聖ピオ十世著
公教要理詳解

カトリックの教えとその主な部分

1 あなたはカトリック信者ですか。

そうです。私は神の恩恵によりカトリック信者です。

2 なぜ「神の恩恵により」と言いますか。

カトリック信者であることは、神が全く無償で与えてくださった賜物のおかげですから、「神の恩恵により」と言います。

3 本当のカトリック信者とはどんな人ですか。

本当のカトリック信者とは、洗礼を受け、カトリックの教えを信じかつ認め教会の正しい牧者に従う人です。

4 カトリックの教えとは何ですか。

カトリックの教えとは救いの道を示すために、主イエズス・キリストがお教えになった事がらです。

5 イエズス・キリストがお教えになった教理を学ばなければなりませんか。

イエズス・キリストのお教えになった教理を学ばなければなりません。怠れば重大な罪を犯します。

6 両親や目上の人は子供や目下の者にカトリック要理を学ばせる義務がありますか。

両親や目上の人は子供や目下の者にカトリック要理を学ばせる義務があり、この義務を怠ると神に対して罪を犯すことになります。

7 だれからカトリックの教えを学びますか。

カトリックの教えはカトリック教会から学びます。

8 カトリック教会が伝える教えの正しいことはどうしてわかりますか。

カトリック教会が伝える教えの正しいことは、それを神であるイエズス・キリストがお教えになり、使徒たちを通して御自分の教会に託され、また教会を全人類の誤りなき師とし、世の終りまで神の助力を約束されたからです。

9 カトリックの教えが正しいことを知るためにほかにも方法がありますか。

カトリックの教えが正しいことは、各時代に勝れた聖性をもった信者がたくさんいたこと、世界中で殉教者たちが示した英雄的な剛毅、素晴らしい速度で広がり数多くの困難にもかかわらず二十世紀にもわたって教えを完全に受け継いでいることからわかります。

10 カトリックの教えの主な部分は何ですか。

カトリックの教えの主な部分は、使徒信経、主の祈り、神と教会の掟、そして秘跡の四つです。

11 使徒信経は何を教えますか。

使徒信経は聖なる信仰の主要な箇条を教えます。

12 主の祈りは何を教えますか。

主の祈りは神に希望すべきことと願うべきことを教えます。

13 神と教会の掟は何を教えますか。

神と教会の掟は、神の御旨にかなうために人のしなければならないこと、要約すれば、何にもまして神を愛し、神のために人を自分と同じように愛することを教えます。

14 秘跡について何を教えますか。

秘跡については、イエズス・キリストが人の罪をゆるし、恩恵を与え、信仰・希望・愛の徳を注ぎ育てるためにお定めになった秘跡の本質と正しいあずかり方とを教えます。

使徒信経

第一章・使徒信経全般

15 カトリックの教えの第一部は何ですか。

カトリックの教えの第一部は、「使徒信経」と呼ばれている信仰宣言です。

16 なぜ 「使徒信経」と呼ばれますか。

使徒たちが教えた信仰の真理の大要ですから、「使徒信経」と呼ばれます。

17 「使徒信経」の箇条はいくつありますか。

「使徒信経」の箇条は十二あります。

18 「使徒信経」を唱えてください。

一、われは天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、

二、また、その御ひとり子、われらの主イエズス・キリスト、

三、すなわち聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれ、

四、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、

五、古聖所にくだりて三日目に死者のうちよりよみがえり、

六、天にのぼりて全能の父なる天主の右に座し、

七、かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たりたもう主を信じたてまつる。

八、われは聖霊、

九、聖なる公教会、諸聖人の通功、

十、罪のゆるし、

十一、肉身のよみがえり、

十二、終りなき命を信じたてまつる。

アーメン

19 「信ずる」とはどんな意味ですか。

「信ずる」とは、この十二箇条に含まれていることを全て確かなものと信じること、つまり実際に目で見ることのできるものよりもっと確信をもって信じることを意味します。それは、誤ることも、人を誤りに導くこともあり得ない神が教会に啓示され、教会を通して私たちに与えられた事柄を受け入れることだからです。

20 「使徒信経」の内容は何ですか。

「使徒信経」の内容は、神、イエズス・キリストそして教会に関してとくに信じなければならない事柄です。

21 しばしば使徒信経を唱えるのはよいことですか。

しばしば使徒信経を唱えるのは、信仰の真理を心に一層深く刻み付けるのに非常に役立つよいことです。

第二章・使徒信経の第一箇条

Ⅰ  父なる神と創造

22 「われは天地の創造主、全能の父なる天主を信ず」という第一箇条は何を教えていますか。

使徒信経の第一箇条は、神は唯一、全能で、天地万物をお造りになったことを教えています。

23 どのようにして神の存在を知ることができますか。

神の存在は、理性の働き、すなわち推理によって知ることができるだけでなく、信仰によって確認することができます。

21 なぜ神は父であると言われるのですか。

神が父であると言われるのは次の理由によります。

① 神がお生みになった三位一体の第二のペルソナである御子の父であるから、② 神御自身がお造りになり、保ち、つかさどっておられる人間の父であるから、そして最後に、③ 恩恵によりすべての良い信者の父であるからです。それゆえ、信者は神の養子と呼ばれます。

※ペルソナとは、知恵と自由意志を備えて独立しているものです。

25 なぜ 「御父」は三位一体の第一のペルソナですか。

「御父」は他のペルソナから出る御方ではなく、御子と聖霊との源ですから、三位一体の第一のペルソナなのです。

26 「全能」とはどんなことですか。

「全能」とは、神がお望みになることでおできにならないことはないという意味です。

27 神は罪を犯すことも、死ぬこともないのになぜどんなことでもおできになると言うのですか。

罪を犯すことや死ぬことは能力の顕われではなく、その欠如であって、全く完全な神には見出し得ないものですから、罪を犯すことや死ぬことがなくても、神はどんなことでもおできになると言うのです。

28 「天地の創造主」とはどういうことですか。

「創造する」とは、「無」から有を生じさせることです。神は無から天地万物を全てお造りになりましたから、天地の創造主と言います。

29 世界は「御父」だけの創造になるものですか。

世界は三位一体の三つのペルソナによって造られました。三位一体の一つのペルソナが被造物に対してお働きかけになるときは、他の二つのペルソナもひとしく同じ働きをなさるのです。

30 しかし、なぜ天地の創造が特に「御父」に帰せられるのですか。

神の三つのペルソナはいずれも全能、全知、全善ですが、全能は御父の、全知は御子の、そして全善は聖霊の特性とされていますから、神の全能の顕われである創造は特に「御父」に帰せられています。

31 神は世界とお造りになったもの全てを主宰しておられますか。

神は無限の善性と知性によって世界とお造りになった全てのものを保ち、かつ主宰しておられます。そして神が望み、お許しにならない限り何事も起こりません。

32 なぜ、「神が望み、お許しにならない限り何事も起こらない」と言うのですか。

神がお望みになり、お命じになることもあり、また、たとえば罪のように妨げずにお許しになることもありますから、「神が望み、お許しにならない限り何事も起こらない」と言います。

33 なぜ神は、罪が存在することを許されるのですか。

人間が神に与えられた自由を濫用しても、神はそこから善を引き出し、御自分の慈悲や正義をますますあらわすことがおできになるので、神は罪の存在をお許しになるのです。

Ⅱ 天使について

34 神のお造りになったものの中で最も高貴な被造物は何ですか。

神がお造りになったものの中で最も高貴な被造物は「天使」です。

35 天使とは何ですか。

天使とは知性を備えた純粋な霊です。

36 神は何のために天使をお造りになりましたか。

神が天使をお造りになったのは、天使が神を崇拝し、神に仕え、永遠の幸福にあずかるためでした。

37 天使はどんな姿・形をしていますか。

天使は人間の感覚でとらえることのできる姿・形を持っていません。天使は純粋な霊ですから、体に結ばれていなくても存在できるからです。

38 それでは、なぜ天使に姿・形を与えてあらわすのですか。

天使に姿・形を与えてあらわすのは、① 私たちの想像力を補うため、② また、聖書にあるように、何度もこのような姿・形をして人間の前に姿を見せたからです。

39 天使はみな神に忠実でしたか。

天使がみな神に忠実であったわけではありません。それどころか、ある天使は高慢心から神と同等になろうとし、神から独立しようとしました。この罪によって、これらの天使たちは永久に天国から追放され地獄に落ちてしまいました。

40 天国から永久に追放され地獄に落ちた天使は何と呼ばれますか。

天国から永久に追放され地獄に落ちた天使は悪魔と呼ばれ、その首領はサタンあるいはルチフェルと呼ばれます。

41 悪魔は人に書を与えますか。

悪魔は神のお許しがあれば、人の霊魂とからだに大きな害を与えることができます。特に人を罪におとし入れようと誘惑するのです。

42 なぜ悪に誘うのですか。

悪魔は人をねたみ、人間が永久にほろびることを望んでいます。また神御自身と人間に反映されている神の似姿を憎んで、人を悪に誘うのです。

43 神はなぜ誘惑をお許しになりますか。

神が誘惑をお許しになるのは、私たちが神の恩恵に助けられ、誘惑にうち勝ち、諸徳を実践して、天国に入るのにふさわしい人間に成長するためです。

44 どうすれば誘惑にうち勝つことができますか。

警戒し、祈りと犠牲を行なうことによって、誘惑にうち勝つことができます。

45 神に忠実に従った天使のことをなんと言いますか。

神に忠実に従った天使のことを、善い天使、主の御使い、または単に天使と言います。

46 神に忠実に従った天使はどうなりましたか。

神に忠実に従った天使は、さらに恩恵にかためられ、常に神を直接あおぎ見て、永遠に神を愛し、賛美しています。

47 神は天使を使者としてお使いになりますか。

神は天使を御自分の使者としてお使いになりますが、特に私たちの守護の天使としてお送りになります。

48 「守護の天使」に特に祈るべきですか。

「守護の天使」には特に祈り、敬い、助力を乞い、その勧めに従い、保護に感謝しなければなりません。

Ⅲ 人間について

49 神が地上に置かれたもののうちもっとも貴い被造物は何ですか。

神が地上に置かれたものの内最も貴い被造物は人間です。

50 人とはどういうものですか。

人とは、霊魂とからだとから成る、理性を備えた被造物のことです。

51 霊魂とは何ですか。

霊魂とは、知性と意志とをもち、神を知り永遠に所有することのできる霊です。それゆえ霊魂は人の最も尊い部分です。

52 霊魂を見たりふれたりすることができますか。

霊魂は霊ですから、見たり、ふれたりはできません。

53 人の霊魂はからだと共になくなりますか。

人の霊魂は絶対になくなりません。信仰によっても理性によっても霊魂の不滅を証明することができます。

54 人は、自由に行動することができますか。

人は、自由に行動することができます。だれでも、あることをすることも、しないでおくこともできると感じます。また、あることのかわりに別のことをすることができると思っています。

55 例をあげて人間の自由について説明してください。

人は、わぎと嘘をつく時、心の内で嘘をつかずに黙っていることもできたし、真実を言うこともできたと気づきます。

58 なぜ人間は神の似姿、神にかたどられたものであると言われますか。

人間の霊魂は霊的、理性的なもので、その働きは自由で、神を知り、神を愛し、永遠の幸福をたのしむことができます。しかし、このような特長は、主の無限の偉大さの反映ですから、人間は、神の似姿、神にかたどられたものと言われるのです。

57 神は人祖であるアダムとエヴアをどのような状態に置かれましたか。

神はアダムとエヴァを無罪の状態、恩恵に満ちた状態に置かれましたが、まもなく人祖は罪を犯してこの状態から堕落してしまいました。

58 主は人祖に無罪の状態と成聖の恩恵のほかに特別のたまものをお与えになりましたか。

主は無罪の状態と成聖の恩恵のほかにも人祖とその子孫に特別のたまもの、すなわち「完全性」、つまり感覚を理性に完全に従わせること、「不死性」、またあらゆる苦痛やみじめさからの「免除性」、そして人祖の状態にふさわしい「知性」をお与えになりました。

59 アダムはどんな罪を犯しましたか。

アダムは高慢と重大な不従順の罪を犯しました。

60 アダムとエヴアはどんな罰を受けましたか。

アダムとエヴァは、神の恩恵と天国に入る権利を失い、楽園から追放され、死も苦しみも免れ得ないものになりました。

61 アダムとエヴアが罪を犯さなかったならば、死をまぬがれていたでしょうか。

アダムとエヴァが罪を犯さなかったならば、この世で幸福に暮したのち、死ぬこともなく神の手によって永遠の生命に入ることができたでしょう。

62 このような賜物は本来人間に備わったものでしたか。

このようを賜物は本来人間に備わったものではなく、神が全く無償でお与えになった超自然的なものです。したがって、アダムが神の掟に背いたとき、神がアダムとその子孫からこれらの賜物を取り去られても不正なことではありませんでした。

63 この罪はアダムだけのものでしたか。

この罪はアダムだけのものではなく、私たちの罪ともなりました。アダムは人阻として罪を犯したので彼自身が自発的に犯した罪であってもすべての子孫に繁殖によって伝わりました。したがってすべての人は原罪をもって生まれます。

64 どうして原罪はすべての人間に伝わりますか。

神はアダムが従順であることを条件として、アダムを通して人類に成聖の恩恵と他の超自然のたまものをお与えになりました。しかし全人類の頭であり父であるアダムが神に背いた結果、人間の本性が神に反抗するようになりました。それで神の恩恵とその他のたまものが剥奪され、神に反抗する態度をとったままの人間の本性がアダムの子孫みなに伝えられるのです。

85 原罪の及ぼした害は何ですか。

原罪によって、人は恩恵を失い、知恵が暗み、心は悪に傾くようになり、この世のさまぎまな災いに苦しみ、死も免れなくなりました。

66 人はみな原罪をもっていますか。

聖母マリア以外、人はみな原罪をもっています。救い主の功徳を予見なさった神の特別の御計らいによって、聖母マリアは原罪を免れました。

67 アダムの罪ののち、人は救いを得ることができましたか。

アダムの罪の後、神が慈悲をお恵みにならない限り、人は救いを得ることはできませんでした。

68 神が人類にお恵みになった御慈悲とは何ですか。

神が人類にお恵みになった御慈悲とは、アダムに救い主の到来を約束されたこと、そして時が満ちると、悪魔と罪の奴隷となった人間を救うために救い主をおつかわしになったことです。

69 約束の救い主とはどなたですか。

使徒信経の第二箇条にある通り、約束の救い主とはイエズス・キリストのことです。

第三章・使徒信経の第二箇条

70 第二箇条「その御ひとり子、われらの主イエズス・キリストを信ず」では何を教えていますか。

使徒信経の第二箇条では、神の御子は三位一体の第二のペルソナで、御父と同じく全能永遠の創造主であること、そしてこの神の御子をイエズス・キリストと呼ぶことを教えています。

71 なぜ第二のペルソナは「御子」と呼ばれますか。

第二のペルソナが「御子」と呼ばれるわけは、永遠から、御父の知恵としてお生まれになったからです。そのため、御子は、御父の 「みことば」とも呼ばれます。

72 私たちも神の子であるのに、なぜイエズス・キリストだけが御父の御ひとり子と呼ばれますか。

キリストだけが、本性から神の子であり、私たちは神に造られ、神の養子になったにすぎません。だから、イエズス・キリストは神の御ひとり子と呼ばれます。

73 なぜ、イエズス・キリストを「われらの主」と呼ぶのですか。

イエズス・キリストを「われらの主」と呼ぶのは、かれが、神として、御父と聖霊と共に私たちを創造されたのみならず、神人として、人間を罪から救ってくださったからです。

74 人となられた神の子はなぜイエズスと呼ばれますか。

イエズスとは、「救い主」という意味です。だから、罪の罰である永遠の死から私たちを救ってくださった神の御子はイエズスと呼ばれます。

75 どなたが、人となられた神の御子にイエズスという名をお与えになりましたか。

御父につかわされた大天使ガブリエルが処女マリアに御託身の奥義を告げたとき、神御自身が、イエズスという名をお与えになりました。

76 なぜ人となられた神の御子は、キリストと呼ばれるのですか。

キリストとは「聖油を注がれた者」という意味で、古代には王、司祭、預言者は聖油をそそがれるならわしでした。イエズス・キリストは、王の王、最高の司祭であり、預言者ですから、人となられた神の御子はキリストとも呼ばれるのです。

77 イエズス・キリストは実際に聖油を注がれ聖別されたのですか。

古代の王・司祭・預言者とちがって、イエズス・キリストは実際に聖油を注がれ聖別されたのではありません。イエズス・キリストの中には、初めから、完全な神性が宿っていましたから、全く霊的、神的な性格をもつ注油だったのです。

78 人類は、イエズス・キリストの来臨についての知識を持っていましたか。

神が、アダムとエヴァに救い主の来臨を約束され、太祖にもその約束を繰り返されたこと、さらに救い主の来臨を示す預言や前表によって、人類はイエズス・キリストの来臨に関する知識を持っていました。

79 どうして、イエズス・キリストが本当の救い主であり、約束のあがない主であることがわかりますか。

イエズス・キリストが、本当の救い主であり、約束のあがない主であることは、① 救い主についての預言と、② 旧約聖書にあらわれる救い主の前表が、イエズス・キリストにおいてすべて成就したことからわかります。

80 「救い主」について、どんな預言がありましたか。

「救い主」についての預言は、救い主がお生まれになる民族、家系、場所と時間、おこなわれる奇跡の数々、御受難と御死去の詳しい経過、御復活と御昇天、さらに、霊的、普遍的かつ永遠の王国である聖なるカトリック教会についてなどです。

81 旧約聖書に出てくる救い主についての前表の主なものは何ですか。

旧約聖書に出てくる救い主の前表の主をものは、罪なきアベル、大司祭メルキセデク、イザァクの犠牲、兄弟に裏切られたヨゼフ、預言者ヨナ、退避祭の小羊、モイゼが荒野に建てた青銅の蛇などです。

82 イエズス・キリストが本当の神であることは、どうしてわかりますか。

イエズス・キリストが本当の神であることは、次のことからわかります。

① 「これは、私が喜びとする愛子である。これに聞け」とおおせられた御父の証言

② 驚くべき奇跡の数々によって確認されたイエズス・キリスト御自身による証言

③ 使徒たちの伝えた教え

④ カトリック教会に絶えることなく継承されている聖伝

83 イエズス・キリストが行われた主な奇跡は何ですか。

イエズス・キリストが行われた主な奇跡は、御自分の復活の他に、病気をいやし、盲人やつんぼをなおし、死人をよみがえらせることなどです。

第四章・便徒信経の第三箇条

84 「聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」という第三箇条は何を教えますか。

使徒信経の第三箇条は、神の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。

85 御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。

イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、神の三つのペルソナが一緒に参与されました。

86 なぜ「聖霊によりて宿り」とだけ言いますか。

神の御子の御託身は、善性と愛の働きの結果ですが、これは聖霊に帰せられますから、「聖霊によりて」とだけ言うのです。

87 神の御子は人となられた結果、神であることをおやめになりましたか。

神の御子は人となられても、神であることに変わりはありませんでした。

88 とすると、イエズス・キリストは、神であると同時に人であるわけですか。

人となられた神の御子、イエズス・キリストは神であると同時に人です。すなわち、真の神、真の人なのです。

89 そうすると、イエズス・キリストは二つの本性を持っておられるのですか。

神であると同時に人であるイエズス・キリストは、人性と神性の両方を持っておられます。

90 同じように、イエズス・キリストには神としてのペルソナと人間としてのペルソナとがあるのですか。

人となられた御子には、たった一つのペルソナ、すなわち神としてのペルソナしかありません。

91 イエズス・キリストには、いくつの意志がありますか。

イエズス・キリストには、神の意志と人間の意志との二つがあります。

92 イエズス・キリストには自由意志がありましたか。

イエズス・キリストには自由意志がありました。しかし、悪をおこなうことは出来ませんでした。それは、悪をおこなうことは完全な自由ではなく、自由の欠陥を意味するからです。

