1635〜1661:第13総会:聖体についての教令

(1551年10月11日)

1547年3月から聖体についての異端者の説の検討が始められた。また、ヨハネ・エコランパディウスの『これは私の体であるという主の言葉の古代の著者による真の意味について』(バーゼル、1525年)、特に第1と8条に関しておよびウルリク・ツヴィングリの1525年3月の『宗教の真偽について』、1525年の『聖体の解説』、1526年のEine klare Unterrichtung vom Nachtmahl Christiが検討された。公会議の開催地がボローニヤに移された後、5月9〜31日の間、それぞれの条項について種々討議された。1551年9月にトレントに帰った公会議出席者たちは、条項の討論を再開した。10月2日と9日の2度別の形式の草案が提出された。

序 文

1635(873a)  神聖にして侵すべからざるトレント公会議は、・・・聖霊の特別の導きと摂理をもって、信仰と秘蹟とについての古来からの真の教義を表明すること、そして現在天主の教会を哀れにも苦しめ、多くの様々な部分へと粉々に引裂いている全ての異端とその他の非常に重大な困難とに対する解決策を提供することを目的として召集されたのであるが、特に最初から既に、現代の不幸な時代に、私たちの救い主は、それによって全てのキリスト者が互いに結びつき一致することを望み給い、教会の一致と愛との象徴としてご自分の教会に残し給うたそのいとも神聖な聖体の信仰の教義、聖体の執行および聖体の礼拝に関して敵がまいた極めて忌まわしい誤謬および離教の毒麦(マテオ13・25参照)を完全に根絶することを特に望んだ。それゆえ、同じいとも聖なる公会議は、この尊敬すべき天主の聖体の秘蹟についてかの健全な正しい教えを、すなわち、聖体の秘蹟について私たちの主イエズス・キリストとその使徒たちによって教えられ、また、全ての真理を思いださせる聖霊によって(ヨハネ14・26参照)導かれたカトリック教会が保ち、世の終りまで守り続けるであろうその教えを伝えつつ、全てのキリスト信者達に、この後、いとも聖なる聖体について、この教令によって説明され定義されたことと異なったことを敢えて信じ、教え、説くことを禁ずる。

第1章 いとも聖なる聖体の秘蹟における私たちの主イエズス・キリストの実在

1636(874)  まず第一に、聖なる公会議は次のことを教え、簡単明瞭に表明する。尊敬すべき聖なる聖体の秘蹟において、パンとブドー酒の聖別の後、まことの天主でありまことの人である私たちの主イエズス・キリストが、真に、現実に、実体的に、パンとブドー酒という、かの可感覚的な形色のもとに含まれている(DzS1651)。また、事実、私たちの救い主ご自身が御本性に相応しい存在の仕方で天において常に聖父の右に座しておられることと、しかし、たとえ私たちが言葉で表わすことはほとんど不可能であるとしても天主には可能であり、信仰を通して照らされた認識によって私たちが同意することができ且つ固く信じなければならない存在の仕方によって、秘蹟的に他の多くの場所にご自分の実体によって現存して私たちに臨在しておられること、とは互いに矛盾しない。

1637この聖なる秘蹟について論じた私たちの先祖たちの大部分は、その多くはキリストの真の教会の中にいたのであるが、全く明らかに次のように宣言した。すなわち、私たちの救い主は、パンとブドー酒を祝した後、明瞭ではっきりとした言葉で自分の体と自分の血を彼らに与えることを証言した時、このすばらしい秘蹟を最後の晩さんにおいて制定したこと。聖なる福音記者たちによって書きとめられ(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下)、聖パウロによって繰返されている(1コリント11・23以下)言葉は、教父たちもそれに従って解釈した固有の全く明らかな意味を表面に出しているので、その言葉を、或る論争好きの悪しき人々が、架空の想像にまかせた修辞に意味を曲げ、教会の普遍の解釈に反して、キリストの肉と血の真理を否定することは最も恥ずべき行為である。真理の柱であり基礎である(1ティモテオ3・15)教会は、キリストのこのすばらしい恩恵に常に感謝し忘れることなく、不敬虔な人々によって考え出された解釈を悪魔的であるとして憎悪する。

