1738〜1760:第22総会 ミサ聖祭について

(9月17日)

a)犠牲としてのミサの祭儀について

(解説: 公会議に出席した神学者たちは、1547年8月からボローニャでミサおよび叙階の秘跡についての異端者の説を検討し始めた。検討の対象となった主な著作はDzS1600の説明にある。1551年にトレントで同議題が検討された。1552年1月にミサと叙階の秘跡についての教理と規定の草案が作成されたが、結論に達しないままで公会議が中断された。最後に7月19日に同草案がとりあげられ、ミサについて13箇条の規定が提出され、8月6日と9月5日に新しい草案が準備された。各章の見出しは第22、23総会の記録原本にはないが、フィリップ・シフレ一によって1640年にアントワープから出版された記録にはじめて書き込まれている。)

序 文

1738(937a)  聖なるトレント公会議は ……  聖なるカトリック教会における偉大な御聖体の玄義に関する古代からの絶対のまた全ての部分に亘って完全なる信仰と教義を守り、誤謬と異端を排斥してそれをその純粋性において保存するために、御聖体の秘跡が真の特異ないけにえであるから、それについて聖霊の照らしによって教えられて、次に述べることを教え、宣言し、信徒に説教するべきであると決定する。

第1章 いとも聖なるミサのいけにえの制定について

1739(938)  旧約の下においては(使徒パウロの証言によれば)レビ族の司祭職の不能さの故に完全なものではなかったので、(憐れみの聖父なる天主がそのように秩序付けた計画によって)「メルキセデクの位による」(創世記14・18;詩編109・4;ヘブレオ7・11)別の司祭が立ちあがらなければならなかった。すなわち、私たちの主イエズス・キリストであって、聖化すべき全ての人々を完全なもの(ヘブレオ10・14)にし、完成へと導くことができる方である。

1740 従ってこの天主であり、私たちの主は、十字架の祭壇で、死を通して、一度、聖父なる天主に自分をささげようとしていた。彼らに[そこで]永遠の贖いを成すためであった。しかしまた、主の司祭職は死によって消去られるべきではなかったので(ヘブレオ7・24、27)、「渡される夜」(1コリント11・13)最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に、(人間の本性が要求するとおりの)目に見えるいけにえを、すなわち、それによって十字架上で一度血を流して遂行されるべきであるかのいけにえが再現され、且つその記憶が世の終りまで永続し、またその救いの力が私たちによって毎日犯される諸々の罪の赦しに適応されるいけにえを残すために、主は自らが「メルキセデクの位による永遠の司祭」(詩編109・4)として立てられていることを宣言して、自分の御体と御血とをパンとブドー酒の形色のもとに聖父なる天主に捧げ、更には、同じものの象徴の下に、(その時主が新約の司祭として制定した)使徒たちに、彼らが拝領するように与え、そして、同じ使徒たちと彼らの司祭職における後継者たちに「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)というこの言葉で、それを捧げるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。

1741 イスラエルの多くの子たちがエジプトからの脱出の記念として屠っていた旧約の過越(出エジプト記12・1以下)を祝った後、主は教会によって司祭たちを通して御自分を目に見えるしるしのもとに、御自分がこの世から父の所に移る記念として屠られるべき、新しい過越を制定したが、そのとき、自分の御血を流すことによって私たちを贖い「闇の権力から救い出し自分の国に移し」(コロサイ1・13)給うた。

1742(939)  そしてこれこそが、それを捧げる者が相応しくないことによってもまたはその罪悪によっても決して汚されえないかの清い捧げ物であり、主がマラキアを通じて、諸々の異邦の民において偉大となるであろう主の聖名に、全地で捧げられるべき清き捧げもの(マラキア1・11参照)と予告したもの、また使徒パウロがコリント人に書き送った手紙の中で、悪魔の食卓に列席してけがれた者は、主の食卓(「食卓」でどちらも祭壇をさしている(1コリント10・21参照))に列席することはできないと言ってはっきりと述べたものである。最後にこれは、自然と律法の時代には、種々のいけにえを通して(創世記4・4;8・20;12・8;12・22;出エジプト記随所参照)その類似として予型されていたかのいけにえであり、それらを通して意味された全ての善が、かの全ての〔いけにえの〕完成と完全として、含まれるものとしてのものであった。