93 神の御子と聖母マリアの御子は、同じひとつのペルソナですか。

神の御子と聖母マリアの御子は同じひとつのペルソナです。つまり、真の神であり、真の人であるイエズス・キリストです。

94 童貞マリアは、神の御母ですか。

童貞マリアは、真の神であるイエズス・キリストの御母ですから、神の御母です。

95 どのようにして、聖マリアはイエズス・キリストの御母となられましたか。

聖マリアは聖霊の働きと恵みとによってイエズス・キリストの御母となられました。

96 聖マリアが終生処女であったことを信じるべきですか。

聖マリアが終生処女であったことを信じるべきです。聖母は、童貞のなかの童貞と呼ばれています。

96-2 聖母マリアがからだと霊魂と共に天国におられることを信じなければなりませんか。

聖母マリアがこの世の生活を終えたあとからだと霊魂と共に天国にあげられたことが、一九五〇年十一月一日より信仰箇条と定められました。聖マリアの受けたこの栄誉を「聖母マリアの被昇天」と呼んでいます。

第五章・便徒信経の第四箇条

97 第四箇条「ボンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ死して葬られた」では何を教えていますか。

第四箇条では、イエズス・キリストがその尊い御血で世の罪をあがなうため、ポンシオ・ピラトの管下で苦しみを受け、十字架につけられ、死去され、葬られたことを教えています。

98 「苦しみ」とは何を意味しますか。

「苦しみ」とは、イエズス・キリストが御受難において体験されたもろもろの苦痛を意味します。

99 イエズス・キリストが死去されたのは、神としてですか、それとも人としてですか。

イエズス・キリストは人として死去されました。神としては、苦しむことも死ぬこともないからです。

100 十字架の責めはどんなものでしたか。

十字架の責めは、あらゆる責苦の中で最も残酷で屈辱にみちたものでした。

101 だれが、イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じましたか。

イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じたのは、ユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトでした。ピラトは、救い主イエズス・キリストの無罪を認めながら、卑怯にも、イエルザレムの人々の脅しに折れたのです。

102 イエズス・キリストは、お望みになれば、ユダヤ人やピラトの手から逃れることができませんでしたか。

イエズス・キリストはユダヤ人やピラトの手から逃れようと思えばできました。しかし、御父の御旨に従い私たちを救うために、すすんで敵の前に姿を現わし、捕らえられ、苦しみ、死ぬ運命に御自分をゆだねられたのでした。

103 イエズス・キリストは、どこで十字架につけられましたか。

イエズス・キリストは、カルワリオの丘で、十字架につけられました。

104 イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。

イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、神に対する人間の罪のあがないを成就されました。

105 私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。

私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって神に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。

106 神の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは神であると同時に人間である必要がありましたか。

苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に神でなければなりませんでした。

107 なぜ、イエズス・キリストの功徳が無限の価値あるものでなければなりませんか。

人間が罪によって侮辱を与えた神は無限に偉大を御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。

108 イエズスにはあれほどひどい苦しみを受ける必要があったのですか。

イエズスには必らずしもあれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。

109 では、なぜイエズスはそのような苦しみを受けられたのですか。

イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、神の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、人間には、神の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。

110 イエズスの御死去に際して異変が起こりましたか。

イエズスが死去されると、太陽は暗み、地はふるえ、墓が開き、多くの死者がよみがえりました。

111 イエズスの御遺体は、どこに葬られましたか。

イエズスの御遺体は、十字架にかけられた所の近くにあった、丘の岩に堀った新しい墓に葬られました。

112 イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体と霊魂から離れましたか。

イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体からも霊魂からも離れず、霊魂だけが肉体から離れました。

113 イエズス・キリストは誰のために死去されましたか。

イエズス・キリストは全ての人間のために死去され、すべての人間の罪をあがなわれました。

114 イエズス・キリストは全人類のために死去されたのに、なぜある人は救われない可能性があるのですか。

イエズス・キリストは全人類のために死去されましたが、イエズス・キリストを認めない者、掟を守らない者、また、人のために残してくださった聖性に達する手段を利用しない者がいますから、ある人は救われないという可能性があるのです。

115 人が救われるためには、イエズス・キリストが死去されたことだけで充分ですか。

人が救われるためにイエズス・キリストの御死去だけでは充分でなく、私たち一人一人が主の御受難と御死去のもたらす恵みを正しく受け入れねばなりません。この恵みは特に秘跡を通して受けます。しかし多くの人は秘跡も受けず、受けても正しい受け方をしないので、主の御死去もその人たちには無意味なものとなるのです。

第六章・使徒信経の第五箇条

116 第五箇条「古聖所に下りて三日目によみがえり」では何を教えていますか。

使徒信経の第五箇条では、イエズス・キリストの霊魂が御体を離れ、古聖所に下ったあと、三日目に再び御体に戻り、それ以後離れることはなかったと教えています。

117 古聖所とは何ですか。

古聖所とは旧約時代の義人の霊魂がイエズス・キリストの来臨と罪のあがないを待ちつつ止まったところです。

118 なぜ、旧約時代の義人の霊魂はイエズス・キリストの御死去の前に天国に入れなかったのですか。

旧約の義人の霊魂がイエズス・キリストの御死去の前に天国に入れなかったのは、アダムの犯した罪のため、天国の門が閉ぎされており、まず最初にイエズス・キリストがこの閉ぎされた扉を開く必要があったからです。事実、イエズス・キリストの御死去によって、天国の門はふたたび開かれました。

119 なぜイエズス・キリストは、御復活を三日目まで、延ばされたのですか。

イエズス・キリストが御復活を三日目まで延ばされたのは、本当に死去されたことをはっきり示すためでした。

120 イエズス・キリストの御復活は、他の人間の復活と同じようなものでしたか。

イエズス・キリストの御復活は、他の人間の復活とは異なります。イエズスは御自分の力でよみがえられたのに対し、他の人間は神の力によってよみがえったからです。

第七章・使徒信経の第六箇条

121 第六箇条「天に上りて全能の父なる天主の右に座し」では、何を教えていますか。

使徒信経の第六箇条では、イエズス・キリストが御復活後四十日目に弟子たちの目の前で天にのぼられたこと、そして、神としては全能の父なる神と同じ威光を持ち、人としては全ての天使と聖人の上に位され万物の主となられたことを教えています。

122 なぜイエズス・キリストは、御復活後、御昇天まで四十日間も地上にお残りになったのですか。

イエズス・キリストが、御復活後、御昇天まで四十日間も地上にお残りになったのは、何度も姿を現わし、本当に復活されたことを示し、使徒たちに、さらに教えを与え、ゆるぎのない信仰を持たせるためでした。

123 なぜイエズス・キリストは天に昇られましたか。

イエズス・キリストが天に昇られたのは、① 御死去によって御自分のものとなった王国を治め、② 私たちのために、栄光の座を用意し、御父である神のもとで私たちの代願者、弁護者となり、③ 使徒たちに聖霊をお遣わしになるためでした。

124 イエズス・キリストは昇天されたと言い、聖マリアは被昇天されたと言うのはなぜですか。

神であり人であるイエズス・キリストは、御自分の力によって天にのぼられたのに対し、御母マリアは、最も尊い御方とは言え被造物にすぎず神の御力によって天に上げられたからです。

125 「全能の父なる天主の右に座す」とはどういう意味ですか。

「座す」とは、イエズス・キリストが永遠の光栄を有しておられることを示し、「全能の父なる天主の右に座すとは、すべての被造物の上に立つ輝かしい位置を占めておられることを意味します。

第八章・使徒信経の第七箇条

126 第七箇条「かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たりたもう」では何を教えていますか。

使徒信経の第七箇条では、世の終りに偉大な権能と栄光をもってイエズス・キリストが天より下り、すべての人間の善悪を裁き、それぞれに報いをお与えになることを教えています。

127 人はみな、死後すぐに、私審判においてイエズス・キリストの裁きを受けるのに、なぜもう一度公審判で裁きを受けなければなりませんか。

人がみな公審判において裁かれるのは、① 神の栄光のため、② イエズス・キリストの栄光のため、③ 聖人たちの栄光のため、④ 悪人たちのこらしめのため、⑤ そして、最後に、肉身も霊魂と共に報いを受けるためなのです。

128 公審判において神の栄光はどのように現われますか。

この世では、しばしば善人が苦しみ、悪人が栄えているのを目にしますが、公審判のときには、神がどれほどの正義をもってこの世を統治しておられるかがみんなにわかります。公審判ではこのようにして神の栄光が現われます。

129 公審判においてイエズス・キリストの栄光はどのように現われますか。

人間による不正な裁きをお受けになったイエズス・キリストは、公審判において全ての人の前に、最高の裁判官として姿を見せることにより、御自分の栄光をお現わしになるのです。

130 公審判において聖人たちの栄光はどのように現われますか。

悪人にさげすまれ死んでいった多くの聖人は、公審判で全ての人の前で称賛を受け、その栄光を現わします。

131 公審判での悪人のこらしめとはどんなことですか。

公審判で悪人の受ける恥辱は非常なもので、特に、正しい人々を圧迫した者やこの世で善人、人格者として敬われるように体裁をつくろってきた人たちは、すべての人の前で、過去に犯した罪や隠れた罪までもあらわにされます。

第九章・便徒信経の第八箇条

132 第八箇条「聖霊を信じます」では何を教えますか。

使徒信経の第八箇条では、父と子のペルソナと同じく、永遠、無限、全能の神であり、万物の創造者かつ私たちの主である三位一体の第三のペルソナ聖霊が存在することを教えています。

133 聖霊はどなたから出ますか。

聖霊は、御父と御子を一つの源として、そこから意志と愛とによって出る御方です。

134 御子が御父より生まれ、聖霊が御父と御子より出ているならば、御父と御子は聖霊より前に存在しているように思えます。それでは、なぜ三つのペルソナはみな永遠から存在すると言うのですか。

三つのペルソナがみな永遠から存在すると言うのは、御父は御子を永遠からお生みになり、聖霊は御父と御子から同じく永遠の昔から出ているからです。

135 なぜ三位一体の第三のペルソナが特に聖霊と呼ばれるのですか。

三位一体の第三のペルソナが特に聖霊と呼ばれるのは、御父と御子の息吹(霊発)と愛によって出る御方だからです。

136 特に聖霊に帰せられている働きは何ですか。

聖霊には特に人を聖化する働きが帰せられています。

137 御父と御子は、人を聖化なさらないのですか。

三つのペルソナが同じように人を聖化なさいます。

138 では、なぜ人を聖化する働きが、特に聖霊に帰せられるのですか。

人を聖化する働きが特に聖霊に帰せられるのは、聖化は愛の働きであり、愛の働きはすべて聖霊に帰せられているからです。

139 聖霊は、いつ使徒たちに下られましたか。

聖霊は、ペンテコステの日、すなわちイエズス・キリストの御復活の五十日後、御昇天の十日後に、使徒たちに下られました。この日を聖霊降臨の日と呼びます。

140 聖霊降臨前の十日間、使徒たちはどこに居ましたか。

使徒たちは、聖母マリアや他の弟子たちと一緒に、最後の晩さんの高間に集って、イエズス・キリストが約束された聖霊を待ち望み、心を合わせて祈っていました。

141 聖霊は使徒たちにどんな恵みを与えられましたか。

聖霊は、使徒たちの信仰をさらに確固たるものにし光と剛毅と愛と豊かな恵みで彼らを満たされました。

142 聖霊が送られたのは使徒たちだけのためですか。

聖霊は全教会と神の教えを信ずる全ての人々のために送られました。

143 聖霊は教会においてどんな働きをされますか。

聖霊は、からだの中の霊魂のように、恩恵とたまものによって、教会に生命を与え、真実と愛の王国を教会の中につくりあげ、信者がまちがいなく天国への道に導かれるようお助けになります。

第十章・便徒信経の第九箇条

Ⅰ  教会についての概説

144 第九箇条「聖なる公教会と諸聖人の通功」では、何を教えていますか。

使徒信経の第九箇条では、イエズス・キリストが教会と呼ばれるひとつの可視的な共同体を地上におたてになったこと、またこの教会に属する者はすべて互いに一つに結びついていることを教えています。

145 なぜ聖霊に続いてすぐあとに、教会について述べるのですか。

聖霊に続いて、すぐあとに教会について述べるのは教会の聖性は聖霊に由来するものであり、聖霊はすべての聖性の源であることを示すためです。

146 教会ということばは何を表わしていますか。

教会ということばは、召集された人々の集団、あるいは集いという意味です。

147 どなたが私たちをイエズス・キリストの教会に招いてくださったのですか。

神が特別の恩恵により私たちを教会に招いてくださいました。それは、私たちが信仰の光を受け、神の掟を守ることによって、しかるべき礼拝を神にささげ、永遠の生命を得ることができるためなのです。

148 広い意味での教会に属する人々はどこにいますか。

一部の人々は天国に居て、「勝利の教会」を、他の一部は練獄に居て、「潔めの教会」を、そしてこの地上に居る人々は「戦いの教会」を形づくっています。

149 この色々な部分は、唯一の教会を形成していますか。

この色々な部分は、唯一の教会、同じ体を形成していますが、それは共に、イエズス・キリストを頭にいただき、同じ霊に生かされ、永遠の幸福を求めるという同じ目的において結ばれているからです。なお、ある者はすでに天国の幸福を得、またあるものは、それを待ち望んでいます。

150 使徒信経の第九箇条は、主に教会のどの部分について教えていますか。

使徒信経の第九箇条は、おもに現在私たちが属している教会、つまり「戦う教会」について教えています。

Ⅱ  教会について

151 カトリック教会とは何ですか。

カトリック教会とは、この世に生活し、同じキリストの信仰と掟を受け入れ、同じ秘跡にあずかり、正しい牧者、とくに教皇に従う、洗礼を受けた人々の団体のことです。

152 教会の構成員となるには何が必要かもっとくわしく説明して下さい。

教会の構成員とをるには、まず洗礼を受け、イエズス・キリストの教えを信じ宣言し、同じ秘跡にあずかり、教皇と他の正しい牧者の権威を認めることが必要です。

153 教会の正しい牧者とは、だれのことですか。

教会の正しい牧者とは、全教会の牧者であるローマ法王すなわち教皇と司教のことです。さらに、司祭とくに主任司祭は、司教や教皇に従いつつ、司牧にたずさわります。

154 なぜ教皇が全教会の牧者であるというのですか。

それはイエズス・キリストが最初の教皇、聖ペトロにこうおおせになったからです。「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。私は天国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな天でもとかれるだろう。」そしてさらに、「私の小羊を牧せよ、私の羊を牧せよ」ともおおせになりました。

155 洗礼を受けていても教皇を頭と認めない人々の集団がたくさんありますが、イエズス・キリストの教会には属していないのですか。

教皇を頭と認めない者はだれもイエズス・キリストの教会には属していません。

156 人間の創設になるのに、キリストの教会であると自称する沢山の団体や宗派がありますが、イエズス・キリストの教会とはどう区別すればよいのですか。

イエズス・キリストの教会と人間の創設になるのにキリストの教会であると自称する団体や宗派とは次の四つの特徴によって簡単に区別できます。つまり、イエズス・キリストの教会だけが、一・聖・公(カトリック)・使徒継承という四つの特徴を備えているのです。

157 なぜ、真の教会は「一」なのですか。

真の教会が「一」であるのは、同一の可視的な頭、教皇のもとに、同一の信仰と礼拝と掟において結ばれ、同じ秘跡にあずかるからです。

158 はかにも教会があり得ますか。

ほかに教会はあり得ません。なぜなら、神は一つ、信仰は一つであるように、唯一の真の教会のほかに教会は存在せず、存在することもできないからです。

159 しかし国や教区単位の信者の集まりを教会と呼ぶのではないのですか。

国や教区単位の信者の集まりも教会と呼びます。しかし、それは全世界的な普遍の教会の部分をなすもので、この部分が集まって唯一の教会を形成しているのです。

160 なぜ、真の教会は「聖」なのですか。

真の教会が「聖」なのは、その目に見えない頭であるイエズス・キリストをはじめ、大勢の教会の構成員も信仰も掟も秘跡も聖であって、この教会の外にまことの聖性は存在せず、存在することもできないからです。

161 なぜ、真の教会は「公(カトリック)」なのですか。

真の教会が「公(カトリック)」、すをわち、普遍であるというのは、時代、場所、年令、生活環境にかかわりなくすべての信者をふくみ、世界のすべての人間がこの教会に属するよう招きを受けているからです。

162 なぜ、真の教会は「使徒継承」なのですか。

真の教会が「使徒継承」なのは、今の教会が歴史的に何ら中断されることなく、使徒たちの時代まで遡ることができるからです。教会は使徒たちが信じ、教えた事柄をすべて信じ、教えています。さらに、使徒たちの真の後継者である牧者に導かれ、治められています。

163 なぜ真の教会は「ローマ教会」とも呼ばれますか。

真の教会が「ローマ教会」とも呼ばれるのは、一・聖・公・使徒継承という四つの特徴が聖ペトロの後継者であるローマ司教を頭と仰ぐ教会にのみ見出されるからなのです。

164 イエズス・キリストの教会はどのように構成されていますか。

イエズス・キリストの教会は、一つの真に完全な社会として構成されており、この共同体の中心には、人間に見られるように、霊魂とからだをみとめることができます。

165 教会の霊魂は何から成っているのですか。

教会の霊魂は、信仰、希望、愛、恩恵と聖霊の賜物さらに、罪のあがない主キリストと聖人たちの功徳からくる天上の宝などの内的、霊的を要素から成っています。

166 教会のからだは何から成っているのですか。

教会のからだは、信者の集まりや礼拝と教職、さらに秩序と統治に関する可視的、外的要素から成っています。

167 救いを得るにはカトリック教会に属するだけで充分なのですか。

救いを得るには、カトリック教会に属するだけでは充分ではなく、生きた肢体でなければなりません。

168 生きた肢体とはどういう人たちですか。

生きた肢体とはすべての義人、すをわち、実際に神の恩恵を持っている人たちのことです。

169 死んだ肢体とはどんな人たちですか。

教会の死んだ肢体とは、大罪を犯したままの状態にいる人たちのことを言います。

170 使徒継承のローマ教会外においても救いを得ることができますか。

教会の前表であったノエの箱船の外では、だれも大洪水を免れなかったのと同じように、使徒継承のローマ教会外において救いを得ることはできません。

171 それでは、なぜ旧約の太祖や予言者その他の義人が救われたのですか。

旧約の義人は、来たるべきキリストを信じ、すでに霊的に教会に属していたからです。

172 過失なく、つまり悪意なしに、教会に属していない人々は救われますか。

過失なく、つまり悪意なしに教会に属さない人も、洗礼を受けているか、あるいは少なくとも受ける望みを持つ人で、まじめに真理を求め、できるだけ神の御旨を果す努力をするなら、教会のからだからは離れていても、教会の霊魂には結ばれていると言えますから、救いの道を歩んでいることになります。

173 カトリック教会に属しながら、その教えを実践しない人は救われますか。

カトリック教会に属しながら、その教えを実践しない人は、死んだ肢体ですから救われません。成人が救われるためには、洗礼と信仰だけでは充分ではなく、信仰に合ったおこないが必要なのです。