第2章 このいとも聖なる聖体の秘蹟制定の理由

1638(875)  従って、この世を去って聖父のもとへ行こうとする私たちの救い主は、この秘蹟を制定し給うたが、主は、人間たちに対するご自分の天主的な愛の宝をそこにおいていわば注ぎ給い、「ご自分のいろいろな不思議なわざを記念しつつ」(詩編110・4)、それを拝領することにおいて私たちが「ご自分の記念」(1コリント11・24)を執り行い、「主がこの世を裁くために来たり給う時まで主の死去を告げる」(1コリント11・26)ように命じ給うた。主はこの秘蹟が霊魂らの霊的糧(マテオ26・26)として拝領され、それによって「私を食べる人は私によって生きる」(ヨハネ6・58)と言った主の命によって生けるものたちが養なわれ、強められる(第5条)ことを、また、それによって私たちが日々のあやまちから解放され大罪から守られる薬として、この秘蹟が受けられることを望み給うた。さらに主はこれが私たちの未来の栄光と永遠の幸福の保証であることを望み、また「私たちが皆同じことを語り、私たちのうちに分裂が無いように」(1コリント1・10参照)するため、主をとする(1コリント11・3、エフェソ5・23)この一つの、また、肢体としての私たちが信仰と希望と愛との連結によってしっかりと結ばれることを望まれ給うたその体の象徴としてあることを望み給うた。

第3章 他の秘蹟よりも聖体が優れていること

1639(876)  確かに、このいとも聖なる聖体の秘蹟は、「聖なるものの象徴(しるし)であり、目に見えない聖寵の目に見える形である」という点では、他の秘蹟と共通である。しかし、聖体は次の点で優れており特異である。すなわち他の秘蹟は人がそれを用いる時にまず聖化の力を持つが、聖体には、それが用いる以前から既に聖性の作者ご自身がましまし給う(第4条)。

1640使徒たちが主の手からまだ聖体を受けていなかったが(マテオ26・26;マルコ14・22)、しかし主はかれらに与えるのがご自分の御体であると断定し給うたので、そして聖別の直後に私たちの主の真の御体と真の御血とが、パンとブドー酒の形色の下に、その御霊魂と御神性と共にまします給うことが、しかし(聖変化の)言葉の力によってパンの形色の下に御体、ブド一酒の形色の下に御血が、また、「死者のうちからよみがえって、もう死ぬことがない」(ローマ6・9)主キリストの各部分は互いに主の素晴らしい位格的結合によって御神性と(第1条、第3条)結びついているその自然の結合と共存との力によって、ブドー酒の形色の下には御体それ自体、パンの形色の中には御血、また両者の形色の下には御霊魂が存することが、天主の教会における絶えざる信仰であった。

1641そのため、同じものが両形色のどちらか一つの形色の下に、そしてまた両方の形色の下に含まれているということは極めて真実である。実に、完全な全てのキリストがパンの形色の下に、しかもパンの形色のいかなる部分の下にも、また、同じ全てがブドー酒の形色の下に、しかもブドー酒の部分の形色の下に存在する(第3条)。

第4章 全実体変化について

1642(877)  ところで、私たちの贖い主キリストは、パンの形色の下で捧げ給うたそれを、真実にご自分の御体であると仰せられたので(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)、そのように天主の教会においては常に納得してきたし、またそのことを今もう一度この聖なる公会議は宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖別によって、パンの全ての実体はことごとく私たちの主キリストの御体の実体と変わり、ブドー酒の全ての実体はことごとくその御血の実体に変化する。この変化は聖なるカトリック教会によって相応しくそして適切に全実体変化と言い表わされた(第2条)。

第5章 この至聖なる聖体の秘蹟に捧げられるべき礼拝と崇敬について

1643(878)  そのため、カトリック教会において常に受け入れられた習慣に従って、全てのキリスト信者が、天主に対してなされるべき天主にふさわしい礼拝を、この聖なる秘蹟に対して崇敬して捧げるのは何故かということは、些かも疑う余地のないことである(第6条)。実に、拝領されるために主キリストによって制定されたそれが(マテオ26・26以下)、だからといって礼拝されないべきではない。何故なら、永遠の聖父が全地に主を導き入れつつ「天主の全ての天使は、彼を礼拝せよ」(ヘブライ1・6;詩編96・7)と言い、博士たちが「ひれ伏して礼拝した」(マテオ2・11参照)、最後にガリレアにおいて使徒たちによって「礼拝を受けた」(マテオ28・17参照)と聖書が証言するのと同じその天主が聖体において現存することを私たちは信じているからである。

