聖祭の間、自分だけが、共同体と一緒に祈っているのではなく、教会全体が祈っていることを思い出す必要があります。このようにして、教会は、認可されたこのような考えを「画一主義」と呼ぶものがいたら、それは、真の一体性の客観的要求に関する無知を示すもので、いわゆる、有害な個人主義の徴候であります。

奉仕者あるいは司式者が、神の民全体の利益のために教会から自分に託された「秘義」に従うことは、聖祭の挙式に関する典例法規の遵守にも表される必要があります。この法規は、例えば、服装、とくに司式者が着ける祭服に関するものです。語気規定が義務づけない場合があったこと、またあることは当然です。わたしたちは、かつて皆殺しのための収容所の捕虜であった司祭が書いた本の中に、右のような規定によらない、つまり、祭壇も祭服も抜きにした聖体祭儀に関する報告を、読んで感動しました。しかし、そのような状況の下では、それは英雄的行為のしるしであり、深い尊敬に値するものであるとしても、正常な条件の下で、典礼の規定を疎かにすることは、個人主義か、世論に関する批判精神の欠如か、あるいは、一種の信仰心の衰えによる聖体に対する尊敬心の欠如と解することができるでしょう。

神の恩寵によって聖体の奉仕者であるわたしたちは皆、わたしたちの司牧的配慮にゆだねられているわたしたちの兄弟および姉妹の思想と態度について特別に責任を負わされています。わたしたちの使命は、とくに個人的模範によって、この愛の秘跡に現存し、働いておられるキリストに対するすべての健全な形の礼拝を促すにあります。わたしたちがそれと違ったようにしないよう、また、聖体礼拝の種々の表現と形式に不慣れになって、それを衰えさせないよう、神がわたしたちをお守りくださるように。またそのような形式には、「伝統的」ではあるが健全な信心、とくに第二バチカン公会議が喚起したように(70)、神の民全体がもっている 「信仰の感覚」が表現されています。

司教職において敬愛する兄弟の皆さん、このようなわたしの考察を終えるに当たって、わたしは、次のことについて、わたしとあなた方すべての名で赦しを願いたいと思います。それはどのような理由にせよ、どのような人間的な弱さ、性急、あるいは怠慢によるにせよ、また第二バチカン公会議の規定のかたよった、一面的な、また誤った適用によるにもせよ、教理の解釈とこの偉大な秘跡にふさわしい礼拝に関して、つまずきと混乱をもたらしたと思われるすべての事のためです。今後は、わたしたちがこの聖なる秘義を扱う場合に、わたしたちの信者の敬慶と愛の感情を、どのような仕方であれ、弱めたり、ゆがめたりすることが避けられるよう主イエズスに祈ります。

キリストが、聖体的な完全な生活と礼拝のための刷新の道をわたしたちが続けるのを助けてくださるよう。この礼拝によって教会は、すでに所有しており、神の光栄と人類の救いのために、さらに完全にしたいと願っている一敦において築かれます。

結び

13 敬愛する兄弟の皆さん、わたしは、いくつかの問題だけの突っ込んだ吟味にあてられたこの考察をここで終わりたいと思います。わたしは、この考察を始めるに当たって、第二バチカン公会議から展開されたすべての作業を見ていただけでなく、公会議の間に出されたパウロ六世の回勅「信仰の秘儀」ならびに公会議後の典礼刷新を実行に移すために、同会議の後で公布されたすべての文献を念頭におきました。実際、典礼の刷新と教会全体の刷新の間には密接なまた有機的なつながりがあります。

教会は活動するだけではなく、自らを典礼に表現し、典礼を生き、典礼から活力を汲み取ります。それで、第二バチカン公会議の精神で正しく行われた典礼刷新は、ある意味で、同公会議の教えを実行するための規準であり、条件であります。わたしたちは深い信仰をもって、つまり、公会議を通して聖霊が真理を「教会に語り、今日と明日の人々に対して教会の使命遂行に役立つ指針をくださったものと確信して、その教えを尊重したいと思います。

今後も、常に生きた伝承の精神に導かれ、第二バチカン公会議の教えに従って、教会の刷新を促し、続けるために特別の配慮がなされるでしょう。実際、「時のしるし」を正しく読み直すことも、正しい意味の聖伝の実質に属しています。それに従って、啓示の豊かな宝の中から「新しいものと古いもの」(71)を引出す必要があります。このような精神で、第二バチカン公会議は、福音のそのような勧めに従って作業し、しばしば「古いもの」、つまり、教父たちの遺産に由来し、長い間、一体であった教会の信仰と教えを表現するものに訴えて、教会の典礼の面を新たにすることに摂理的な努力を傾けました。