174 数会が教える真理を全て信じなければなりませんか。

教会が教える真理を全て信じなければなりません。イエズス・キリストは、信じないものはすべて亡ぼされると宣言なさいました。

175 教会の命じることも果さなければなりませんか。

教会の命じることを全て果さなければなりません。キリストは教会の牧者たちに次のようにおおせになったからです。「あなたたちの言うことを聞く人は私の言うことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は私をこばむ人である。そして、私をこばむ人は、私をお送りになった御方をこばむのである。」

176 教会が信ずべきことがらを提示するとき、誤ることがありますか。

教会が信ずべきことを提示するとき、誤ることはありません。なぜならイエズス・キリストの御約束によって、教会は絶えず聖霊のお導きを受けているからです。

177 では、カトリック教会は不可謬だというわけですか。

カトリック教会は不可謬です。従って、教会の決定する教義を拒否する人は信仰をうしない、異端者となるのです。

178 カトリック教会が崩壊したり、破滅してしまうことがあり得るでしょうか。

カトリック教会は迫害を受けることはありますが、決して崩壊したり、破滅してしまうことはありません。約束されたように、キリストは世の終りまで教会と共においでになりますから、教会は世の終りまで存続します。

179 なぜカトリック教会は激しい迫害を受けるのですか。

カトリック教会が激しい迫害を受けるのは、神である創立者が迫害をお受けになったから、また、教会が悪徳、悪習を非難し、情欲をうち砕き、不正義と誤りを排斥するからです。

180 ほかにも、教会に対して果すべき義務がありますか。

信者はみな、教会に対する限りない愛を表明し、教会に属する自分が大きな恵みをいただいた幸福なものであることを自覚し、できる限りの手段を尽して、教会の栄光と発展に貢献しなければなりません。

Ⅲ  教導教会と聴従教会

181 教会の信者の間になにか区別がありますか。

教会の信者の間には注目すべき区別があります。命令するものと従うもの、教える者と教えを受ける者の区別がそれです。

182 教会の、教えにたずさわる部分を何と呼びますか。

教会の、教えにたずさわる部分を教導教会(教える教会)と呼びます。

183 教会の、教えを受ける部分を何と呼びますか。

教会の、教えを受ける部分を聴従教会(聴く教会)と呼びます。

184 教会内のこの区別を定められたのはどなたですか。

教会内のこの区別を定められたのはイエズス・キリスト御自身です。

185 教導教会と聴従教会とは、二つの異なった教会ですか。

教導教会と聴従教会とは、唯一の教会の二つの異った部分を構成しているにすぎません。ちょうど、人間の体において、頭は他の部分と異なりますが、すべてが一つにまとまって唯一の体を構成しているのと同じです。

186 教導教会を構成しているのはだれですか。

教導教会を構成しているのは、教皇を頭とする全司教団です。司教は全世界に散在していますが、公会議では一同に会します。

187 聴従教会を形成しているのはだれですか。

聴従教会を形成しているのは、すべての信者です。

188 それでは教会内ではだれが教える権能を有しますか。

教会内で教える権能を有するのは、教皇と司教およびこれらの人々から委託を受けた他の聖職者たちです。

189 教導教会の指導には従わなければなりませんか。

教導教会の指導には従わなければなりません。イエズス・キリストが使徒たちを通して、教会の牧者に「あなたがたの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は私をこばむのである」とおおせになりましたから、教導教会の指導に従わない人は永遠の罰を受けることになります。

190 教会は教導権のほかにも権能をもっていますか。

教会は教導権のほかにも特に、聖なることがらを司どる権能、掟を定め、その掟の遵守を要求する権能をもっています。

191 教会の権能は信者全体から与えられたものですか。

教会の権能は、信者全体から与えられたものではありません。これは異端的な考えです。教会の権能は神からのみ与えられたものなのです。

192 この権能を行使できるのは、だれですか。

この権能を行使できるのは、教会の位階聖職者、すなわち、教皇と教皇に従う司教に限られています。

Ⅳ  教皇と司教について

193 教皇とは、だれですか。

教皇は、ローマ司教の座を占める、聖ペトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者、可視的教会の頭のことです。

194 なぜ教皇は聖ペトロの後継者なのですか。

教皇が聖ペトロの後継者であるのは、聖ペトロが彼自身の内にローマ司教の位と教会の頭としての位をあわせ持っていたからです。聖ペトロは神の御旨に従って教皇座をローマに定め、そこで没しました。それゆえ、ローマ司教に選ばれたものが、同時に教会の全権能の後継者となるのです。

195 なぜ教皇はイエズス・キリストの代理者なのですか。

教皇がイエズス・キリストの代理者であるのは、この世においてイエズス・キリストの代りに教会を統治するからです。

196 なぜ教皇は可視的教会の頭なのですか。

教皇が可視的教会の頭であるのは、不可視的な教会の頭であるイエズス・キリストと同じ権能をもって、可視的教会を治めるからです。

197 それでは教皇の位とは何ですか。

教皇の位とは、この世のあらゆる権能のうち最高のもので、全ての牧者、信者の上にたち、最高かつ直接的権能を行使できる位のことです。

198 教皇は教会を教導するとき誤ることがありますか。

信仰と道徳に関する決定を下すとき、教皇は不可謬です。

99 なぜ教皇は不可謬ですか。

教皇が不可謬なのは、イエズス・キリストの御約束と聖霊の絶えまのない援助によります。

200 教皇はどんな場合に誤ることができませんか。

教皇は全教会が受け入れるべき信仰と道徳に関して、全力トリック信者の牧者、教師としての資格と最高かつ教皇の権威をもって、教義を決定するとき、誤りを犯すことはできません。

201 教皇の決定した教義を信じないものは、どんな罪を犯しますか。

教皇の決定した教義を信じない者も、疑いを持つ者も、信仰に反する罪を犯します。また頑固に不信仰の状態にとどまれば、カトリック信者ではなく異端者になります。

202 神が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、何のためですか。

神が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、教会が教える真理を私たちが確信して受け入れるためです。

203 教会が教皇の不可謬性を決定したのはいつでしたか。

教会は第一バチカン公会議において教皇は不可謬であると決定しました。もしこの決定に反論する者があれば、異端者となり、破門されます。

204 教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのですか。

教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのではありません。すでに聖書や教会の聖伝の中に含まれていた、教皇の不可謬性についての教えは神によって啓示された真理であるので、ドグマすなわち信仰箇条として信じなければならないということを、色々な誤った新説に対処するために、決定したにすぎないのです。

205 信者は教皇に対してどんな態度をとるべきですか。

信者はみな、教皇を父、牧者、普遍の師として仰ぎ教皇に心から一致しなければなりません。

206 神のお定めにより、教会内で教皇の次に尊敬されなければならないのは、だれですか。

教皇の次に尊敬されなければならないのは、神のお定めにより、司教です。

207 司教とはだれですか。

司教とは、教皇に従属しつつ、委託された司教区にある教会を統治するように聖霊によって定められた牧者のことです。

208 司教は自分の教区でどんな役目を持っていますか。

司教は自分の教区の聖職者、信徒、すなわち全信者の正当な牧者、父、師そして頭です。

209 なぜ司教は正当な牧者と呼ばれるのですか。

司教が正当な牧者と呼ばれるのは、自分の教区の信者を治める権能が教会の法と定めに従って司教に与えられているからです。

210 教皇と司教団はだれを受け継いでいるのですか。

教皇は使徒の頭である聖ペトロの後継者であり、司教団は教会の普通の統治に関して使徒たちの後継者です。

211 信者はみな司教に一致しなければなりませんか。

聖職者であれ、信徒であれ、信者はみな教皇と一致している司教に一致しなければなりません。

212 信者は司教に対してどんな態度をとるべきですか。

聖職者、信徒を問わず、信者はみな司教を敬い、愛し、尊ばなければなりません。また、司牧と教区の霊的指導に関係のある事柄において、司教に従わなければなりません。

213 司教を助けるのは、だれですか。

司教を助けるのは、司祭、とくに主任司祭です。

214 主任司祭とはだれですか。

主任司祭とは、司教のもとにあって、小教区と呼ばれる教区の一部を治め指導するよう任命された司祭です。

215 信者は主任司祭に対してどんな義務を持ちますか。

信者は主任司祭と一体となり、かれの言うことを素直に受け入れ、小教区の統治に関する事柄については、尊敬と恭順の態度を示さなければなりません。

Ⅴ  諸聖人の通功について

216 使徒信経の第九箇条の「詩聖人の通功」は何を教えていますか。

使徒信経の第九箇条の「諸聖人の通功」は、教会の中では、全ての信者を緊密に結ぶ絆によって、教会に属する内的、外的な霊的善が信者すべての共有物であることを教えています。

217 教会の内的な共有善とは何ですか。

教会の内的な共有善とは、秘跡を通して受ける恩恵、信仰・希望・愛、イエズス・キリストの無限の功徳、聖母マリアと諸聖人のゆたかな功徳、教会で実践されるすべての善きおこないの実りなどのことです。

218 教会の外的共有善とは何ですか。

教会の外的共有善とは、秘跡、ミサ聖祭、公けの祈祷、さらに信者同志の一致を計るその他諸々の外的な宗教行事のことです。

219 信者はだれでも共有善を享受できますか。

内的共有善を享受できるのは、神の恩恵を持った信者であって、大罪を犯した状態にいる人は信者と言っても、共有善を享受することはできません。

220 なぜ大罪を犯した状態にある信者は、共有善を享受することができないのですか。

信者を結びつけ、信者同志の一致を可能にするのは神の恩恵です。ところが大罪を犯した者は神の恩恵を持っていませんから、霊的共有善を享受することはできないのです。

221 大罪を犯した状態にある信者は、教会の内的、霊的善の恵みを全然受けないのですか。

大罪を犯した状態にある信者は、教会の内的、霊的善を剥奪されてはいますが、全く、善の恵みを受けないのではありません。キリスト信者として、消えることのない印章を持っていますから、他の信者の善業や祈りに助けられて再び改心の恵みを得ることができます。

222 大罪の状態にある者は、教会の外的善にあずかることができますか。

破門され教会から離れていない限り、大罪の状態にある者でも教会の外的共有善にあずかることはできます。

223 なぜ、このような通功(交わり)を持つ人を総称して諸聖人と呼ぶのですか。

この通功(交わり)をもつ人を総称して諸聖人と呼ぶのは、すべての信者が聖性に至るよう招きを受けており、洗礼の秘跡によって聖化されていること、その上なかにはすでに完全な聖性に達した人もいるからです。

224 詩聖人の遺功は天国と練獄にも広がっていますか。

諸聖人の通功は、天国と練獄にも広がっています。凱旋の教会、潔めの教会、戦う教会の三つは、愛によって一致しているからです。また聖人たちは私たちと練獄の霊魂のために神に祈り、私たちは聖人を敬い、栄光をささげ、さらに、ミサ聖祭、献金、免償その他の善業を代願として練獄の霊魂にささげます。

Ⅵ  教会に属さない人々について

225 諸聖人の通功にあずかれないのはどんな人ですか。

諸聖人の通功にあずかれないのは、死後の世界では永罰を受けている人々、この世では真の教会に属さない人々です。

226 真の教会に属さないのはどんな人ですか。

真の教会に属さないのは、未信者、ユダヤ教徒、異端者、棄教者、離散者、それに破門された人々です。

227 未信者とはだれですか。

未信者とは、洗礼を受けず、イエズス・キリストを信じない人のことで、これには偶像崇拝者のように虚偽の神を信じ崇拝する者と唯一の神の存在を認めながらも救い主がこの世においでになったことや、来たるべき御者であることさえも信じない者とがあり、これには回教徒などがあります。

228 ユダヤ教徒とはだれですか。

ユダヤ教徒とは、モイゼの法を信じても、洗礼を受けず、イエズス・キリストを信じない人たちのことです。

229 異端者とはだれですか。

異端者とは、洗礼を受けていながら、神によって啓示され、カトリック教会が信ずべきこととして教える真理を頑固に拒絶する人々のことで、アリウス派、ネストリウス派、プロテスタントの宗派などがあります。

230 棄教者とはだれですか。

棄教者とは、信仰を棄て去った者、つまり、それまで持っていたカトリックの信仰を外的なおこないによって否定する人々のことです。

231 離教者とはだれですか。

離教者とは、どの教義をはっきりと否定するということはなくても、イエズス・キリストの教会、つまり、正しい牧者から自発的に離れてしまうキリスト教徒です。

232 破門された者とはどんな人ですか。

破門された者とは、非常に重大な罪を犯したため、教皇または司教によって破門の罰を科せられ、教会にその名に価しない者として追放された人のことですが、教会はこの処置により、この人たちの改心を期待しているのです。

233 破門は恐ろしいことですか。

破門は、非常に恐ろしいことです。なぜなら、この罰は教会が、反抗したり、強情な態度をとる者に、科する罰のうち最も重く、恐ろしいものだからです。

234 破門された者はどのような善を剥奪されますか。

破門された者は、公的な祈り、秘跡、免償のめぐみを剥奪され、有罪判決または宣言判決があれば、教会の埋葬を受けることもできません。

235 破門された者に対して、助けの手をさしのべることができますか。

破門された者や教会に属さない全ての人々に、正しく忠告したり、祈ったり、善業を通じて、また、主に対しては、神の御慈悲によってかれらが信仰をとりもどし、諸聖人の通功にあずかることのできる恩恵をお与えになるように願うなどして、助けの手をさしのべることができます。

第十一章・使徒信経の第十箇条

236 第十箇条「罪のゆるし」では何を教えますか。

使徒信経の第十箇条では、イエズス・キリストが教会に罪をゆるす権能をお与えになったことを教えます。

237 教会はどんな罪でもゆるすことができますか。

教会は、どんなに多くても、重大であっても、すべての罪をゆるすことができます。それは、イエズス・キリストが、つなぐ力と解く力を教会にお与えになったからです。

238 教会内でこの権能を行使するのはだれですか。

教会内で、罪をゆるす権能を行使するのは、まず第一に、この全権能を持つ教皇、ついで、司教と司教のもとにある司祭です。

239 教会はどのようにして罪をゆるしますか。

教会はイエズス・キリストの功徳にもとづいて罪をゆるしますが、この目的のために制定された秘跡、特に洗礼と告解を通して罪のゆるしを与えます。

第十二章・使徒信経の第十一箇条

240 第十一箇条「肉身のよみがえり」は何を教えますか。

使徒信経の第十一箇条では、すべての人間が復活すること、すなわち、霊魂が生前有していたからだにふたたび合わされることを教えています。

241 「肉身のよみがえり」はどのように起こりますか。

「肉身のよみがえり」(死者の復活)は、何でもおできになる全能の神の御力によって実現されます。

242 死者の復活はいつ起こりますか。

死者の復活は、世の終りに起こり、続いて公審判が行なわれます。

243 神はなぜ肉体の復活をお定めになったのですか。

神が肉体の復活をお定めになったのは、霊魂が肉体と共に善業、悪業をしたかぎり、肉体と共に、報いや罰を受けるべきだからです。

244 人はみな同じような仕方で復活しますか。

選ばれた人々の体と罰せられた人々の体には大きなちがいがあるでしょう。選ばれた人々の体だけが、復活されたイエズス・キリストと同じように、光栄に輝く体の特徴を得ることができるのです。

245 選ばれた人々の体を飾る特徴とは何ですか。

選ばれた人々の体を飾る特徴には次のようなものがあります。① 受苦不能性~この恵みによって、どんな悪や苦しみの束縛も受けず、食べたり休息したりする必要などからも解放されます。② 輝き~この恵みによって、太陽や星のように輝くことができます。③ 敏捷性~一瞬のうちに疲れることもなく場所を変え、地上から天国へ移ることもできます。④ 精敏~復活されたイエズス・キリストのように、物体を障碍とせず貫通することができます。

246 罰せられた人々の体はどうなりますか。

罰せられた人々の体は、栄光に輝く体の特徴を得ることができず、永遠の罰の恐ろしい印を身につけなければなりません。

第十三章・使徒信教の第十二箇条

247 最後の箇条「おわりなき命」では何を教えますか。

使徒信経の最後の箇条では、この世の命を終えたのちにも、来世があり、選ばれた人たちは永遠のしあわせを楽しみ、罰せられて地獄におちた人々には永遠の苦しみが続くことを教えます。

248 天国の幸福がどんなものか、いま理解できますか。

栄光にみちた、天国の幸福がどんなものかを、いま理解することはできません。天国の幸福は、私たちの限られた理解力のはるかに及ばないことである上、天国の善とこの世の善を比較することはできないからです。

249 選ばれた人々の幸福とはどんなものですか。

選ばれた人々の幸福とは、すべての善の源である神を永遠にあおぎ見、愛し、所有することです。

250 罰せられた人々の不幸とはどんなものですか。

罰せられた人々の不幸とは、永遠に神を見ることができず、地獄で永遠の苦しみを受けることです。

251 天国の恵みと地獄の災いは霊魂だけのものですか。

今のところ天国や地獄にいるのは霊魂だけですから天国の恵みや地獄の災いを受けるのは霊魂だけです。しかし、体の復活のあとでは、永遠の幸福も、永遠の苦しみも霊魂と体が共に受けることになります。

252 天国の幸福は選ばれた人々みなに、また地獄の苦しみは罰せられた人々みなに、それぞれ同じですか。

天国の幸福は選ばれた人々みなに、地敬の苦しみは罰せられた人々みなにとってそれぞれその本質と永遠性においては同じですが、一人一人の徳、不徳に応じて、いずれにも程度と段階の差があります。

253 使徒信経の終りにある「アーメン」ということばは、どんな意味を持っていますか。

祈りの終りにある「アーメン」ということばは、「そうでありますように」という意味です。従って、使徒信経の終りにある「アーメン」は、「上に述べた通りです」という意味を表わし、言いかえれば次のようになります。「この十二箇条に述べられていることはすべて真実であることを信じ、実際に目で見ているより確かをものとして信じます。」

祈りについて

第一章・祈り一般

254 第二部では何をとりあげていますか。

第二部では、祈り一般について、また特に主の祈りをとりあげて説明しています。

255 祈りとは何ですか。

祈りとは、心を神に上げて、神を崇め、感謝をささげ、必要なものを願い求めることです。

256 祈りにはどのような種類がありますか。

祈りには、心の内でささげる祈りと、心を集中し、信仰の精神をもって声を出して唱える祈りとがあります。

257 祈りにはその他にどんな種類がありますか。

このほかにも、信者の私的な祈りと、教会の公的な祈りとがあります。

258 私的な祈りとは何ですか。

私的を祈りとは、自分または他人のために個人的にする祈りのことです。

259 公的な祈りとは何ですか。

公的を祈りとは、教会の名において聖職者が信者の救いのためにする祈りです。また宗教上の行列や巡礼あるいは教会内で信者が一緒に唱える祈りも公的な祈りと呼ぶことができます。

260 祈れば神が必要な恩悪と助力をくださるという希望は何に基づいていますか。

祈れば神が必要な恩恵と助力をくださるという希望は、全能で慈悲深く忠実な神の御約束とイエズス・キリストの御功徳に基づいています。

261 だれの名によって恩恵を乞い求めますか。

私たちは、イエズス・キリストの名において必要な恩恵を乞い求めなければなりません。つまり、イエズス・キリストがお教えになり、教会がその通り実行しているようにすべての祈りを「主イエズス・キリストによって」ということばで終えるのです。