第2章 目に見えるいけにえは生者と死者のための罪を償うものである

1743(940)  ミサにおいて行われるこの天主的ないけにえにおいて、十字架の祭壇で「御血を流して自分自身を一度捧げた」(ヘブレオ9・14, 27)その同じキリストが含まれ、御血を流さずに屠られているので、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、このいけにえは真に贖罪のためであり(第3条)、このいけにえを通して、贖罪となる、それはもし私たちが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔をもっているなら、砕かれて悔悛しつつ天主に、「近づいて、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブレオ4・16)ためである、と。実に、この捧げものによってなだめられた主は、悔悛の聖寵とたまものとを与え、たとえ巨大な犯罪と罪でさえも赦し給う。いけにえは同一であり、あの時御自分を十字架の上で捧げた同じ方が今司祭の役務によってささげている。捧げられ方だけが異なる。この(流血の)捧げものの結実は、この無血の捧げものを通して非常に豊かに受けることができる。しかし、この後者の捧げもの(ミサ)を通して前者のいけにえが如何なる仕方であれ廃止されるのではない(第4条)。そのため、生きている信者たちの罪や罰または罪の償いのためまたはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承に相応しく従えば、キリストにおいて亡くなったがまだ完全に清められていない霊魂のためにも捧げられる(第3条)。

第3章 聖人崇敬のミサについて

1744(941)  教会は時々諸々の聖人の崇敬と記念のためにミサを捧げるのを習慣とするが、しかし聖人たちにではなく彼らに冠を与えた天主だけにいけにえが捧げられると教える(第5条)。したがって「司祭が『ペトロとパウロよ、私はいけにえを御身に捧げる』と言う習慣はなく」(注 アウグスティヌス、Ctr. Faustum Manich.1b. Ⅹ Ⅹ , c.21(CSEL25, 562;PL42, 384)参照)、聖人たちの勝利を天主に感謝し、「地上において私たちがその記念を執り行う彼らが天国において私たちのために取り成しをして下さるように」(注 第2バチカン公会議後の改訂(1969年)以前の『ローマ・ミサ典書』の中の洗手式後の祈り)彼らの援助を乞い願うのである」。

第4章 ミサ典文について

1745(942)  聖なるものは聖なる仕方によって取り扱われるのが相応しく、またこのいけにえはすべてにまさって至聖なるものであるから、カトリック教会は、ふさわしい方法で尊敬をもって捧げられまた拝領されるように、何世紀も以前に聖なる典文を、あらゆる誤謬からまぬがれたものとして制定した(第6条)、その中には何らかの聖性と信心の香りを最高に放たないもの、またいけにえを捧げる者の心を天主にまで最高に高めないようなものは一切含まれていない程である。典文は主のことば、使徒たちの伝承と聖なる教皇たちの敬虔な制定から成立っている。

第5章 盛式ミサ聖祭について

1746(943)  人間の本性は、外的なことがらの助けなしに、天主のことがらについての黙想へと高められることが容易に出来ないようになっているので、そのため、優しい母なる教会は、ミサにおいて或る部分を低い声で(第9条)、また別の部分を高い声でとなえるように何らかの典例法規を規定した。さらに教会は、種々の儀式に関する規定をもうけた(第7条)それは、使徒たちの規律および伝承からによる聖なる祝福、ローソク、香、祭服、その他多くのこの種のものであり、これらによって、偉大ないけにえの御威稜が大きく高められ、信者たちの心がこの宗教と信心の目に見える印を通じて、このいけにえに隠れているいとも高きことがらへと観想を奮い立たせるためである。

第6章 司祭だけが御聖体拝領するミサについて

1747(944)  いとも聖なる公会議は、一つ一つのミサ聖祭において、参列している信徒がただ霊的に影響を受けるだけでなく、秘蹟的に御聖体を拝領することによって交わり、それによって彼らのところまでこのいとも聖なるいけにえの結実がより豊かに到達することを望んでいるとしても、しかしながら、このために、これが常に起こるのではないが、司祭だけが秘蹟的に御聖体拝領をするミサ聖祭を個人的なものであり不法なものであるとは排斥しない(第8条)。むしろこのようなミサらが確かに公のものであると考えられなければならないこと、部分的にそれらにおいて民衆は霊的に交わり、部分的に教会の公の職務によって自分自身のためのみならずキリストの神秘体に属する全ての信徒のためにそれらが捧げられることを承認し、確認する。

第7章 カリスの奉献の時にブドー酒に水を混ぜること

1748(945)  次に聖なる公会議は、司祭たちがカリスを奉献する時にブドー酒に水を混ぜることが、彼らに教会によって命じられたと勧告する(第9条)。これは主キリストがそう行ったと信じられ、また主の脇腹から血と水とが同時に流れ出た(ヨハネ19・34)からであり、この混合によって、聖なる秘義が思い起されるからである。また、聖ヨハネの黙示録には「水」は「民衆」の謂いであり(黙示録17・1、5)、信ずる民とかしらであるキリストとの一致が再現されている。