1644更にまた聖なる公会議は、毎年、何らかの特別の祝日にこの敬うべき秘蹟を特別の崇敬と荘厳な祭典をもって祝い、行列を作って道路と公の場所をめぐってこれを恭しく崇敬するというこの習慣が敬虔に信心深く天主の教会にとり入れられたことを宣言する(注 1264年に採用された御聖体の祝日のこと)。全てのキリスト者が、共通の主にして贖い主に対して、このように言い表わせないほどのすばらしい天主からのたまもの、主の死の勝利と凱旋とがそれによって表わされている、たまものに対して、特別の貴重な印をもって感謝と記憶の念を表わすために何日かの聖なる日々が定められたが、これは極めて当然のことである。またこのようにして虚偽と異端とに勝利を収める真理が凱旋しなければならなかった。それは、真理に対する敵対者どもが、このような輝きを目の当たりにし且つこのように全教会の喜びの内に置かれ、或いは衰弱して少数となり、或いは恥入り混乱して、いつかは正しい道に立帰る為である。

第6章 聖体の秘蹟を保存しなければならないことと病人に奉持しなければならないこと

1645(879)  聖櫃に聖体を保存する習慣は古くからのものであって、すでにニケア公会議の時代に認められていた。さらに、御聖体それ自体を病人に奉持しこのために御聖体が諸教会において注意深く保存されるのは、極めて当然で理に適っていることばかりでなく、過去の数々の公会議で命ぜられており、カトリック教会の最も古くからの習慣として遵守されていた。そのため、この聖なる公会議はこの救いに有益で必要な習慣をそのまま保たれなければならないことを決定する(第7条)。

第7章 御聖体をふさわしく拝領するためにしなければならない準備

1646(880)  誰であろうと、聖にして確かなやり方でない限り、聖なるいかなる儀式に近づくことは相応しくない。したがって、この天からの秘蹟の聖なるものであること、天主からのものであることがキリスト者に明らかであれば明らかであるほど、大いなる崇敬と聖徳とを欠いたまま(第11条)これを拝領しようと近づくことがないように、より熱心に注意しなければならない。特に使徒(聖パウロ)の書簡の中には次のようなはっきりとして恐ろしい言葉を私たちは読むからである。「主の体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食する者である」(1コリント11・29)。したがって、御聖体を拝領しようと望む者たちは、「おのおの自分を調べなければならない」(1コリント11・28)というパウロの命令を思いださなければならない。

1647教会の慣習は次のように宣言する。大罪を持つと知っている者は誰であれ、たとえ痛悔したと思っても、告解の秘蹟による罪の赦し無しに御聖体を拝領してはならないように、これを確認することが必要である、と。全てのキリスト信者は、職務によって聖祭を挙行しなければならない司祭たちも、彼らに聴罪司祭が欠けていない限り、永久にこれを守らなければならないと、この聖なる公会議は命じた。もし司祭が緊急の必要に迫られて、事前に告解をせずに聖祭を挙行した時には、できるだけ早く(DzS2058参照)告白しなければならない。

第8章 この素晴らしい秘蹟の活用について

1648(881)  活用については、私たちの先祖たちが正しく賢明にこの聖なる秘蹟を拝領する3つの方法 (rationes) を区別している。ある者たちは、これをただ秘蹟的に罪人として受けることを教えた。また、ただ霊的にのみこれを受けることを教えた者もいる。彼らは確かに、望みにおいてかの天のパンを食し、「愛のうちに働く」生きた信仰によって(ガラチア5・6)その実りと効力を認めている。また、第3の者たちは同時に秘蹟的に且つ霊的に(第8条)聖体を受けることを教えた。彼らはこの天主の食卓に近づくために、「婚礼の服を着て」(マテオ22・11以下参照)いるかどうかまず自分自身を調べ準備する者たちである。秘蹟的に御聖体を拝領する時、信徒は司祭から聖体を拝領し、挙式する司祭は自分自身で拝領する(第10条)のが天主の教会における常なる古くからの習慣である。使徒からの伝えによって伝わったこの習慣は正しくまた相応しく保たれるべきである。