262 なぜキリストの名において神に恩恵を乞わねばなりませんか。

キリストの名において神に恩恵を乞わねばならないのはイエズス・キリストこそ仲介者であり、キリストを通してのみ神の座に近づくことができるからです。

263 祈りにはそんな力があるのに、なぜ聞き入れられないことがよくあるのですか。

何度も祈りの聞き入れられないことがあるのは、永遠の救いの妨げになることを求めたり、正しい態度で乞い求めなかったりすることが多いからです。

264 神には特に何を願わねばなりませんか。

神に特に願わねばならないのは、神の栄光と私たちの救い、そして救いを得る手段です。

265 この世の善を願うのは正しいことですか。

神の御旨にかない、永遠の救いのさまたげとならないことであれば、この世の善を願うのは正しいことです。

266 神は私たちの必要とすることを御存知なのに、なぜ改めて祈り求める必要があるのですか。

神は私たちの必要とすることを全て御存知ですが、私たちが神を全ての善の与え主として認め、謙虚な心で従うことを示し、神の恩恵にあずかることができるように祈り求めることを神がお望みだからです。

267 効果的な祈りをするため一番大切な心構えは何ですか。

効果的な祈りをするために一番大切な心構えは、恩恵の状態にあること、あるいは少なくとも恩恵の状態にありたいと望むことです。

268 長い祈りをするためには他にどんな心の準備をしなければなりませんか。

良い祈りをするために、特に潜心、謙遜、信頼、忍耐、忍従の心をもたなければなりません。

269 潜心して祈るとはどういうことですか。

神とおはなししているという自覚のもとに、尊敬と信仰の心をもって祈り、気を散らさないように努力すること、つまり祈りと関係のないことを考えないように努めることです。

270 気を散らせると祈りの功徳は減りますか。

わぎと気を散らせたり、注意が散慢しないように努力しないとき祈りの功徳は減ります。しかし神と静かに語り合えるようできる限り努力をするなら、祈りの功徳は減るどころか増加することになります。

271 潜心して祈るためにはどうすべきですか。

祈りを始める前に、気を散らせる原因となるものを全て遠ざけること、そして祈りの間、私たちをみつめ私たちの申し上げることに耳を傾けて下さる神の御前にいることを考えなければなりません。

272 謙遜に祈るとはどうすることですか。

私たちは価値なく、無力で哀れな状態にいるということを正直に認めると共に、正しい姿勢で祈ることです。

273 信頼して祈るとはどうすることですか。

祈りが神の栄光と私たちの真の善を求めるものなら必ず神が聞き入れて下さるという確固とした希望をもって祈るということです。

274 忍耐強く祈るとはどうすることですか。

神が直ちにお聞き入れにならない時も、あきらめずに、さらに熱心に祈り続けることです。

275 忍従して祈るとはどうすることですか。

これは神の御旨は受け入れなければならないということです。神は私たちの救いに必要なことは全て御存知ですから、たとえ祈りが聞き入れられない時にも、神の御旨として受け入れることです。

276 よい祈りなら神はいつもお聞き入れになりますか。

よい祈りなら神はいつも聞き入れて下さいます。ただし永遠の救いに役立つ仕方でということであって、かならずしも私たちの望み通りということではありません。

277 祈りの効果は何ですか。

祈りによって私たちは、何物にもまさって主なる神に依存していることを悟り、天上の事柄に思いをはせ、徳に進歩し、神の御慈悲を得、誘惑にうち勝つ力を与えられ、苦難のときには慰めを受け、困窮に際して助けの手に支えられ、最後まで耐え忍ぶ恩恵を得ることができるのです。

278 特にいつ祈らなければなりませんか。

危険や誘惑や死に直面したとき特に祈らなければなりません。そのほか、朝夕そして一日の生活のうち大切なことを始めるときなどにひんばんに祈らなければなりません。

279 だれのために祈らなければなりませんか。

全ての人のために祈らなければなりません。つまり、自分と両親のため、目上の人、善行者、友人のため、また敵のためにも、さらに罪人や教会から離れてしまった人たちの改心のため、また練獄の霊魂のために祈らなければなりません。

第二章・主の祈り

Ⅰ  主の祈り一般について

280 口祷のうち最も優れた祈りはどれですか。

口祷のうち最も優れた祈りは、イエズス・キリスト御自身が教えてくださった「主の祈り」です。

281 なぜ、主の祈りが最も優れた祈りなのですか。

主の祈りが最も優れた祈りであるのは、イエズス・キリスト御自身がお作りになり、お教えになった祈りだからです。この祈りには私たちが神に期待することのできることが全て簡単明瞭に含まれているので、他の祈りの規準となり模範となっています。

282 主の祈りは最も効果のある祈りではありませんか。

主の祈りは最も効果のある祈りでもあります。神の御子がお教えになったそのままの言葉で祈るわけですから、神にとっても最もよろこばしい祈りなのです。

283 なぜ、主祷文と呼ばれますか。

主祷文とは、主の祈りという意味で、それはイエズス・キリストが口ずから直接お教えくださったからです。

284 主の祈りにはいくつの願いがありますか。

主の祈りには導入句のあとに七つの願いがあります。

285 主の祈りを唱えて下さい。

天にましますわれらの父よ、

① 願わくは御名の尊まれんことを、

② 御国の来らんことを、

③ 御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを、

④ われらの日用の糧を今日われらに与えたまえ、

⑤ われらが人に赦す如く、われらの罪を赦したまえ、

⑥ われらを試みに引きたまわざれ、

⑦ われらを悪より救いたまえ。

アーメン。

286 なぜ主の祈りの初めに「われらの父よ」と呼びかけるのですか。

主の祈りの初めに「われらの父よ」と呼びかけるのは、神の無限の善性に信頼する心を神の子たる私たちの心にひきおこすためです。

287 なぜ私たちは神の子であると言えますか。

私たちが神の子であると言えるのは、① 神は御自分に似せて私たちを創造され、その摂理によって保ち、治めておられるからであり、② 特別のお計らいによって洗礼を通して私たちをイエズス・キリストの兄弟、そしてキリストと共に永遠の生命の共同の世継ぎにしてくださったからです。

288 なぜ「われらの父」と言って「私の父」とは言わないのですか。

「われらの父」と言って「私の父」と言わないのは、私たちはみな神の子であり、従って互いに兄弟として愛し合い、祈り合わなければならないからです。

289 神はどこにでもおいでになるのになぜ「天にまします」と祈るのですか。

神はどこにでもおいでになるのに「天にましますわれらの父よ」と祈るのは、栄光のうちに神がその子たちに御自分をお現わしになる天国に向けて私たちの心をあげさせるためです。

Ⅰ  第一の願い

290 第一の願い「御名の尊まれんことを」では、何を乞い求めますか。

第一の願い「御名の尊まれんことを」では、神が、全ての人々、特に私たち信者に知られ、愛され、敬まわれ、仕えられるようにと願います。

291 神が全ての人に知られ、愛され、仕えられるようにという願いはどんな意味ですか。

未信者が真の神を知り、異端者が自分の誤りを認め、離教者が教会にもどり、罪人が改心し、義人が善業をし続けるようにと願うことです。

292 まず最初に「御名の尊まれんことを」と願う理由は何ですか。

まず最初に「御名の尊まれんことを」と願うのは、私たち自身の関心事や利益よりもまず神の栄光を望まなければならないからです。

293 神の栄光を願うには何をしなければなりませんか。

神の栄光を願うには祈りと善い模範を示し、全ての思い、愛、行ないを神に向けなければなりません。

Ⅲ  第二の願い

294 神の「御国」とは何ですか。

神の「御国」とは、次の三つの意味での霊的な御国のことです。私たちの中にある神の御国、つまり恩恵、地上における神の御国、つまりカトリック教会、それに天における神の御国、すなわち永遠の幸福。

295 「御国の来たらんことを」と祈ることによって、恩恵については何を願いますか。

恩恵については、神が恩恵によって人の心を治め、王が宮廷に住むようによろこんで私たちの中にお住いになるように、さらに信仰、希望、愛の徳によって私たちが神と一致していることができるよう、また、これらの徳を通して私たちの知性、心、意志をお治めになるよう願います。

296 「御国の来たらんことを」と祈ることによって、教会に関しては何を願いますか。

教会に関しては、全人類の救いのために教会が全世界に拡がり発展するよう願います。

297 「御国の果たらんことを」と祈ることによって、神の栄光に関して何を願いますか。

神の栄光に関しては、いつの日か永遠の幸福に入ることをゆるされるよう願います。私たちはそのために創られそこに至ってはじめて完全に幸福になれるからです。

Ⅳ  第三の願い

298 第三の願い「御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」では何を乞い求めますか。

第三の願い「御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」では、天国に居る天使や聖人たちと同じようにすみやかに神の掟に従い、何事においても神の御旨を果せるよう恩恵を乞い求めます。さらに苦しみにあっても、神の霊感に応じ、その御旨を受け入れることのできる恵みも乞い求めます。

299 神の御旨は果さなければなりませんか。

永遠の救いを得ることが必要なように、神の御旨を果すことも必要です。それは、父なる神の御旨を果す者だけが天国に入るであろうとイエズス・キリストがおおせになったからです。

300 どのようにして神の御旨を知ることができますか。

神の御旨は特に教会と、私たちを救いに導くために神がお置きになる霊的指導者を通して知ることができます。そのほか神の霊感を受けたり、あるいは神が私たちにお与えになる状況によっても神の御旨を知ることができます。

301 幸運なことにも不運なことにも神の御旨を認めなければなりませんか。

幸運をことにも不運なことにも神の御旨を認めなければなりません。それは神がなさったりお許しになったりすることは全て私たちのためであるからです。

Ⅴ  第四の願い

302 第四の願い「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」では何を乞い求めますか。

第四の願い「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」では私たちの霊魂とからだに毎日必要なものを乞い求めます。

303 霊魂のためには何を神に願いますか。

霊魂のためには、霊的生活を維持できるよう神に願います。すなわち私たちに必要な神の恩恵を下さるようお願いします。

304 どうすれば霊的生活を維持できますか。

霊的生活はとくに神の御ことばと御聖体の秘跡によって維持することができます。

305 体のために何を神に乞い求めますか。

体のためには、この世での生命を維持するのに必要なものを乞い求めます。

306 なぜ単に「日用の糧」と祈らずに「われらの日用の糧」と祈るのですか。

単に「日用の糧」と祈らずに「われらの日用の糧」と祈るのは、他人の財をうらやみ望む気持を捨てるためです。ですから、盗みや不正な行為をすることなく、自分の働きによって、正当な手段でお金を得、生計をたてて行くことができるように神の御助けを乞い願うのです。

307 「われに与え給え」とは祈らず「われらに与え給え」と祈るのはなぜですか。

「われに与え給え」とは祈らず「われらに与え給え」と祈るのは、神が全ての財の与え主であること、また私たちに豊富にお与えになるのは、余分の財を貧しい人々に分け与えるためであることを思い起こさせるためです。

308 なぜ「日用の」と言いますか。

「日用の」と言うのは、私たちが望むのは生活に必要なものだけであって、食糧やこの世の財を必要以上に望むべきではないからです。

309 第四の願いの「今日」というのはどんな意味ですか。

「今日」というのは、将来のことをあまり考えすぎたり、心配したりするべきではなく、現在必要とするものを乞い求めなければならないということです。

Ⅵ  第五の願い

310 第五の願い「われらが人にゆるす如くわれらの罪をゆるし給え」では何を乞い求めますか。

第五の願い「われらが人に赦す如くわれらの罪を赦し給え」では、私たちが人のあやまちをゆるすように、神も私たちの罪をゆるしてくださるよう乞い求めます。

311 なぜ、罪は「負債」とも呼ばれるのですか。

罪が「負債」とも呼ばれるのは、この世または来世において神の正義の前に償いをして、罪の負債を返さなければならないからです。

312 隣人を赦さない人々は、罪の赦しを神に期待することができますか。

隣人を赦さない人々は、罪の赦しを神に期待することなどできません。そのような人々は「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」と神に願うたびに、自分の罪を宣告することになります。

Ⅶ  第六の願い

313 第六の願い「われらを試みに引きたまわざれ」では何を乞い求めますか。

第六の願い「われらを試みに引きたまわざれ」では、私たちが誘惑にあわないように、また誘惑にあっても、うち勝つ恩恵を与えられて誘惑から解放されるよう乞い求めます。

314 「試み」とは何ですか。

「試み」とは、悪魔や悪人、それに私たち自身の欲情から生まれる罪への誘惑のことです。

315 誘惑をうけることは罪ですか。

誘惑をうけても罪にはなりません。しかし誘惑に同意したり、誘惑に同意しそうな危険にわぎと身をさらせば罪になります。

316 なぜ神は、私たちが誘惑されるのをお許しになるのですか。

私たちが誘惑されるのを神がお許しになるのは、忠誠心をためし、私たちに徳を完成する機会をお与えになり、功徳をつむことができるためです。

317 誘惑をさけるには何をしなければなりませんか。

誘惑をさけるためには、危険な機会を避け、感覚を抑制し、しばしば秘跡にあずかり、祈らなければなりません。

Ⅷ  第七の願い

318 第七の願い「われらを悪より救い給え」では何を乞い求めますか。

第七の願い「われらを悪より救い給え」では、過去、現在、未来の悪、特に最高の悪である罪とその永遠の罰から救って下さるよう乞い求めます。

319 「悪より救い給え」とはどんな意味ですか。

「悪より救い給え」とは、この世の悪すべてから解放されるのを望むのではなく、ただ私たちの霊魂にとって望ましくない悪から解放されることを願うことです。すなわち、神が、私たちにとって悪だとお考えになることからだけ救って下さるよう乞い求めます。

320 病気など具体的な悪から救って下さるよう願ってもいいのでしょうか。

具体的を悪から救って下さるよう願ってもいいのです。しかし、神が、霊魂の利益になる試練をお送りになることもありますから、神の御旨に従わなければなりません。

321 神がお送りになる試練は何の役に立ちますか。

神がお送りになる試練は、罪のつぐないをし、徳を実践する助けになるほか、特に頭であるイエズス・キリストにならう助けにもなります。キリストの光栄にあずかりたいのなら、その苦しみにもあずかるべきだからです。

322 主の祈りの最後の「アーメン」はどんな意味ですか。

「アーメン」とは、「そうでありますように」、「そう乞い求めます」、「そうであることを希望します」という意味です。

323 お顔いする恩恵を得るためにはどう祈るべきですか。

お願いする恩恵を得るためには、あわてずに、注意力を集中し、心を込めて主の祈りを唱えなければなりません。

324 いつ、主の祈りを唱えるべきですか。

私たちは毎日神の御助力を必要としますから、毎日主の祈りを唱えるべきです。

第三章・天使祝詞

325 主の祈りのあとで唱える祈りは何ですか。

主の祈りのあとでは、普通、天使祝詞、すなわちアベマリアの祈りを唱えて聖母マリアの助力を乞います。

326 なぜ、アベマリアの祈りを天使祝詞と言いますか。

アベマリアの祈りを天使祝詞と言うのは、この祈りは、大天使聖ガブリエルが聖母マリアにしたあいさつのことばで始まっているからです。

327 天使祝詞の祈りはだれのことばからとったのですか。

天詞祝詞の祈りは、大天使聖ガブリエル、聖エリザベット、教会からそれぞれことばをとっています。

328 大天使聖ガブリエルのことばはどれですか。

大天使聖ガブリエルのことばは、「めでたし、聖寵みちみてる御方、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ給う」という部分です。

329 大天使が聖マリアにこう言ったのはいつでしたか。

大天使が聖マリアにこう言ったのは、聖母マリアを通して成就するはずの御託身を神の使者として告げに行った時のことです。

330 大天使聖ガブリエルのことばで、聖母マリアにあいさつを送るのはなぜですか。

大天使聖ガブリエルのことばで、聖母マリアにあいさつを送るのは、神がだれにもまして特に聖母マリアにお与えになった特権と恩恵を共に喜ぶためです。

331 聖エリザベットのことばはどれですか。

聖エリザベットのことばは、「御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子も祝せられ給う」の部分です。

332 聖エリザベットは、いつこのことばを言いましたか。

聖エリザベットが神の霊感を受けてこのことばを言ったのは、洗者ヨハネを生む三ケ月前のことで、すでに神の御子を御胎内に宿しておられた聖マリアの御訪問を受けた時のことです。

333 このことばで祈るとき何をしますか。

聖エリザベットのことばで祈るとき、神の母のすばらしい栄誉を聖母マリアと共に喜びあい、神を賛美し、聖母マリアを通してイエズス・キリストをお与えになったことを神に感謝します。

334 天使祝詞の残りの部分はだれのことばですか。

天使祝詞の残りの部分はすべて、教会が追加したことばです。

335 天使祝詞の最後の部分で何を願いますか。

天使祝詞の最後の部分では、この世に生きる間、特に一層の肋けを必要とする臨終の時のために、聖母マリアの御保護を願います。

336 主の祈りのすぐ後で天使祝詞を祈るのはなぜですか。

聖マリアは、イエズスに対する最も信頼のおける弁護者ですから、イエズス・キリストがお教えになった祈りを唱えたあとで、聖母マリアに、私たちが神に乞い求めた恩恵を得て下さるようお願いするのです。

337 なぜ聖母マリアは最も信頼のおける弁護者ですか。

聖母マリアが最も信頼のおける弁護者であるのは、神の御母である聖母に神が耳をかされないことはありえないからです。

338 聖人たちは聖母マリアヘの信心について何を教えていますか。

聖人たちは、聖母マリアが真の信心を寄せる人々を母としての優しい愛情をもって慈しみ保護されること、また聖母を通れば必らずイエズスにめぐり会い、永遠の幸福を得ることができると教えています。

339 教会が特に勧めている聖マリアヘの信心は何ですか。

教会が特に勧めている聖マリアヘの信心は、聖なるロザリオの祈りです。

第四章・聖人崇敬

340 聖人たちにとりなしを求めるのはいいことですか。

聖人たちに祈ることは非常な助けとなりますから、信者がみなしなければならないことです。特に、守護の天使、教会の保護の聖人である聖ヨゼフ、使徒たち、自分の霊名の聖人、教区と小教区の守護の聖人などに祈らなければなりません。

341 神に祈ることと聖人たちに祈ることとのちがいは何ですか。

神に対しては恩恵の主として恵みをお与えになり、悪から私たちをお守りになるようにお願いしますが、聖人たちに対しては、保護者として神にとりなしをして下さるよう願うのです。

342 ある聖人のとりなしによって、恵みをいただいたという時、何を意味しますか。

ある聖人のとりなしによって、恵みをいただいたという時、その聖人が神からその恵みをいただいて下さったという意味です。

神の十戒と教会の掟

第一章・神の十戒

343 第三部では何について述べていますか。

第三部では、十戒と教会の掟について述べています。

344 神の十戒を唱えて下さい。

① われはなんじの主なる神なり、われのほか何者をも神となすべからず。

② なんじ、主の名をみだりに呼ぶなかれ。

③ なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。

④ なんじ、父母を敬うべし。

⑤ なんじ、殺すなかれ。

⑥ なんじ、かんいんするなかれ。

⑦ なんじ、盗むなかれ。

⑧ なんじ、偽証するなかれ。

⑨ なんじ、ひとの妻を望むなかれ。

⑩ なんじ、ひとの持ち物をみだりに望むなかれ。

345 なぜ神の十戒と呼ばれますか。

神の十戒と呼ばれるのは、神御自身がすべての人の心にこの法をきざみ込まれた上に、旧約時代にシナイ山上で二枚の石板に彫って発布されたから、また新約においてイエズス・キリストがそれを確認されたからです。