典礼の分野、とくに聖体礼拝の分野での公会議の指針を将来も続いて実行することができるためには、聖座の聖省と各司教協議会との緊密な協力が極めて必要です。この協力は警戒的で同時に創造的なものでなければなりません。わたしたちは至聖秘跡の偉大さと同時に精神の動きと社会の変化から目を離すことはできません。このような事柄は実に暗示的で、時として困難を生ずるだけでなく、信仰の偉大な秘義への新しい参加の仕方の準備にもなります。

何よりまずわたしが強調したいのは、典礼の問題、とくに聖体礼拝のそれが、カトリック信者を分裂させて、教会の一敦を脅かす機会であってはならないということです。これは、キリストが精神的一致の印、愛の絆である(72)聖体は、本質的に教会の一致そのものの原因であり、また焦点であるはずなのに、どうして、それが今日わたしたちの間の分離点、思想と行動の不和の源でありえましょうか。

わたしたちはみな一様にわたしたちの贖い主に対して負い目があります。わたしたちはみな一緒に、キリストが教会に約束され、そして教会の内に働いている真理と愛の霊に聞かねばなりません。わたしが、この真理と愛の名で、また十字架につけられたキリストと、その御母の名であなたがたに願うのは、一切の対立と分裂を退けて、わたしたちの贖いの代価であり、また成果でもあるこの偉大な救いの使命において皆が一つに結ばれることです。使徒座は、このような一致を保証する手段を提供するために可能なすべてのことをするでしょう。しかし、おのおのも、自分の思うままにして、「聖霊を悲しませること」(73)のないよう注意する必要があります。

このような一致とそのための不断の整合的協力が忍耐強く続けられるよう、わたしは、聖霊の浄配かつ教会の母であるマリアの御取り次ぎによって、聖霊の光がわたしたち一人びとりに与えられるよう伏して懇願します。司教職において敬愛する兄弟の皆さん、心からおのおのがたを祝福し、今一度、兄弟的敬意と完全な信頼をもって申します。わたしたちがあずかっているこの団体的一致において、聖体がますます地上におけるキリストの教会の普遍的一致の中にあるすべての兄弟姉妹の生活の源かつ良心の光となるよう全力を尽くしましょう。

兄弟的愛の精神において、あなたがたと司祭職におけるすべての兄弟たちに心から使徒的祝福をおくります。

一九八〇年四旬節第一主日(二月二十四日)

教皇位二年目

       ヴァチカンより

教皇ヨハネ・パウロ二世

(54)第二バチカン公会議『典礼憲章』顎51参照。

(55)礼部聖省『司牧指針』(一九六五)VI17〜18、VII19〜20、『典礼音楽に関する指針』(一九六九) IV48など参照。

(56)パウロ六世の『ローマ・ミサ典礼書を公布する使徒座憲章』に次のように言われている。「司祭も、信徒も、みな、主の晩さんのために心を清く撃言とともに、聖書をいっそう深く黙想し、主のことばに日盲と豊かに養われることを深く確信しています」。『ミサ典礼書』14ページ。

(57)司教儀式書『宣教奉仕者と教会奉仕者の選任式』4参照。

(58)『ロ−マ・ミサ典礼書の総則』319〜320参照。

(59)Fr. J. Dolger, Das Segnen der Somme ,mot der Eucharistie, Eine eucharistiliche Kommunionsitte: Antike und Christentum, t. 3 (1932) pp. 231-244 参照。)

(60)第二バチカン公会議『教会憲章』12、35。

(61)ヨハネ1・29、黙示19・9以上参照。

(62)ルカ14・16以下参照。

(63)『ローマ・ミサ典書の総則』7〜8参照。

(64)Ⅰ コリント 11・28。

(65)『叙階の儀』(カトリック中央協議会一九七〇)18ページ。

(66)ヘブライ5・1。

(67)礼部聖省『聖体祭儀指針』(1967)カトリック儀式書『ミサ外の聖体拝領と聖体礼拝』(1973)、典礼聖省『奉献文に関して司教協議会会長への書簡』(1967)。

(68)『エクメニズム指針』38〜63。

(69)AAS 64(1972)pp. 518-525。

(70)第二バチカン公会議『教会憲章』12参照。

(71)マタイ 13・52

(72)聖アウグスチヌス「ヨハネ福音書の注解」26・13参照。

(73)エフェソ 4・30。