1649(882)  最後に聖なる公会議は「天主の深い憐みによって」(ルカ1・78)父としての愛情をこめて、次のことを警告し、勧め、懇願し、心から乞願う。すなわち、キリスト者という名を持つ全てが一人一人、この「一致のしるし」、この「愛の絆」(注 アウグスティヌス、In ev. Ioh. tract. XXVI, C.13)、この和合の象徴においてついには一つに集い且つ一つの心となり、また、私たちの救いの代価としてご自分の愛する霊魂を、そして、私たちに自分の御体を食するように与えた(ヨハネ6・48以下)私たちの主イエズス・キリストの大いなる御威稜とかくも崇高な愛とを記憶し、且つ、彼らがこの超実体的パン(マテオ6・11)を頻繁に拝領することができ、またそれが真に彼らにとって霊魂の生命、精神の永遠の健康となり、「その力で強められ」(列王記上19・8)この悲惨な巡礼の旅路から天の祖国に達し、今は聖なるベールの下で食する同じ「天使たちのパン」(詩編77・25)を、彼らが如何なるベールも無く食べるに相応しいものとなるような、それほどの常なる堅固な信仰と、心からの信心と、敬虔と崇敬とをもって主の御体と御血のこの聖なる秘義を、信じ、尊ぶように。

1650ところで、誤謬を見破り、論破するのでなければ、十分に真理を言ったことにはならないので、聖なる教会会議は、全ての人が既にカトリックの教義を知り、異端に注意してこれを避けなければならないと理解するように、次の諸規定をつけ加えるのが良いと考えた。

いとも聖なる御聖体の秘蹟に関する規定

1651(883)1条

いとも聖なる御聖体の秘蹟において、真に、現実に、そして実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が御霊魂と御神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘蹟には、しるしまたは象徴あるいは効力においてのみある、と言う者は排斥される(DzS1636、1640参照)。

1652(884)2条

至聖なる御聖体の秘蹟において、パンとブドー酒の実体が私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とともに残ると言い、パンとブド一酒の形色だけを残し、パンの全実体が御体に、ブドー酒の全実体が御血に変わるかの素晴らしい特異な変化(この変化をカトリック教会は全実体変化という全く適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される(DzS1642参照)。

1653(885)3条

尊うべき御聖体の秘蹟において、一つ一つの形色の中に、また、分割された時には一つ一つの形色のそれぞれの部分に、全キリストが含まれていることを否定する者は排斥される(DzS1641参照)。

1654(886)4条

聖変化がなされた後、素晴らしい御聖体の秘蹟において私たちの主イエズス・キリストの御体と御血があるのではなく、それを拝領する間しかも拝領の前後にでもなく、活用する時だけに限って [私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が] あるとか、御聖体拝領の後に保存される或いは残っている聖別されたホスチア或いはその部分において、主の真の御体は残らない、と言う者は排斥される(DzS1639〜1640参照)。

1655(887)5条

いとも聖なる御聖体の主な結実は罪の赦しであると、或いは、御聖体からその他の効力は出て来ない、と言う者は排斥される(DzS1638参照)。

1656(888)6条

聖なる御聖体の秘蹟において天主の御独り子キリストを天主にのみ相応しい礼拝で外的な方法でさえ礼拝すべきでなく、従って、特別な祝祭の祝いで崇敬したりすべきでも、聖なる教会の賞賛すべき普遍の儀式と習慣と従って行列で荘厳に回って崇敬したりするべきでもなく、或いは、礼拝のために公的に人々に顕示したりすべきではなく、これを礼拝する者は偶像礼拝者である、と言う者は排斥される(DzS1643〜1644)。

1657(889)7条

聖なる御聖体を御聖櫃に安置することは許されず、聖変化の直後に列席者らに必要なだけ配布すべきである、とかまたは、御聖体を病人に恭しく奉持することは許されない、と言う者は排斥される(DzS1645参照)。

1658(890)8条

御聖体において表されるキリストは、ただ霊的に食され、秘蹟的に現実に食されるのではない、と言う者は排斥される(DzS1648参照)。

1659(891)9条

分別の年齢に達した男女の全てのキリスト信者はそれぞれ、聖にして母である教会の掟に従って、毎年少なくとも復活祭の頃に御聖体を拝領しなけれはならないことを否定する者は排斥される(DzS812参照)。

1660(892)10条

挙式司祭は自分自身で御聖体拝領をしてはならない、と言う者は排斥される(DzS1648参照)。

1681(893)11条

いとも聖なる御聖体の秘蹟を拝領するための準備として、信仰だけで十分であると言う者は排斥される(DzS1645参照)。また、かくも大いなる秘蹟を十分な準備なしに、従って死と地獄との為に拝領しないように、この聖なる教会会議は次のことを決定し宣言する。すなわち、大罪を意識している者は、たとえ痛悔の心を起していても、聴罪司祭がいる場合には告解の秘蹟を事前に受けなければならない。これと反対のことを教え、説教し、頑固に主張し、或いは、公の討論によって弁護しようと敢えてする者はその事実によって破門されている(DzS1647参照)。