346 第一の石板にきざまれたいましめとは何ですか。

第一の石板にきざまれたのは、はじめの三つのいましめで、直接神に関することと、神に対する私たちの義務について述べたものです。

347 第二の石板にきざまれたいましめとは何ですか。

第二の石板にきざまれたのは、残りの七つのいましめで、隣人に関すること、隣人に対する私たちの義務について述べたものです。

348 十戒は守らなければなりませんか。

十戒は守らなければなりません。それは、私たちが創造主である神の御旨に従って生きなければならないからで、十戒の一つでも破れば地獄の罰にあたいします。

349 十戒を守ることはできますか。

神の恩恵の助けがあれば、十戒を守ることができます。神は正しく願う人には常に恩恵をお与えになります。

350 各戒のどんな点に注意しなければなりませんか。

各戒に命じられていることと、禁じられていることとに注意しなければなりません。

第二章・神に関する戒め

Ⅰ  第一戒について

351 なぜ最初に「われはなんじの主なる神なり」といいますか。

十戒のはじめに「われはなんじの主なる神なり」というのは、創造主である神は何でもお命じになることができること、また私たちには神に従う義務があることを理解させるためです。

352 第一戒の「われのほか何者をも神となすべからず」では何が命じられていますか。

第一戒では、唯一の神を最高の主と認め、崇め、愛し、そして仕えることが命じられています。

353 第一戒はどのようにして果すことができますか。

第一戒は内的、外的な礼拝をすることによって果すことができます。

354 内的礼拝とは何ですか。

内的礼拝とは、精神の能力、つまり知性と意志とをもって神を崇めることです。

355 外的礼拝とは何ですか。

外的礼拝とは、外的を行為や目に見える物を通じて神を崇めることです。

356 心の中で神を礼拝すれば充分ですか。

心の中で神を礼拝するだけでは充分ではありません。神は私たちの精神と身体両方の創造主ですから、心とからだで外的にも神を礼拝しなければなりません。

357 内的な礼拝が伴わない外的礼拝はありえますか。

内的な礼拝のない外的礼拝はありえません。内的な礼拝が伴わない外的な礼拝は、霊魂のないからだのようなもので、生命も功徳も効果も全くないからです。

358 第一戒では何を禁じていますか。

第一戒では、偶像崇拝、迷信、汚聖、異端、そのほかキリスト教に反するすべての罪を禁じています。

359 偶像崇拝とは何ですか。

偶像崇拝とは神に向けるべき礼拝をただの像や絵や人間など、被造物に向けることです。

360 聖書はどのような言葉で偶像崇拝を禁じていますか。

聖書は次のような言葉で偶像崇拝を禁じています。「自分のために、なんの彫刻した偶像もつくるを。上は天に、下は地に、地の下は水のなかにあるものも、どんなかたちのものも。それらの前にひざまずくことも、崇敬をしめすこともするな。」

361 聖書の言葉によれば、あらゆる種類の御像や御絵が禁じられているのですか。

神御自身がモイゼに聖櫃の上に二つのケルビムの像や荒地に青銅のへびなどを作るようお命じになりましたから、あらゆる種類の御像や御絵が禁じられているのではないことがわかります。偶像崇拝者たちがしていたように崇拝する目的で作られた偽の神性を表わす像や絵が禁じられているのです。

362 迷信とは何ですか。

教会の教義や習慣に反する信心をしたり、被造物には備わっていない超自然の力や行ないや、物のせいにしたりすることです。

363 汚聖とは何ですか。

汚聖とは、聖別され神の礼拝にあてられた場所、人、物などを汚すことです。

364 異端とは何ですか。

異端とは、教会の教えに反する説をとなえ、信仰の真理を頑強に否定することです。

365 第一戒でははかに何を禁じていますか。

第一戒ではさらに悪魔と交渉を持つ全ての行為や反キリスト教的グループとつながりをもつこと、また他宗教の礼拝に参加することを禁じています。

366 悪魔を頼みにしたり、悪魔の名を呼んだりする人は重大な罪を犯すことになりますか。

悪魔を頼みにしたり、悪魔の名を呼んだりする人は重大な罪を犯すことになります。それは、悪魔は神と人間の最も邪悪な敵だからです。

367 占い、まじない、降神衝、霊媒、守り札などは禁じられていますか。

占い、まじない、降神術、霊媒、守り札などは、迷信であり、時には悪魔が介入していることもあり得ますから禁じられています。

368 第一戒では天使や聖人を崇敬したり、その名を呼ぶことを禁じていますか。

天使や聖人を崇敬したりその名を呼んだりすることは禁じられていません。天使や聖人は神の友であり、私たちの良き仲介者ですから、かれらを崇敬し、その名を呼ぶことは非常に良いことで、教会は大いに勧めています。

369 イエズス・キリストが私たちにとって唯一の仲介者であるのに、なぜ聖母マリアや聖人たちにとりなしを願うのですか。

真の神であり真の人間であるイエズス・キリストこそ私たちの仲介者であって、キリストだけが御自分のいさおしによって私たちと神を和解させ、すべての恩恵を得て下さいます。聖母マリアや聖人たちは、イエズス・キリストのいさおしによって、またかれらを神と私たちに結びつけるその愛によって、私たちがとりなしを願う恵みを得てくれるのです。これが諸聖人の通功の一大善です。

370 イエズス・キリストや聖人たちの御像や御絵を敬うことはできますか。

イエズス・キリストや聖人たちの御像や御絵を敬うことは、御像や御絵が表わす人そのものを崇敬することですからさしつかえありません。

371 聖遺物を敬うことはできますか。

聖人のからだは、イエズス・キリストの生きた肢体、聖霊の神殿であった上に、栄光のうちに永遠の生命に復活するはずのものですから、聖遺物も敬うことができます。

372 神礼拝と聖人礼拝とはちがうものですか。

神礼拝と聖人礼拝とはちがいます。つまり、神に対しては、その無限の崇高さのゆえに崇拝するのに対して、聖人たちには、崇拝するというより、神の友、私たちの仲介者として敬いを表わします。

373 神と聖人たちに対する私たちの態度を区別するためにどんなことばを使いますか。

神にささげられるものは「礼拝」と呼ばれ、聖人たちに対するものは「聖人崇敬」、そして、聖母マリアに対するものは聖母への「特別崇敬」という名で呼ばれています。

Ⅱ  第二戒について

374 第二戒「なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ」では何を禁じていますか。

第二戒「なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ」では、

① 神の御名を、軽々しく、尊敬の念なく口にすること、

② 神、聖母マリア、聖人を冒涜することばをはくこと、

③ 偽りの誓いや無益で不正な誓いを神の名においてたてることを禁じています。

375 軽々しく、尊敬の念なく神の御名を口にするとはどんなことですか。

軽々しく、尊敬の念なく神の御名を口にするとは、神の御名およびイエズス・キリスト、聖母マリア、聖人など特に神と関係深い人々の名前を嘲笑したり、腹だちまぎれに使ったりすることです。

376 冒涜とは何ですか。

冒涜とは、ことばやおこないをもって、神、聖母マリア、聖人あるいは聖なるものを蔑視したり侮辱したりすることです。

377 冒満とのろいとのちがいは何ですか。

冒涜とは神、聖母マリア、聖人に対して軽蔑の念を持ち、侮辱することで、のろいとはわが身あるいは他人にわざわいを願うことです。

378 誓いとは何ですか。

誓いとは、神の御名のもとに、何かを証言し、約束することです。

379 どんな誓いも禁じられていますか。

どんな誓いをたててもいけないというわけではありません。誓いが必要なときもあり、そのような場合には正当であるだけでなく、神に誉れを帰するよいおこないとなります。ただし、誓いは真実、正義、判断をともなったものでなければなりません。

380 真実に欠ける誓いとはどんな誓いですか。

真実に欠ける誓いとは、うそであると知っていることや、うそであると思っていること、あるいは、果す意志がないことを誓うことです。

381 判断もなく誓うとはどんなことですか。

熟慮せずに軽々しく誓ったり、大して重要でもないことをわざわざ誓うことです。

382 正義に背いて誓うとはどういうことですか。

復讐や盗みなどのように正義に反することを誓うことです。

383 正義に反する不正な誓いを守る義務がありますか。

そのような誓いを守る義務はないばかりか、もし果せば、神と教会の掟を破り、罪を犯すことになります。

384 偽りの誓いをたてる者はどんな罪を犯しますか。

偽りの誓いをたてる者は、無限の真理である神をうその証人に立てることになりますから、神の名誉をそこなうという大罪を犯します。

385 第二戒では何を命じていますか。

第二戒では、神の御名を敬い、誓いのほか誓願を守ることを命じています。

386 誓願とは何ですか。

誓願とは、可能な、よりよい善について、神にする約束のことで、神から命じられたこととしてこの約束を守らなければなりません。

387 誓願を果すことが、全体的にしろ、部分的にしろ、困難になった場合はどうしますか。

誓願の内容に応じて、司教か教皇に誓願の取りかえか免除を願いでることができます。

388 誓屏を破ると罪になりますか。

誓願を破ると罪になります。従って、罪を犯す危険をさけるためにも、司祭や思慮深い人の指導を受け、熟慮の上誓願をたてなければなりません。

389 聖母マリアと聖人に対して誓願をたてることはできますか。

誓願は、神にだけする約束です。しかし、聖母マリアや聖人を敬うために神に何かを約束することはできます。

Ⅲ  第三戒について

390 第三戒「なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし」では何を命じていますか。

第三戒 「なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし」では、安息日には、礼拝の儀式を通じて神を崇めることを命じています。

391 安息日とは、いつですか。

旧約時代の安息日は土曜日でしたが、新約時代になってからは、日曜日が安息日と定められました。

392 なぜ新約時代になってから、土曜日のかわりに日曜日を聖化するよう定められたのですか。

新約時代になってから、土曜日のかわりに日曜日を主の日といって聖化するのは、日曜日は主イエズス・キリストの復活された日だからです。

393 安息日にはどんな礼拝が命じられていますか。

信心をもって御ミサに参加することを命じています。

394 良い信者は、ほかにどんな方法で安息日を聖化しますか。

良い信者は、次のようを方法で安息日を聖化します。

① 説教を聞き、キリスト教の教理を学び(子供は日曜学校などに参加)、

② しかるべき準備をして、告解と御聖体の秘跡にあずかり、

③ 祈りをし、隣人愛を実行すること。

395 第三戒では何を禁じていますか。

第三戒では、労働とそのほか神の礼拝のさまたげになる仕事を禁じています。

396 安息日に禁じられているのはどんな労働ですか。

安息日に禁じられている労働とは、精神よりも肉体を使ってする労働のことで、耕作、土木、建築、機械工作、運送などのことです。

397 安息日に働くとどんな罪を犯しますか。

安息日に働くと、大罪を犯すことになりますが、短時間の労働であれば罪は軽くなります。

398 安息日にしてもよい労働がありますか。

日常生活や神への奉仕に必要な仕事や特別を事情のためやむを得ない仕事をすることは許されています。このような場合には、主任司祭から義務の免除をうけることができます。

399 安息日に労働を禁じるのは何のためですか。

安息日に労働を禁じるのは、神を礼拝し、自分の救霊のことを考え、心身の力を養うためです。従って、安息日でも、健全な娯楽に時を過すことは禁じられていません。

400 このほか安息日にはどんなことを避けなければなりませんか。

安息日には、特に罪を避け、また不健全な娯楽や危険な集まりのように罪に追いやる危険のあることすべてを避けなければなりません。

第三章・隣人に関する戒め

Ⅰ  第四戒について

401 第四戒「なんじ、父母を敬うべし」では何を命じていますか。

第四戒「なんじ、父母を敬うべし」では、父母を敬愛し、罪でない限り何事においても従い、霊的、物的に父母を助けることを命じています。

402 第四戒では何を禁じていますか。

第四戒では、ことば、行ないその他によって父母を侮辱することを禁じています。

403 この戒めの「父母」は他にだれを含みますか。

この戒めの「父母」は、教会や社会での目上の人をも含みますから、当然目上の人に従い、敬愛しなければなりません。

404 父母が子供に命令する権威と子供が父母に従う義務とは、どこからくるのですか。

父母が子供に命令する権威と子供が父母に従う義務とは、神からきます。神は家族を定め、人が心身の成長をとげるために必要な手段を与えるようお命じになりました。

405 父母には子供に対してどんな務めがありますか。

父母は子供を愛し、養育し、宗教および社会的教育を受けさせ、よい模範を示し、罪の危険から子供を遠ざけ、その欠点をただし、子供が神のお招きになる身分を受け入れることができるように助ける務めがあります。

406 神は完全な家族の模範をお示しになりましたか。

神は完全な家族の模範を聖家族の中にお示しになりました。イエズス・キリストは、三十才になるまで、すなわち永遠の父なる神がお与えになった福音宣教の使命に従事し始めるまで聖母マリアと聖ヨゼフに従って生活しておられました。

407 家族がそれぞれ離ればなれで生活していても、必要なものをすべて満たすことができますか。

家族がそれぞれ離ればなれで生活していれば、必要なものをすべて満たすことはできません。個々の家族の完成と幸福のために互いに助け合うことが必要です。そのため一致結束して社会を形成することが必要だったのです。

408 社会とは何ですか。

社会とは、多くの家族の結合体で、指導者の権威のもとに、相互の完成と福祉安寧を獲得するため助け合う集団のことです。

409 社会を統治する権威は、何に由来しますか。

社会を統治する権威は、究極的には神に由来するもので、神は共通善のため社会が形成されることを望んでおられるのです。

410 社会を統治する権威に従い、それを尊重しなければなりませんか。

社会の構成員は、みな統治する権威に従い、それを尊重する務めがあります。それは、この権威が究極的に神から来るだけでなく、共通善からみてもそうあるのが望ましいからなのです。

411 社会の権威が定める法には従わねばなりませんか。

神法に反しない限り、イエズス・キリストの命令と模範にならって、社会の権威が定める法にはすべて従わねばなりません。

412 社会の構成員は、法に従う義務のはかにどんな務めがありますか。

社会の構成員は、互いに協調して生活し、徳義にかなった平和で明るい社会を作り、公益の繁栄に協力しなければなりません。

Ⅱ  第五戒について

413 第五戒「なんじ、殺すなかれ」では何を禁じていますか。

第五戒「なんじ、殺すなかれ」では、他人のためであれ、自分のためであれ、殺人や傷害のように身体に危害を加えること、また同様に、言葉で人を傷つけたり、人の悪を望むことを禁じています。この戒めは自分自身を殺すこと、つまり自殺も禁止しています。

414 なぜ人を殺すことは重大な罪ですか。

人を殺す者は、神だけが持っておられる人間の生命に関する権利を不尊にも奪いとり、人間社会の安定秩序を破壌し、この世における最高の自然的善である生命を人から奪うからです。

415 人の生命を奪うことが正当な場合がありますか。

人の生命を奪うことが正当であるのは、正しい戦争で戦うとき、国家の命令により死刑を執行するとき、また不当な侵略者に対してやむを得ず正当防衛するときなどです。

416 第五戒では人の霊魂に害を与えることを禁じていますか。

神は、第五戒でつまずきによって人の霊魂をそこなうことを禁じておられます。

417 つまずきとは何ですか。

つまずきとは、人に罪を犯す機会を与えるようなあらゆることば、行ない、おこたりなどのことです。

418 つまずきは重大な罪ですか。

霊魂を破滅させることによって、神の最も偉大なわざであるあがないの御業を妨げ、人から身体より尊い恩恵の生命を奪い、霊魂を死に至らしめ、多くの罪の原因となりますから、つまずきは重大な罪です。それゆえ、神は、つまずきを与える人は厳しく罰せられるであろうと注意なさいました。

419 第五戒で神はなぜ自殺を禁じておられますか。

第五戒で神が自殺を禁じておられるのは、人間は自分の生命の主人ではないからです。その上、教会は、自殺者には教会埋葬を拒否します。

420 第五戒では決闘も禁じられていますか。

決闘は自殺や殺人と同じように悪ですから、第五戒では決闘も禁じられています。たとえ傍観者としてであっても、すゝんで参加すれば破門されます。

421 死の危険がない決闘も禁止されていますか。

死の危険がない決闘も禁止されています。自殺や殺人が禁じられているだけでなく、自分や人を故意に傷つけることも禁じられているからです。

422 自分の名誉を守るためであれば決闘は許されますか。

決闘によって恥辱が晴らされるというのは間違った考えであり、決闘のように、不正で、非理性的で、野蛮な行為では名誉を回復することなどできませんから、自分の名誉を守るためであっても決闘は許されません。

423 第五戒では何を命じていますか。

第五戒では、敵を許し、すべての人々の善を望むことを命じています。

424 人の身体や霊的な生命に危害をおよぼした人は、どうしなければなりませんか。

人に危害をおよぼした人は、告解をするだけでは充分ではありませんから、加えた害を補償し、教えた誤りを徹回し、よい模範を示し、おかした悪のつぐないをしなければなりません。

Ⅲ  第六戒と第九戒について。

425 第六戒「なんじ、かんいんするなかれ」では何を禁じていますか。

第六戒「なんじ、かんいんするなかれ」では、貞潔に反する行ないをしたり、見たり、話したりすることすべてと結婚の不忠実を禁じています。

426 第九戒では何を禁じていますか。

第九戒では、夫婦が結婚するに際して誓いあった忠実に反するあらゆる望みをはっきりと禁じています。また、第六戒で禁じられている行ないについて考えたり、望んだりすることも禁じています。

427 貞潔に反する罪は重大ですか。

貞潔に反する罪は、神と人の前に非常に重大で、いまわしい罪です。つまり、人間を動物と同じ状態にひき下げることになり、多くの罪や悪徳に誘い込み、この世と来世において最大の罰を受ける結果に追いやることになります。

428 自然に起こる貞潔に反する思いはすべて罪ですか。

自然に起こる貞潔に反する思いは、それ自体罪ではなく、誘惑、罪へのいざないです。

429 悪い思いが罪になるのはどんな時ですか。

悪い思いを持つ機会をすすんで作ったり、思いに同意したり、あるいは、同意してしまうような危険に身をさらすときには、たとえ行動に移さなくても罪となります。

430 第六戒と第九戒では何を命じていますか。

第六戒では、行ない、視線、ことば、ふるまいの上で貞潔で慎み深くあるように命じています。また第九戒では、内的に、つまり、心の中でも貞潔で、純潔であるように命じています。

431 幕六戒と第九戒を守るためにどうすべきですか。

第六戒と第九戒を守るために心をこめてしばしば神に祈り、いと潔き御母、聖マリアヘの信心を深め、神はつねに私たちを見ておられることを思いだし、死や神の罰、そして、イエズス・キリストの御受雉について考え、五感を憤しみ、犠牲を行ない、よい準備をして、しばしば秘跡にあずかるなどしなければなりません。

432 貞潔を守るために何を避けなければなりませんか。

貞潔を守るためには、怠惰、悪い交際、悪書、不節制、卑猥な書画、いかがわしい娯楽、危険な会話そのほか、罪の機会となるようなことをすべて避けなければなりません。

Ⅳ  第七戒について

433 第七戒「なんじ、盗むなかれ」では、何を禁じていますか。

第七戒「なんじ、盗むなかれ」では、他人の物を不正に取得したり、保持すること、また、他人の財産に損害を与えることを禁じています。

434 「盗む」とはどういう意味ですか。

「盗む」とは、所有者の意志に反して、所有権をもつ人から、その財産を不正にも取得することです。

435 なぜ盗みは禁じられていますか。

他人の所有物を、所有者の権利と意志を無視して取得したり、保持することによって、正義に反する罪をおかし、人に損害を与えることになるからです。

436 他人の財産とはどんなものを言いますか。

他人の財産とは、他人が所有権を持つか、使用しているか、あるいは蓄えとして保管することによって、その人の所有に帰せられるものすべてを言います。

437 他人の財産を不正に取得するとはどんな場合ですか。

窃盗と強盗による場合です。

438 どんな場合に窃盗となりますか。

ひとの財産を、こっそりと取ると窃盗になります。

439 強盗とはどんな場合のことですか。

強盗とは、暴力にうったえて、公然と、他人の財産を取ることです。

440 他人の財産を取得しても罪にならないのはどんな場合ですか。

所有者が財産を取られても悪く思わない場合や財産を与えるのを拒否することが正義にかなわない場合です。たとえば、非常に貧窮した状態にある人が、緊急に必要とするものを最低限度満たすために取る場合です。