第8章 到る所で自国語のミサを挙行しないこと、またミサの秘義を信者に説明すること

1749(946)  ミサは信者にとって大きな教育的価値を含んでいるが、教父たちは、到る所で自国語のミサを挙行することが適当なことであるとは判断しなかった(第9条)。そのため、どこででも如何なる教会ででも古のそして全ての教会の母であり教師である聖なるローマ教会によって認められた儀式を守り、キリストの羊たちが飢えないように、また「子供たちがパンを求めても、彼らにそれをさいてやる者がない」(エレミヤ哀歌4・4参照)ことがないように、聖なる公会議は、霊魂らの世話をしている全ての司牧者それぞれに、次のことを命令する。頻繁に、特に主日と祝日において、ミサ聖祭中に、自分自身または他の人たちによって、ミサにおいて朗読した箇所から説明し、特にこの聖なるいけにえの何らかの玄義について説明すること。

第9章 諸規定の序文

1750(947)  聖なる福音書、使徒たちの伝承、聖なる教父たちの教説に基づいたこの古くからの信仰に反対する誤謬を最近、多くの者が流布し、多くのことが多くの者によって教えられ、論争されている。聖なる公会議は、これらの問題について慎重に多くの検討した結果、全教父の賛同を得て、この極めて純粋な信仰と聖なる教義に反することがらを排斥し、聖なる教会から排除するため、次の諸規定をもうけた。

ミサ聖祭についての規定

1751(948)1条。

「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか「捧げられるというのは、キリストが食されるために私たちに与えられることに他ならない」と言う者は排斥される。

1752(949)2条。

「『私の記念として、これを行え』(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭と制定しなかった、あるいは、使徒たちと他の司祭たちが、御自分の御体と御血を捧げるようにと命じなかった」と言う者は排斥される(DzS1740参照)。

1753(950)3条。

「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない、あるいは、御聖体拝領する者だけにとって利益となるものである、また、生存者と死者のため、罪、罰、償い及びその他の必要のために捧げられるべきではない」と言う者は排斥される(DzS1743参照)。

1754(951)4条。

「ミサ聖祭を通して、十字架上で遂行されたキリストの至聖なるいけにえに対して冒涜が加えられる、あるいは、十字架のいけにえはミサのいけにえによって廃止される」と言う者(注 ウルバヌス.リーゲル(またはレギウス)Responsio ad duos libros primum et tertium de Missa Iohannis Eccii (Augustae Vindelic.1529) fol. H. 8v. 参照)は排斥される(DzS1744参照)。

1755(952)5条。

「『教会が考えているように、諸々の聖人の崇敬のためまた聖人らが天主に取次ぐことを願うためにミサが捧げられること』は詐欺である」と言う者は排斥される(DzS1744参照)。

1756(953)6条。

「ミサの典文は誤りを含んでいるので、廃止すべきである」と言う者は排斥される(DzS1745参照)。

1757(954)7条。

「カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を起こさせるものである」と言う者は排斥される(DzS1746参照)。

1758(955)8条。

「司祭だけが御聖体を秘蹟的に拝領するミサは不法であるから廃止すべきである」と言う者は排斥される(DzS1747参照)。

1759(956)9条。

「低い声で(ミサの)典文と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の典礼法規は排斥すべきである、あるいは、自国語だけでミサを捧げるべきである、あるいは、キリストの制定に反するが故に、カリスの奉献の時にブドー酒に水を混ぜるべきではない」と言う者は排斥される(DzS1746、1748〜1749参照)。

b)カリスからの御血の拝領の請願について

1760 さらに、同じ聖なる教会会議は、前(第21)総会に提出されたが、まだ討論されなかった次の2条項を、すなわち、

a)聖なるカトリック教会は、様々な理由によって、平信徒およびミサを挙行していない司祭らでさえもパンの形色だけの下によって御聖体拝領するように導かれたが、如何なる理由によってもカリス使用(カリスからの御血の拝領)が誰に対しても許されないようにこれらの理由がそのまま維持されるべきかどうか、

さらに、

b)正当な諸々の理由及びキリスト教的愛徳に合致する諸々の理由のために特定の国民あるいは王国に対し、カリスの使用(カリスからの御血の拝領)が譲歩されるべきであると思われ、何らかの条件のもとに譲歩されるべきであるとすると、これらの条件は何であるか。

ということがらを、別の時に、適当な機会が与えられたときに、討議し、決定すべきものとして保留した。今は、これがその利益のために申請された者たちの救いにとって最善の決定を望み公会議は、この教令に言及されるように、この全ての問題が教皇に委ねられるべきであることを決定した。教皇は、その特別の賢明さに従って、キリスト教社会の利益となりまたカリスの使用を求める者たちの救いのためとなると判断することを制定するだろう。