441 他人の財産に損害を及ぼすのは窃盗と強盗だけでしょうか。

詐欺、高利貸のほか他人の財産に対する不正な行為はすべて他人の財産に損害を及ぼします。

442 詐欺とはどんな行為のことですか。

詐欺とは、商取引において、重量や寸法を偽ったり、偽せ金を使ったり、不良品で他人を偽ることや書類の偽造をすることなどです。要するに、売買取引または契約取引において、不正をなすこと、さらに、正当な額や約束した額を支払わないことです。

443 高利貸とはどんな行為ですか。

高利貸とは、借り手の困窮や無知を利用して、不正に法外な利息を強要することです。

444 他人の財産に対する不正行為としてほかにどんなものがありますか。

不正な手段によって他人のもちものを失なわせたり、所有物に損害を与えること、義務通りの働きをしないことや、支払うべき負債や給与をわぎと支払わないこと、他人の所有する動物を殺傷したり、委託された物品をだめにすること、他人が正当な利益を得ることを妨害することや盗人を幇助し、盗品を受け取ったり、隠匿したり買いとったりすることです。

445 窃盗は重大な罪ですか。

各人がそれぞれ自分の所有物に対してもつ権利を尊重しあうことは、個人、家族、社会の善のために非常に大切なことですから、窃盗の対象が重大なものであれば正義に反する重大な罪となります。

446 窃盗の対象が重大とされるのはどんな場合ですか。

重要なものを盗んだときはもちろんのこと、盗んだものがたとえわずかの価値しかないものでも、他人に大きな損失を与えるものであれば、重大とされます。

447 第七戒では何を命じていますか。

第七戒では、他人の財産を尊重し、使用人には正当な報酬を支払うことなど、他人の所有物に関するすべてのことについて正義にもとることのないように命じています。

448 第七戒に背いた人は告解するだけで充分ですか。

第七戒に背いた人は告解するだけでは充分ではなく、他人のものを返却し、損害を賠償するためにできる限りのことをしなければなりません。

449 損害賠償をするとはどんなことですか。

損害賠償をするとは、窃盗や不正義な行為が原因となって他人が失った利益、利潤を弁償することです。

450 盗品はだれに返さなければなりませんか。

盗まれた人に返しますが、万一死亡しているときはその相続人に返します。しかし、それさえできないときは、貧しい人たちや慈善事業のために使用しなければなりません。

451 高価なものを見つけたときやひろったときにはどうすべきですか。

早速、持ち主を捜し、返すよう務めるべきです。(なお日本では、ひろい物は警察に届ける事になっています。)

Ⅴ  第八戒について

452 第八戒「なんじ、偽証するなかれ」では何を禁じていますか。

第八戒「なんじ、偽証するなかれ」では、裁判で偽証することを禁じると共に、そしり、ざん言、追従、邪推のほかあらゆる種類のうそを禁じています。

453 そしりとは何ですか。

そしりとは、正当を理由なく、他人の欠点やあやまちを言い表わすことです。

454 ざんげんとは何ですか。

ざんげんとは、悪意から、無実の罪や欠点を他人におわせることです。

455 追従とは何ですか。

追従とは、何らかの利益を得る目的で、他人のことを心にもなくほめあげてだますこと、つまり、へつらうことです。

456 邪推とは何ですか。

邪推とは、十分な証拠がないのに、他人を悪く評価したり、罪があると信じることです。

457 うそとは何ですか。

うそとは、ことばや行ないで事実ではないことを事実であるということです。

458 うそにはどんを種類がありますか。

冗談のうそ、儀礼的なうそ、有害なうその三つがあります。

459 冗談のうそとは何ですか。

冗談のうそとは、他人に害を与えない、おもしろ半分、遊び半分のうそのことです。

460 儀礼的なうそとは何ですか。

儀礼的なうそとは、第三者に害を及ぼすことなく、自分または他人の利益のためにうそをつくことです。

461 有害なうそとは何ですか。

有害なうそとは、偽りであると知りながら、わざと事実でないことを事実であると言って、第三者に害を及ぼすうそのことです。

462 うそをつくことは場合によって正しいことですか。

うそをつくことは、たとえ冗談であっても、また自分や他人の利益のためであっても悪いことです。

463 うそをつくとどんな罪を犯しますか。

有害なうそは、それによって生じた害が重大であれば大罪となります。

464 思っていることを、いつも、すべて、口に出す必要がありますか。

いつも必要であるというわけではありません。特に知る権利を持たない人の質問に対して、答える必要はありません。

465 第八戒に反する罪を犯した人は、告解するだけで充分ですか。

第八戒に反する罪を犯した人は、告解をするだけでは充分ではなく、そしりやざん言すべてを徹回し、できる限りの方法で与えた損害を償わなければなりません。

466 第八戒では何を命じていますか。

第八戒では、必要な時と場所で真実を言うこと、および、他人の行ないはできる限り善意に解釈することを命じています。

Ⅵ  第十戒について

467 第十戒「なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ」では何を禁じていますか。

第十戒「なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ」では、他人の財産を剥奪したり、不止な手段を使って富を得たいという欲望を禁じています。

468 なぜ神は、他人の財産を望むことさえ禁じておられますか。

神が、他人の財産を見境いもなく望むことを禁じておられるのは、私たちが内的にも正しい人間となり、不正な行為から常に自分を守るように望んでおられるからです。

469 第十戒では何が命じられていますか。

第十戒では、私たちが神に与えられた境遇に満足するように、また神がお望みならば、貧窮した生活さえも忍耐強く忍んでゆくよう命じられています。

470 貧窮の中にあっても、満足していることができるにはどうすればよいのですか。

貧窮の中にあっても、満足していることができるためには、最大の幸福は、良心を清く、安らかに保つことであり、また私たちの本当の祖国は天国であること、さらに、イエズス・キリストは私たちへの愛のために貧しい生活をお送りになったこと、そして貧しさを素直に受け入れ、耐え忍ぶ者には特別の報いが約束されていることなどを考える必要があります。

第四章・教会の掟

Ⅰ  数会の掟一般

471 神の十戒のはかにどんな掟を守らねばなりませんか。

神の十戒のほかに、教会の掟を守らねばなりません。

472 教会に従う義務がありますか。

もちろん、教会に従う義務があります。これは、イエズス・キリスト御自身が命じられたことであり、また教会の掟は十戒を守るための助けとなるからです。

473 何才ぐらいから教会の掟に従う義務が生じますか。

数会の掟に従う義務は、通常、物事をわきまえる年令に達した時、つまり、特に定められていない限り、満七才になったときとされています。

474 教会の掟を破ると罪になりますか。

教会の重要な掟を意識的に破ると大罪となります。

475 教会の掟を免除できるのはだれですか。

教皇または教皇から権限を受けた者のみが教会の掟を免除することができます。

476 教会の主な掟にはどんなものがありますか。

教会の主な掟には次のようをものがあります。

① 日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかること。

② 少なくとも毎年一度告白すること。(また生命の危険なときや御聖体を拝領する前に大罪を告白すること。)

③ 少なくとも毎年一度、復活祭の頃、聖体を受けること。

④ 定められた日に大斎と小斎の務めを果すこと。

⑤ おのおのの分に応じて教会の維持費を負担すること。

Ⅱ  教会の第一の掟

477 教会の第一の掟「日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかること」では何を命じていますか。

教会の第一の掟「日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかること」では、毎日曜日と定められた守るべき祝日に信心をもってミサ聖祭にあずかること、つまり御ミサの始めから終りまで完全にあずかることを命じています。

478 日曜日と守るべき祝日には、どこのミサ聖祭に参加するよう勧められていますか。

日曜日と守るべき祝日には、できるだけ自分の小教区のミサ聖祭に参加するよう勧められています。

479 なぜ教会は信者が小教区のミサ聖祭にあずかるよう勧めるのですか。

教会が信者に小教区のミサ聖祭にあずかるよう勧めるのは、次のような理由からです。① 同じ小教区の信者がそのかしらである主任司祭と一緒に祈ることができるため、② 主に小教区の信者のためにささげられるミサ聖祭にあずかることができるため、③ 主任司祭に義務づけられている福音の真理の説明をきくため、④ ミサ聖祭において伝えられる知らせを聞くためなどです。

480 「主日」とはどういう意味ですか。

「主日」とは、私たちの主の日、つまり、特に神を礼拝するためにささげられた日のことです。

481 なぜ教会の第一の掟の中で特に日曜日について述べているのですか。

教会の第一の掟の中で特に日曜日について述べているのは、ユダヤ教徒にとって土曜日が主な祭日であったように、キリスト信者にとっては日曜日が神のお定めになった主な祭日であるからです。

482 教会はほかにどんな祝日を定めましたか。

教会は、ほかにも、主キリストの祭日と聖母マリア、天使、聖人たちの祝日を定めました。日曜日以外に守るべき祝日はいろいろありますが、日本ではイエズス・キリストの御降誕祭以外の祝日を次の日曜日に祝うことになっています。なお、聖母の被昇天、諸聖人の祭日は、それぞれ八月十五日と十一月一日に「祭日」として祝います。

483 なぜ教会は日曜以外にも主の祭日を定めたのですか。

教会が日曜以外にも主の祭日を定めたのは、神の奥義を記念するためなのです。

484 なぜ聖母マリアや天使、それに聖人たちの祝日を定めたのですか。

聖母マリアや天使、それに聖人たちの祝日を定めたのは、① 神がかれらにお与えになった恩恵を記念し、それほどまで思慮をお恵みになった神の慈悲に感謝するため、② かれらを崇敬し、その模範にならうため、またかれらが祈りを通じて私たちに肋けの手をさしのべて下さるように願うためです。

Ⅲ  教会の第二の掟

485 教会は第二の掟「少なくとも毎年一度大罪を告白すること」では何が命じられていますか。

教会の第二の掟「少なくとも毎年一度大罪を告白すること」では、物事をわきまえる年令に達したすべての信者は少なくとも毎年一度大罪を告白するため告解の秘跡にあずかることが義務づけられています。

486 少なくとも毎年一度告解するようにというこの掟を守るのに最もふさわしい時期はいつですか。

教会が認めた習慣に従って、四旬節がこの掟を守るのに最もふさわしい時期と考えられています。

487 なぜ教会は「少なくとも」毎年一度と言うのですか。

「少なくとも」と言うのは、告解の秘跡にもっとひんぱんにあずかるのが望ましいという意味です。

488 なぜしばしば告解することが望ましいのですか。

しばしば告解するのは非常に良いことです。それはあまり告解しない人にとっては、よい告解をすることも、大罪のない状態を保つことも、大層困難なことであるからです。

489 「生命の危うくなった時」にも告解が必要であるのはなぜですか。

「生命が危うくなった時」にも告解が必要なのは、霊魂の救いはよい死をとげるかどうかにかかっており、よい告解をすればよい死をとげることにつながるからです。

490 「御聖体を受ける時」も、と言うのはなぜですか。

「御聖体を受ける時」も、と言うのは、御聖体は恩恵の状態にいないと拝領できないだけでなく、大罪をもつ者は告解することによってのみ恩恵の状態にもどることができるのであって、完全な痛悔だけでは充分ではないからです。

Ⅳ  教会の第三の掟

491 教会は、第三の掟「少なくとも毎年復活祭のころ御聖体を受けること」では何を命じていますか。

教会は第三の掟「少なくとも毎年復活祭のころ御聖体を受けること」で、物事の分別のつく年令に達したすべての信者に、毎年復活祭のころ御聖体を拝領することを義務づけ、とくに自分の小教区でその義務を果すよう勧めています。もし他の場所で御聖体を受けたときは主任司祭に知らせることになっています。(なお、復活祭のころに聖体を拝領すべき期間は、日本では四旬節のはじめから三位一体の祝日すなわち聖霊降臨後の第一の主日までです。)

492 復活祭期間のほかいつ御聖体を受ける義務がありますか。

生命が危うい時も臨終の聖体拝領という形で御聖体を拝領しなければなりません。

493 復活祭の頃と生命の危ない時にだけ御聖体を拝領すればよいのですか。

掟から言えばそれでよいのですが、教会は復活祭の頃だけでなく、できるだけひんぱんに霊魂の糧である御聖体を拝領するよう望んでいます。

494 教会の第二と第三の掟は汚聖の告解や御聖体拝領であっても果すことができますか。

汚聖の告解や聖体拝領をする者は、教会の第二と第三の掟を果すことはできません。教会が願うのは、本来定められた目的、つまり私たちの聖化のために秘跡にあずかることだからです。

Ⅴ  教会の第四の掟

495 教会は、第四の捷「定められた日に大斎と小斎の務めを果すこと」では何を命じていますか。

教会は第四の掟「淀められた日に大斎と小斎の務めを果すこと」で、灰の水曜日と聖金曜日に大斎と小斎を、毎金曜日に小斎の務めを果すことを命じています。

496 大斎とは何ですか。

大斎とは一日のうち一回だけ十分な食事をすることですが、そのほか朝はごく少量、他の一食は普通の半分ぐらいの食事が許されています。

497 大斎の効果は何ですか。

大斎には祈りのために心の準備をし、犯した罪をつぐない、再び罪を犯すことのないようにする効果があります。

498 大斎の務めを果さなければならないのはどんな信者ですか。

大斎の務めを果さなければならないのは、満二十一才から満五十九才までの信者ですが、正式に免除を受けている人やさまたげのある人を除きます。

499 大斎の義務のない人は犠牲をささげることも免じられていますか。

信者みなに償いをする義務がありますから、大斎の務めのない人も犠牲をささげなければなりません。

500 小斎の務めとは何ですか。

小斎とは、主の御受難と御死去を記念するため、定められた日に鳥獣の肉をひかえることで、満十四才以上の信者はみなこの務めを果さなければなりません。

501 そのほか四旬節中に犠牲をささげ、償いをするよう勧められているのはなぜですか。

四旬節が定められたのは、イエズス・キリストが荒野でお過しになった四十日間の断食の生活をまね、罪の痛悔をして聖なる仕方で復活祭を迎える準備をするためですから、四旬節中には犠牲をささげ、償いをするよう勧められています。

502 四季の大斎を定めたのはなぜですか。

四季の大斎を定めたのは、償いをして四季を祝い、神に収穫の感謝をし、教会によい司祭を送って下さるよう願うためです。

503 以上の掟はどこの国でも同じですか。

日本では第四の掟で「定めた日に償いの務めを果すこと」と命じています。すなわち、① 灰の水曜日とキリストの受難と死を記念する聖金曜日に大斎・小斎を守ること、② 毎週の金曜日に、克己、犠牲、あるいは積極的に他人への愛徳を実践し、または特別な信心を行なうなどの償いのわざをすることとなっています。

Ⅵ  教会の第五の掟

504 教会の第五の掟「おのおのの分に応じて教会の維持費を負担すること」はどのようにして守ることができますか。

教会の第五の掟「おのおのの分に応じて教会の維持費を負担すること」を守るためには、神がすべてのものを治める御方であることを自覚し、神の司祭たちが身分相応の品位を保つことができるように、教会の維持費を負担し、種々の奉仕をしなければなりません。

505 維持費はどのようにして納めますか。

それぞれ事情に応じて自分にふさわしい額および方法で納めればよく、通常、決った額を一定期間中におさめる上に、ミサ聖祭の献金、その他の目的の献金をすることによってこの務めを果します。

Ⅶ  その他

506 待降節と四旬節中には盛儀の婚姻の式を挙げないようにというのはどんな意味ですか。

待降節と四旬節中に婚姻そのものを禁じているのではなく、盛儀の婚姻をさけるようにという意味です。

507 なぜ盛儀の婚姻は待降節や四旬範にふさわしくないのでしょうか。

盛儀の婚姻が待降節と四旬節に適しないのは、この期間は特に償いと祈りにささげられるべきだからです。

508 なぜ教会はある種の本を読むことを禁じていますか。

教会が異端者、離教者、あるいはキリスト教の基礎を破壊する考えを支持する読書を禁じるのは、この種の本は信者を重大な危険にさらすからです。卑猥な書物も自然法から当然禁じられています。

第五章・身分に応じた義務と福音的勧告

Ⅰ  身分に応じた義務

509 身分に応じた義務とは何ですか。

身分に応じた義務とは、各人がそれぞれの身分、条件、仕事に応じて持っている固有な義務のことです。

510 各人が身分に応じて負う義務は、だれによって定められましたか。

各人が身分に応じて負う義務は、神御自身によって定められたもので、これらの義務は、神の掟から生じます。

511 各人の持つ固有の義務が神の戒めから生ずることを例をあげて説明して下さい。

第四戒では、父母を敬うことが命じられていますが父母とは同時に目上の人たちをも示します。従って、この戒めから目下の者が目上の者に対して、服従、愛、尊敬などの態度を示す義務が生じ、また、目上の者は目下の者を正しく指導する義務が生じます。

512 職人、商人、財産の管理者などが有する義務はどの戒めから生じますか。

これらの人々が有する忠節、正義、誠実、公正などの義務は、詐欺、不正義、怠慢、不誠実などを禁じている第八・第十戒から生じます。

513 神に自己を奉献する人々の義務は、どの戒めから生じますか。

神に自己を奉献する人々の義務は、神に対してなされた約束、誓願を果すことを命じる第二戒より生じます。なぜなら、この人々は、福音的勧告の全てあるいは一部を守ることを誓ったからです。

Ⅱ  福音的勧告

514 福音的勧告とは何ですか。

福音的勧告とは、キリスト教的完徳に達するための手段として、イエズス・キリストが福音書にお示しになった事柄です。

515 福音的勧告にはどのようなものがありますか。

福音のすすめはたくさんありますが、伝統的に、清貧、貞潔、罪でない限りすべてにおける従順を福音的勧告と呼び、修道生活の中心としています。

516 福音的勧告にはどのような働きがありますか。

福音的勧告には、神の掟を守るための大きを助けとなり、より確実に永遠の救いを得ることができるようにする働きがあります。

517 なぜ福音的勧告が神の捷を守るために大きな助けとなりますか。

福音的勧告に従えば、神の掟を守るために大きな助けとなるのは、福音的勧告が富、快楽、名誉などの欲から私たちを引き離し、罪の道に入り込まないようにするからです。

秘跡について

第一章 秘跡一般

Ⅰ  秘跡の本質

518 第四部では何をとりあげますか。

公教要理の第四部では秘跡をとりあげます。

519 秘跡とは何ですか。

秘跡とは、イエズス・キリストが霊魂の聖化のためにお定めになったもので、超自然の恩恵を示し、それを与える「印」のことです。

520 なぜ、秘跡は超自然の恩恵を示し、それを与える「印」だと言われますか。

秘跡が超自然の恩恵を示し、それを与える印だと言われるのは、秘跡はすべて、五感でわかるものを通じて与えられる神の恩恵を意味するからです。

521 秘跡が恩恵を示し、それを与える五感でわかる印であることを例をあげて説明して下さい。

洗礼において受洗者の額に水を注ぐことと、「某・われ父と子と聖霊の御名によりてなんじを洗す」と言う言葉とは、霊魂内に実現する洗礼の効果の五感でわかる印です。すなわち、水が体を清めるように、洗礼の恩恵が霊魂の罪を洗い清めるのです。

522 秘跡はいくつありますか。

秘跡には、洗礼、堅信、聖体、告解、病者の塗油、叙階、婚姻の七つがあります。

523 秘跡が成立するには何が必要ですか。

秘跡には質料と形相、秘跡の授与者と受領者が必要です。授与者は教会のすることをしようという意志を持っていなければなりません。

524 秘跡の質料とは何ですか。

秘跡の質料とは、洗礼での自然水、堅信での聖香油と香などのように秘跡に使われる感覚でとらえることのできる物のことです。

526 秘跡の形相とは何ですか。

秘跡の形相とは秘跡をとり行なう時にいう言葉です。

527 秘跡の授与者とはだれですか。

秘跡の授与者とは秘跡を司り、或は授ける人です。

Ⅱ  秘跡の主な効果である恩恵

527 恩恵とは何ですか。

恩恵とは、人の救いのために神が下さる超自然の賜物で、私たちには受けるねうちはないのですが、イエズス・キリストの御功徳によって与えられるものです。

528 神の恩恵にはどのようなものがありますか。

神の恩恵には、成聖の恩恵と助力の恩恵との二通りがあります。

529 成聖の恩恵とは何ですか。

成聖の恩恵とは、人を義化し、神の愛子とし、天国に入る権利を与える超自然の賜物で、霊魂に注がれます。

530 成聖の恩恵には何通りありますか。

成聖の恩恵には第一と第二の二通りあります。

531 第一の恩恵とは何ですか。

第一の恩恵とは大罪の状態から成聖の恩恵の状態に変える恩恵です。

532 第二の恩恵とは何ですか。

第二の恩恵とは第一の恩恵をさらに増す恩恵です。

533 助力の恩恵とは何ですか。

助力の恩恵とは、善を行なわせ、悪をさけさせるために、人の知恵を照らし、意志を動かし、強める超自然の助けです。

534 神の恩恵を拒むことができますか。

神は人に自由意志をお与えになりましたから、人は神の恩恵を拒むことができます。

535 自分の力だけで永遠の生命を得ることができますか。

神の恩恵の助けがなければ、自分の力だけで永遠の生命を得ることはできません。

536 神はどのような方法で恩恵を与えて下さいますか。

神は主に秘跡を通して恩恵を与えて下さいます。

537 秘跡によって与えられるのは成聖の恩恵だけですか。

秘跡によって成聖の恩恵のほかにそれぞれの秘跡に固有な助力の恩恵も与えられます。

538 秘跡に固有な恩恵とは何ですか。

秘跡に固有な恩恵とは、秘跡を受けるにあたって生じた義務を果すのに心要な恩恵を与える保証です。例えば、洗礼を受けた人はキリスト信者にふさわしい生き方ができるための恩恵を得ることができるのです。

539 秘跡を受けても、恩恵の得られない場合がありますか。

秘跡を受けても、心に妨げのある場合には、恩恵を得ることはできません。

540 秘跡に恩恵を与える力を授けたのはどなたですか。

イエズス・キリストが、その御受難と御死去によって、秘跡に恩恵を与える力をお授けになりました。

541 第一の成聖の恩恵を与える秘跡はどれですか。

第一の成聖の恩恵を与え、忠実な神の子とする秘跡は、洗礼と告解です。

542 この二つの秘跡は何と呼ばれますか。

洗礼と告解の秘跡は、罪によって死んだ霊魂に再び恩恵の生命を吹きこむために主がお定めになったものですから死者の秘跡と呼ばれます。

543 すでに恩恵の状態にある人にさらに豊かに恩恵を与える秘跡はどれですか。

すでに恩恵の状態にある人にさらに豊かに恩恵を与えるのは残りの五つの秘跡、つまり、堅信、聖体、病者の塗油、叙階、婚姻で、この五つは、第二の成聖の恩恵を与えます。

544 これら五つの秘跡は何と呼ばれますか。

堅信、聖体、病者の塗油、叙階、婚姻の五秘跡は、大罪のない人、つまり成聖の恩恵をもつ人が受ける秘跡ですから、生ける者の秘跡と呼ばれます。

545 恩恵の状態にないと知りつつ生ける者の秘跡を受ける人は、どんな罪を犯しますか。

恩恵の状態にないと知りつつ生ける者の秘跡を受ける人は、汚聖の大罪を犯します。

546 救いのために最も必要な秘跡はどれですか。

救いのために最も必要を秘跡は、洗礼と告解の二つです。洗礼はすべての人に必要で、告解は、洗礼後大罪を犯したすべての人に必要だからです。

547 秘跡のうち最も崇高な秘跡はどれですか。

秘跡のうち最も崇高なのは聖体の秘跡です。なぜなら、御聖体は恩恵だけでなく、恩恵と秘跡の主であるイエズス・キリスト御自身を含んでいるからです。

Ⅲ  印章について

548 一生に一度だけしか受けられない秘跡はどれですか。

一生に一度だけしか受けられない秘跡は、洗礼、堅信、叙階の三つです。

549 なぜ、洗礼、堅信、叙階の三秘跡は一生に一度だけしか受けることができないのですか。

洗礼、堅信、叙階の三秘跡を一生に一度だけしか受けられないのは、この二つは「印章」を刻み付けるからです。

550 洗礼、堅信、叙階の各々が霊魂に刻み付ける「印章」とは何ですか。

洗礼、堅信、叙階の各々が霊魂に刻み付ける「印章」とは、絶対に消えることのない霊的なしるしのことです。

551 これら三つの秘跡が霊魂に刻み付ける「印章」の働きは何ですか。

これら三つの秘跡が霊魂に刻み付ける「印章」は、他のものから区別する徴章の働きをします。すなわち、洗礼によってイエズス・キリストの教会の一員となり、堅信によってキリストの兵士となり、さらに叙階によってキリストの聖務者とをるのです。

第二章・洗礼

Ⅰ  洗礼の本質と効果

552 洗礼の秘跡とは何ですか。

洗礼とは、人が神の恩恵のうちに新たに生まれ、キリスト信者となる秘跡です。

553 洗礼の秘跡の効果は何ですか。

洗礼の秘跡によって、第一の成聖の恩恵を受け、原罪と自罪およびその罰が完全に赦され、キリスト信者としての「印章」を刻み付けられて神の子、教会の一員となり、天国に入る権利と、他の秘跡にあずかる権利を受けます。

554 洗礼の秘跡の質料とは何ですか。

洗礼の秘跡の質料とは、受洗者の額にそそがれる自然水のことで、少し流れる程度の量が必要です。

555 洗礼の秘跡の形相とは何ですか。

洗礼の秘跡の形相とは、次のことばのことです。「某、われ、父と子と聖霊との御名によりて、なんじを洗す」。

Ⅱ  洗礼の授与者

556 洗礼の秘跡を授けるのはだれですか。

洗礼の秘跡を授ける権能は、司教と主任司祭にあります。しかし、緊急の場合には、男女を問わず、また、異端者や未信者であっても、洗礼の儀式に従い、教会が行なうことをする意向があれば、だれでも洗礼を授けることができます。

557 生命の危ない人に洗礼を授ける必要があり、その場にたくさんの人がいるとき、そのうちのだれが洗礼を授けるべきでしょうか。

生命の危ない人に洗礼を授ける必要があり、その場にたくさんの人がいるとき、司祭がいるなら司祭が洗礼を授けるべきです。しかし、司祭が不在の場合は、下級の聖職者がこの任にあたります。聖職者が居ないときは、男子信徒が望ましいのですが、事情のあるときは、この限りではありません。

558 洗礼を授ける人はどのような意向を持たねばなりませんか。

洗礼を授ける人は、洗礼に際して、教会が行なうことをしようという意向を持たなければなりません。

Ⅲ  洗礼の儀式と成人の受洗者の心構え

559 洗礼を授ける人はどうしなければなりませんか。

洗礼を授ける人は、受洗者の額、不可能なときは、身体の他の部分に水を注ぎながら、「某、われ、父と子と聖霊との御名によりてなんじを洗す」と唱えなければなりません。

560 一人が水を注ぎ、別の人がことばを言った場合、洗礼を授けたことになりますか。

水を注ぐ人とことばを言う人とは同一人物でなければなりませんから、一人が水を注ぎ、別の人がことばを言った場合は洗礼を授けたことにはなりません。

561 生死がはっきりしないとき洗礼をひかえるべきですか。

生死がはっきりとしないときは、「なんじ、もしまだ生きているなら、われ父と子と聖霊との御名によりてなんじを洗す」と言って、条件付きで洗礼を授けなければなりません。

562 いつ子供に洗礼を受けさせるべきですか。

子供には一日も早く洗礼を受けさせるべきです。

563 なぜそんなに急いで子供に洗礼を受けさせなければなりませんか。

子供に急いで洗礼を受けさせなければならないのは、子供は幼いため死ぬ危険も多く、もし洗礼を受けずに死ねば、救われないからです。

564 怠慢によって洗礼を受けさせないまま、子供を死なせたり、洗礼を遅らせたりする親は罪を犯しますか。

怠慢によって洗礼を受けさせないまま、子供を死なせた親は、子供から永遠の命を奪うことになりますから大罪を犯します。また、洗礼を遅らせることも、子供が受洗せずに死ぬ危険にさらすことになり、大罪を犯すことになります。

565 成人が洗礼を受けるときにはどんな心構えを持たなければなりませんか。

成人が洗礼を受けるときには、信仰はもちろんのこと、洗礼を受ける意向とそれまでに犯した大罪を不完全であっても痛悔し、キリスト教の教えを充分に勉強していなければなりません。

566 成人が大罪をもったままで罪を痛梅せずに洗礼を受ければどうなりますか。

成人が大罪をもったままで罪を痛悔せずに洗礼を受けると、洗礼の「印章」は受けますが、罪のゆるしも成聖の恩恵も受けません。完全な痛悔をするか、告解の秘跡を受けて、この障害を取り除かない限り、洗礼の効果を得ることはできません。

Ⅳ  洗礼の必要性と受洗老の義務

567 洗礼は救いを得るのに必要ですか。

洗礼は救いを得るのに絶対に必要です。主は「人は水と霊とから新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」とはっきり仰せになりました。

568 洗礼を受けていないとき、何かで補うことはできますか。

洗礼を受けていないとき、これを補うことのできるのは、「血の洗礼」と呼ばれる殉教か、あるいは、神への完全な愛か完全な痛悔の心を持ち、同時に洗礼を受けたいという望みを持つこと、つまり「望みの洗礼」です。

569 受洗者にはどんな義務がありますか。

受洗者には、信仰をあらわし、イエズス・キリストと教会の掟を守る義務があります。

570 洗礼を受けるとき何を捨てなければなりませんか。

洗礼を受けるとき、悪魔と、そのしわざと、その栄華を捨てなければなりません。

571 悪魔のしわざと、その栄華とは何ですか。

悪魔のしわぎと、その栄華とは、聖福音書の教えに反する罪や現世的な教えのことです。

Ⅴ  霊名と代父母

572 なぜ受洗者は聖人の名をいただきますか。

受洗者が聖人の名をいただくのは、天国の聖人の保護を願い、その模範に従ってキリスト教的生活に励むためです。

573 洗礼の代父や代母とはだれですか。

洗礼の代父や代母とは、教会のきまりに従い子供を洗礼盤に近づけ、子供のかわりに返事をし、特に実の親のないとき、子供にキリスト教的教育を与えることを神に保証する人のことです。

574 私たちのかわりに代父母がした約束や決意を守る義務は私たちにありますか。

私たちのかわりに代父母がした約束や決意を守る義務は私たちにあります。それは神がこのような条件をつけて私たちを恩恵の状態に呼んで下さったからです。

575 どんな人を代父母に選ぶべきですか。

代父母には、カトリック信者で、正しい生活をし、教会の掟を守る人を選ばなければなりません。

576 代父母にはどんな義務がありますか。

代父母は、よい模範を示して、受洗者が信仰の真理をよく知り、よきキリスト信者として生きるように助ける義務があります。

577 受洗者とその代父母との間には、どんな関係が生まれますか。

受洗者と代父母との間には、霊的を親族関係が生まれます。この関係は両者の間での婚姻の禁止障害になります。

第三章・堅信

578 堅信の秘跡とは何ですか。

堅信とは、聖霊を授け、霊魂にイエズス・キリストの兵士としての印章を刻み付け完全なキリスト信者にする秘跡です。

579 どうして堅信によって完全なキリスト信者になるのですか。

堅信によって完全をキリスト信者になるのは、信仰がかためられ、洗礼において受けた徳と賜物を一層ゆたかに授けられるからで、堅信という名称もそこに由来します。

580 堅信において受ける聖霊の賜物とは何ですか。

堅信において受ける聖霊の賜物とは、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏。

581 この秘跡の質料は何ですか。

この秘跡の質料は、司教による接手と受ける人の額にする聖香油の塗油です。

582 聖香油とは何ですか。

聖香油とは、司教が聖木曜口に香(バルサム)を混ぜて聖別した油のことです。

583 この秘跡に用いられる油と香は何を示しますか。

この秘跡で注がれる油は、聖霊の恩恵がゆたかに注がれ、信仰をかためることを示します。一方、香り高く、腐敗することのない香は、堅信を受けた人が、恩恵に強められ、キリスト教的な徳の香りを放ち、悪徳による腐敗から逃れることを示します。

584 堅信の形相は何ですか。

堅信の形相は、「たまものである聖霊のしるしを受けなさい」ということばです。

585 堅信の秘跡を授けるのはだれですか。

本来、堅信の秘跡を授けるのは司教ですが、特別の場合には、司祭もこれを授けることができます。

586 どのようにして堅信の秘跡を授けますか。

堅信は、それを授ける人が受ける人の上に手をおき、額に聖香油を塗りながら、形相のことばを唱えます。

587 なぜ額に塗油しますか。

額は恐れと恥しさのしるしのあらわれる部分ですから、額に塗油するのは、堅信を受ける人がキリスト信者の名と身分を恥じないだけでなく、信仰の敵を恐れることがないようにという意味です。

588 以前には、堅信を受ける人の頬を軽く打っていたのはなぜですか。

堅信を受ける人の頬を軽く打っていたのは、イエズス・キリストヘの信仰のために受ける屈辱や労苦をおおしく耐え忍ぶべきことを教えるためでした。

589 信者はみな堅信の秘跡を受けなければなりませんか。

信者はみな堅信の秘跡を受けなければなりません。また、目下の人にも受けさせるようにしなければなりません。

590 堅信の秘跡は何才のとき受けるのが望ましいですか。

堅信の秘跡は七才ぐらいのとき受けるのが望ましいでしょう。それは七才ぐらいになれば、誘惑を感じ始めるのが普通である上に、秘跡の与える恩恵についても充分自覚でき、秘跡を受けたことをあとになっても憶えていることができるからです。

591 日本では何才頃授ける習慣になっていますか。

日本でも、物事をわきまえる年令になってから授けられますが、成人の場合は、受洗後、機会のあるときに受けることになっています。

592 堅信を受けるにはどのような準備が必要ですか。

聖信を受けるには、成聖の恩恵をもち、信仰の主要な奥義をよく学び、尊敬と信仰心をもつ必要があります。

593 堅信を二度受けると罪になりますか。

堅信は霊魂に印章を刻み付ける秘跡の一つですから、一度だけしか受けることはできません。二度受ければ汚聖の罪を犯すことになります。

594 堅信で受けた恩憲を保つために何をすべきですか。

堅信で受けた恩恵を保つためには、祈りの精神を持ち、善業を行ない、世間体を気にせずにイエズス・キリストの掟に従わなければなりません。

595 なぜ堅信にも代父母がありますか。

それは、代父母がことばと模範によって、堅信を受ける人に救いの道を歩ませ、霊的な闘いにおいても助けるためです。

596 代父母になる条件は何ですか。

代父母は、役目にふさわしい年令に達している堅信を受けたカトリック信者で、キリストの教えを知り、キリスト教的な模範的な生括を送る人でなければなりません。

597 代父母と堅信を受ける人との間に親族関係が生まれますか。

代父母と堅信を受ける人との間には、霊的な親族関係が生まれますが、婚姻の障害にはなりません。

第四章・御聖体

Ⅰ  御聖体の秘跡の本質とイエズス・キリストの現存

598 御聖体の秘跡とは何ですか。

御聖体とは、パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御神性が、真実に、実体的に、実際にまします秘跡で、私たちの霊的な糧となるものです。

599 この地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に現存しておられますか。

地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に実際に現存しておられます。

600 なぜイエズス・キリストが実際に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じますか。

イエズス・キリストが実際に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じるのは、イエズス・キリスト御自身がおおせになり、聖なる教会もそのように教えているからです。

601 御聖体の秘跡の質料は何ですか。

御聖体の秘跡の質料は、イエズス・キリストがお使いになったのと同じもの、すなわち小麦から作ったパンとぶどう酒です。

602 御聖体の秘跡の形相は何ですか。

御聖体の秘跡の形相は、イエズス・キリストがおおせになられたこと、すなわち、「これは私の体である」と「これは私の血である」ということばです。

603 聖変化の前のホスチアは何ですか。

聖変化の前のホスチアは単なるパンです。

604 聖変化のあとのホスチアは何ですか。

聖変化のあとのホスチアは、パンの外観のもとにまします主イエズス・キリストのまことの御体です。

605 聖変化の前のカリス(聖杯)の中味は何ですか。

聖変化の前のカリス(聖杯)には、ぶどう酒と数滴の水が入っています。

606 聖変化のあとのカリスには何が入っていますか。

聖変化のあとのカリスには、ぶどう酒の外観のもとにまします主イエズス・キリストの御血が入っています。

607 パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのはいつですか。

パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのは、司祭がミサ聖祭において聖変化のことばを唱えた瞬間です。

608 聖変化とは何ですか。

聖変化とは、イエズス・キリストが最後の晩餐のとき、「これは私の体である」、「これは私の血である」とおおせになり、パンとぶどう酒をそれぞれ尊い御体と御血に奇跡的に変えられたことを司祭を通して再現することです。

609 パンとぷどう酒がイエズス・キリストの御体と御血に奇跡的に変化することを教会は何と呼びますか。

毎日祭壇で行なわれるこの奇跡的な変化を教会は、全実体変化と呼びます。

610 聖変化のことばにこれはどの力をお与えになったのはどなたですか。

聖変化のことばにこれほどの力をお与えになったのは、全能の神であるイエズス・キリスト御自身です。

611 聖変化のあとにもパンとぶどう酒が残っていますか。

聖変化のあとには、パンとぶどう酒の外観しか残っていません。

612 パンとぶどう酒との外観とは何ですか。

パンとぶどう酒との外観とは、形・色・味など五感によって感じられるものをさします。

613 どうしてパンとぷどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのですか。

パンとぶどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのはすべて全能の神の御力によるのです。

614 パンの外観のもとにはイエズス・キリストの御体のみ、そしてぶどう酒の外観のもとにはイエズス・キリストの御血のみが現存しますか。

主イエズス・キリストは、パンとぶどう酒とのいずれの外観のもとにも、御体・御血・御霊魂・御神性をもって現存しておられます。

615 なぜホスチアにも、カリスの中にも、イエズス・キリスト全体が現存しておられるのですか。

ホスチアにも、カリスにもイエズス・キリスト全体がおられるのは御聖体のイエズス・キリストは、天国におけると同じように、生きておられ不死だからです。そのために、御体のいますところには、御血・御霊魂・御神性が共に、また、御血のいますところには、御体・御霊魂・御神性がともにおられます。イエズス・キリストにおいてはつねに御体・御血・御霊魂・御神性が共においでになります。

616 イエズス・キリストがホスチアに現存しておられるとき、天国にはおいでになりませんか。

イエズス・キリストはホスチアに現存しておられても、同時に天国にもおいでになります。

617 イエズス・キリストは、世界中で聖変化されたすべてのホスチアにおいでになりますか。

イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアにおいでになります。

618 なぜイエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのですか。

全能の神に不可能なことはありません。この全能の力でイエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのです。

619 ホスチアをさくとき、イエズス・キリストの御体もさかれますか。

ホスチアをさくとき、その外観が割れるだけで、イエズス・キリストの御体はさかれません。

620 さいたホスチアのどの部分にイエズス・キリストがおられますか。

イエズス・キリストの御体全体は、さいたホスチアのどの部分にもおいでになります。

621 イエズス・キリストは、大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも同じようにおられますか。

大きをホスチアにも、ホスチアの一片にも、同じイエズス・キリストがおられます。

622 なぜ教会の中に御聖体を安置しますか。

教会の中に御聖体を安置するのは、信者が礼拝し、必要なときに病人に授けることができるためです。

623 御聖体を崇拝しなければなりませんか。

御聖体には、主イエズス・キリスト御自身が、真実に、実体的に、実際にましますから、崇拝しなければなりません。

Ⅱ  御聖体の秘跡の制定と効果

624 イエズス・キリストはいつ御聖体の秘跡を制定なさいましたか。

イエズス・キリストは、御受難の前夜、最後の晩餐のときに、御聖体の秘跡を制定なさいました。

625 なぜ御聖体の秘跡をお定めになりましたか。

イエズス・キリストが御聖体の秘跡をお定めになった主な目的は次の三つです。

① 新約の犠牲となるため、

② 信者の霊魂の糧となるため、

③ 御受難と御死去を永遠に記念し、主の私たちへの愛と永遠の生命のすばらしい保証となるためです。

626 なぜイエズス・キリストはこの秘跡をパンとぶどう酒との外観のもとにお定めになりましたか。

イエズス・キリストがこの秘跡をパンとぶどう酒との外観のもとにお定めになったのは、御聖体は霊的な糧となるはずであり、そのためには、食物と飲物という形で与えられるのがふさわしかったからです。

627 御聖体の効果は何ですか。

御聖体をふさわしく受ける人には次のようを効果があります。

① 食物が身体を維持し成長させるように、御聖体は、霊魂の生命、すなわち恩恵を保ち、増します。

② 小罪をゆるし、大罪を防ぎます。

③ 霊的ななぐさめを与えます。

628 ほかにも御聖体の効果がありますか。

御聖体には、このほかにも次のような効果があります。

① 私欲、特に情欲を抑え、

② 神と隣人への愛を増し、イエズス・キリストのお望みに従えるように助け、

③ 天国の栄光と肉体の復活の保証となります。

Ⅲ  聖体拝領の準備

629 御聖体の秘跡は、いつもそのすばらしい効果をもたらしますか。

御聖体の秘跡は、しかるべき準備をして受けるかぎり、そのすばらしい効果をもたらします。

630 よい聖体拝領をするにはどんな準備が必要ですか。

よい聖体拝領をするには、次の準備が必要です。

① 成聖の恩恵をもち、

② 教会が定めた断食を守り、

③ 何を拝領するかをよく自覚し、信仰をもって御聖体を受けることです。

631 成聖の恩恵をもつとはどんなことですか。

成聖の恩恵をもつとは、大罪をもたず、清く純粋な状態にあることです。

632 大罪を犯した人は聖体拝領の前に何をすべきですか。

大罪を犯した人は、聖体拝領の前によい告解をしなければなりません。完全な痛悔をしても告解の秘跡を受けない限り、御聖体を拝領するにはふさわしくないからです。

633 大罪を犯した人が聖体拝領をするためには、なぜ完全な痛悔だけでは充分でないのですか。

この秘跡に最高の崇敬を払うために、大罪を犯している人は告解してからでなければこの秘跡にあずかることはできないと教会が定めたからです。

634 大罪を犯したまま聖体拝領をする人はイエズス・キリストを受けることができますか。

大罪を犯したまま聖体拝領をする人もイエズス・キリストを受けますが、その恩恵を受けることはできません。そればかりか、汚聖の罪を犯し、永遠の罰に価する者となります。

635 御聖体拝領前の断食とは何ですか。

御聖体拝領の前には次のような断食を守らねばなりません。固形物ならびに水以外の流動物は、御聖体拝領の一時間前からとらないこと、ただし水はいつでも飲むことができます。また病人は医薬であれば固形、液体をとわず、またアルコール以外の飲物もいつでも必要なだけとることができます。

636 旅路の糧とは何ですか。

旅路の糧とは、生命の危うい病人に与えられる御聖体のことで、この世から永遠の生命に至る旅のかてとなるので、こう呼ばれます。

637 「何を拝領するのかよく自覚する」とはどういう意味ですか。

「何を拝領するのかよく自覚する」とは、この秘跡に関するカトリックの教えをよく知り、固く信じることです。

638 「信仰をもって御聖体を拝領する」とはどういう意味ですか。

「信仰をもって御聖体を拝領する」とは、内的にも服装の上でも謙虚さと慎しみをもって御聖体を受けることと、拝領前にはふさわしい準備をし、拝領後には感謝をささげることを意味します。

639 聖体拝領前の準備とはどんなことですか。

聖体拝領前の準備とは、これから拝領するものが何であるか、また私たちは何者であるかをしばらくの間黙想し、信徳唱、望徳唱、愛徳唱、痛悔の祈り、「礼拝せん」、「けんそんの心を起こさん」、「望みをおこさん」などの祈りを心から唱えることです。

640 聖体拝領後の感謝の祈りとは何ですか。

聖体拝領後の感謝の祈りとは、潜心して、私たちの内においでになる主を礼拝し、信徳唱、望徳唱、愛徳唱、「礼拝せん」、「感謝せん」、「身を献げん」、「御恵みを願わん」などを祈り、自分と特に祈る必要のある人たちのために恩恵を乞い願うことです。

642 御聖体を拝領した日には何をすべきですか。

御聖体を拝領した日には、できるだけ心を平静に保ち、信心のわざにはげみ、自分の務めをよく果すべきです。

642 御聖体拝領のあと、イエズス・キリストはどのくらい私たちの中に留まっておられますか。

御聖体拝領のあと、大罪を犯さない限り、イエズス・キリストは、その恩恵の働きによって、留まっておられますが、その現存はパンの外観が消えるまでです。

Ⅳ  聖体拝領のしかた

643 御聖体を拝領するときどんな姿勢をすべきですか。

御聖体を拝領するときには、ひざまづくか直立の姿勢をとり、頭をこころもちあげ、謙虚に視線をホスチアに向け、口を充分あけて、舌を少し出します。

644 聖体拝領用のパテナはどう扱うべきですか。

聖体拝領用のパテナは万一ホステアが落ちた時、受けとめられる位置にもっていなければなりません。

645 いつ聖なるホスチアをのみ込むべきですか。

聖なるホスチアは受けてからすぐにのみ込んでしまうべきです。

646 聖なるホスチアが口蓋にくっついた時どうしなければなりませんか。

聖なるホステアが口蓋にくっついた時は、舌を使ってとり、決して指を使ってはなりません。

Ⅴ  聖体拝領についてのおきて

647 いつ御聖体を拝領する義務がありますか。

御聖体を拝領する義務があるのは、少なくとも、年に一度、復活祭の頃のほか、生命の危うい時です。

648 少なくとも毎年一度、復活祭の頃に御聖体を拝領する義務が生ずるのは何才からですか。

少なくとも毎年一度、復活祭の頃に御聖体を拝領する義務が生ずるのは、物事をわきまえる年令に達した時です。

649 御聖体を拝領できる年令に達しているのに、御聖体の秘跡にあずからない者は罪を犯しますか。

御聖体を拝領できる年令に達しているのに、拝領するのを望まないためとか、自己の怠慢から教えを知らないためにこの秘跡にあずからない者は、罪を犯すことになります。さらに両親やその代りをする人も、自分のせいで子供の聖体拝領を遅らせるなら罪を犯すことになり、神の御前できびしく責任を問われるでしょう。

650 しばしば御聖体を拝領するのはよいことですか。

ふさわしい準備をしている限り、しばしば御聖体を拝領するのはこの上なくすばらしいことです。

651 しばしば御聖体拝領をするとはどういうことですか。

信者はたびたび、できれば毎日、御聖体拝領するよう勧められていますが、各自、聴罪司祭に相談の上決めるのが良いでしょう。

第五章・ミサ聖祭

Ⅰ  ミサ聖祭の本質・制定・効果

652 御聖体は単に秘跡であるだけですか。

御聖体は、秘跡であると同時に新約の永遠の犠牲です。イエズス・キリストは、司祭の手を通して神に捧げるためにこの犠牲を教会にお残しになりました。

653一般に犠牲とは何ですか。

一般に犠牲とは、目に見える供え物を神にささげ、破壊することによって、人間をはじめ全ての物の最高主である神の支配を認めることです。

654 新約の犠牲は何と呼ばれますか。

新約の犠牲は、ミサ聖祭と呼ばれます。

655 ミサ聖祭とは何ですか。

ミサ聖祭とは、十字架上の犠牲を記念して、パンとぶどう酒の外観のもとに祭壇上でささげられる、イエズス・キリストの御体と御血の犠牲です。

656 十字架上の犠牲とミサ聖祭とは同じものですか。

十字架上で御自分をささげられたのも、祭壇上で聖務者である司祭の手を通してささげられるのも、同じイエズス・キリストですから、十字架上の犠牲とミサ聖祭とは、その本質においては同じものです。しかし、両者の間に密接な関係があるとは言え、その捧げ方は違います。

657 十字架上の犠牲とミサ聖祭との間にはどのような関係と相違がありますか。

十字架上の犠牲とミサ聖祭との間には次のような関係と相違があります。すなわち、イエズス・キリストは、十字架上では実際に御血を流して御自分をささげられ、祭壇においては御血を流すことなく御自分をささげて、御受難と御死去の効果を与えて下さるのです。

658 ミサ聖祭と十字架上の犠牲との間には、他にどのような関係がありますか。

ミサ聖祭と十字架上の犠牲との間にある他の関係は、ミサ聖祭はイエズス・キリストが十字架上で御血を流されたありさまを目に見える形で示していることです。なぜなら、聖変化のことばの力によってパンの外観のもとにあがない主の御体が、そして、ぶどう酒の外観のもとにその御血が実際に現存することになるからです。ただし、自然のつながりと位格的結合によって、それぞれの外観のもとに本当の生けるイエズス・キリストがおられます。

659 十字架上の犠牲は、新約唯一の犠牲ですか。

この犠牲によって主が神の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さったという点から見れば、十字架上の犠牲は新約唯一の犠牲です。そして、このようにして得られた功徳は、神が教会の中に制定された手段を通して実際に私たちに与えられるのであり、ミサ聖祭もこの手段のひとつなのです。

660 ミサ聖祭をささげる目的は何ですか。

ミサ聖祭をささげる目的は、

① ふさわしい方法で神を礼拝し(崇拝)、

② そのご恩に感謝し(感謝)、

③ 神をなだめるために罪のつぐないをし、練獄の霊魂のために代願し(贖罪)、

④ 必要とする恩恵を乞い求める(生願)

ことです。

661 ミサ聖祭の犠牲を神にささげるのはどなたですか。

ミサ聖祭の第一の主たる奉献者はイエズス・キリストです。司祭は、イエズス・キリストの名においてこの犠牲を永遠の父なる神にささげるのです。

662 どなたがミサ聖祭を制定なさいましたか。

御聖体の秘跡をお定めになり、御受難の記念としてこれを行なえとおおせられたとき、イエズス・キリスト御自身がミサ聖祭を制定なさいました。

663 ミサ聖祭はだれにささげられますか。

ミサ聖祭は、神にだけささげられます。

664 ミサ聖祭は神にだけささげられるのに、なぜ、聖母マリアや聖人たちを記念するためにたくさんの御ミサをたてるのですか。

聖母や聖人たちを記念する御ミサも神にだけささげられる犠牲です。しかし、聖母や聖人たちを記念するためにミサ聖祭をささげるというのは、かれらにお与えになった御恵みを神に感謝するとともに、そのとりなしによって私たちに必要な御恵みを豊かに下さるよう願うためです。

665 ミサ聖祭の効果はだれにおよびますか。

ミサ聖祭の効果は、教会全体、特に、

① ミサ聖祭をささげる司祭とそれにあずかる人たち、つまり、司祭と一体となっている人たち、

② 死者であれ生きている人であれ、司祭が特定の人にささげるときには、その人たち

におよびます。

Ⅱ  ミサ聖祭にあずかる態度

666 ミサ聖祭にふさわしい心構えをもってあずかり、実りあるようにするには何が必要ですか。

ミサ聖祭にふさわしい心構えをもってあずかり、実りあるようにするには、

① 節度ある外見を保ち、

② 信仰にみちた心を持つこと

が必要です。

667 節度ある外見を保つとはどういうことですか。

節度ある外見を保つとは、特に、慎みのある服装をし、沈黙を守り、潜心し、典礼に定められている通りに起立・着席などの動作をすることです。

668 信仰にみちた心でミサ聖祭にあずかるにはどうすべきですか。

信仰にみちた心でミサ聖祭にあずかるには、次のような点に注意すべきです。

① 初めから私たちの意向を司祭の意向に合わせ、ミサ聖祭を(それが)制定された目的のために神にささげる。

② 司祭のする祈りと動作に心をあわせる。

③ イエズス・キリストの御受難と御死去を黙想し、その原因となった罪を心から忌みきらう。

④ 御聖体を拝領するか、少なくとも、司祭の聖体拝領のときに、霊的聖体拝領唱をとなえる。

669 霊的聖体拝領とは何ですか。

霊的聖体拝領とは、秘跡を通してイエズス・キリストと一致したいとの強い望みを表わすことで、たとえば、「主よ、御身の尊き母が御身を受けしときの、清さと謙遜と信心とをもって、また聖人たちの心と熱とをもってわれも御身を受けんと望みたてまつる」と唱えて、実際の聖体拝領の前後と同じようにすることです。

670 ミサ聖祭中に個人的な祈りをすれば、ミサ聖祭の効果の妨げとなりますか。

ミサ聖祭の儀式に気を配ってしたがう限り、個人的に祈りをしても御ミサの効果を妨げることにはなりません。

671 ミサ聖祭中に人のために祈るのはよいことですか。

ミサ聖祭中に人のために祈るのはよいことです。そればかりか、ミサ聖祭中こそ、死者や生きている人々のために神に祈るのに最もふさわしい時です。

672 ミサ聖祭が終わってから何をすべきですか。

ミサ聖祭が終われば、この偉大な犠牲にあずからせて下さった神に感謝をささげ、ミサ聖祭中に犯した誤ちの赦しを願うべきです。

第六章・告解

Ⅰ  告解の秘跡一般

673 告解の秘跡とは何ですか。

告解の秘跡は悔俊の秘跡とも呼ばれますが、洗礼の後に犯した罪をゆるすために、イエズス・キリストが制定された秘跡です。

674 告解の秘跡が悔俊の秘跡とも呼ばれるのはなぜですか。

告解の秘跡が悔俊の秘跡とも呼ばれるのは、罪のゆるしを得るには犯した罪を悔み、忌みきらう必要があり、また司祭が課する償いを果さねばならないからです。

675 告解の秘跡と呼ばれるのはなぜですか。

告解の秘跡と呼ばれるのは、罪のゆるしを得るためには、犯した罪を忌みきらうだけでは充分でなく、司祭に言い表わすこと、つまり告白する必要があるからです。

676 イエズス・キリストはいつ告解の秘跡を制定されましたか。

イエズス・キリストが告解の秘跡を制定されたのは、御復活の日、高間において、使徒たちに罪をゆるす権能をお与えになったときです。

677 イエズス・キリストはどのようにして罪をゆるす権能を使徒たちにお授けになりましたか。

イエズス・キリストは、使徒たちに息を吹きかけ、次のことばをもって、罪をゆるす権能をお授けになりました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、だれの罪でもそのまま残る。」

678 告解の秘跡の質料は何ですか。

告解の秘跡の質料は、近い質料と遠い質料の二つにわけられます。遠い質料とは、洗礼後に犯した罪であり、近い質料とは、告解者の行為、すなわち、痛悔、告白、償いのことです。

679 告解の秘跡の形相は何ですか。

告解の秘跡の形相は次のことばです。「われ、父と子と聖霊との御名によってなんじをゆるす。」

680 告解の秘跡の授与者はだれですか。

告解の秘跡の授与者は、告解を聞く権能を司教から受けた司祭です。

681 なぜ司祭は告解を聞くために、司教からその権能を受けなければなりませんか。

この秘跡を有効に授けるためには、司祭の品級の権能だけでは不充分で、裁治権、つまり裁く権能が必要です。そして裁治権は司教から受けます。

682 告解の秘跡はいくつの部分から成っていますか。

告解の秘跡は、痛悔・告白・償いそして司祭による罪のゆるしから成っています。

683 痛悔とは何ですか。

痛悔とは、犯した罪を心から悔み、忌みきらい、今後決して犯すまいと決心することです。

684 「痛悔」とはどんな意味のことばですか。

「痛悔」とは、ちょうど石が壊われて、粉々になるような破壊や粉砕という意味のことばです。

685 なぜ、犯した罪を心から悔み、忌みきらうことを痛悔というのですか。

犯した罪を心から悔み、忌みきらうことを痛悔というのは、罪人のかたくなな心が、神を侮辱したことを悲しみ、いわば、粉々になることを示すためです。

686 告白とは何ですか。

告白とは、罪のゆるしと償いとを受けるために、聴罪司祭に犯した罪をはっきりと言い表わし、それを責めることです。

687 なぜ、告白とは犯した罪を言い表わし、それを責めることだと言うのですか。

告白とは犯した罪を言い表わし、それを責めることだというのは、告白はとりとめもない事柄を述べることではなく、自分の犯した罪を心から悔み、表明することだからです。

688 償いとは何ですか。

償いとは、罪をあがなうために、聴罪司祭が課する祈りや善業のことです。

689 罪のゆるしとは何ですか。

罪のゆるしとは、罪をゆるすために、聴罪師がイエズス・キリストの名において与える判決のことばのことです。

690 告解の秘跡の最も必要な部分はどれですか。

告解の秘跡の最も必要を部分は痛悔です。なぜなら、痛悔がなければ罪のゆるしを得ることはできないからです。しかし、完全な痛悔があり、少なくとも告解をする意志があれば、罪のゆるしを得ることができます。

Ⅱ  告解の効果・必要性・準備

691 告解の秘跡の効果は何ですか。

告解の秘跡の効果は、成聖の恩恵を与え、痛悔の心をもって告白する大罪と小罪をゆるし、永遠の罪を有限の罰に変えるだけでなく、心構え次第で有限の罰もいくぶんゆるし、罪を犯す前にした善いわぎの功徳を回復させ、再び罪を犯さないように必要な助けを与え、良心に安らぎを取り戻すことです。

692 告解の秘跡は救霊上すべての人々に必要ですか。

受洗後信者が大罪を犯した場合、告解の秘跡は救霊のために必要です。

693 しばしば告解するのはよいことですか。

しばしば告解するのは非常によいことです。告解の秘跡によって罪が消えるだけでなく、今後罪を犯さないために必要な恩恵を受けるからです。

694 告解の秘跡には、罪がどれほど多く、重大でもすべてゆるす力がありますか。

告解の秘跡は、正しい準備をしてあずかる限り、罪がどれほど多く、重大であってもすべて、ゆるす力があります。

695 よい告解をするには何が必要ですか。

よい告解をするには次の五つが必要です。

① 良心の糾明、

② 痛悔、

③ 決心、

④ 告白、

⑤ 償いを果す意志。

696 よい告解をするには何をすべきですか。

よい告解をするには、犯した罪を知る光と、罪を忌みきらう恩恵を願うべきです。

Ⅲ  良心の糾明

697 良心の糾明とは何ですか。

良心の糾明とは、前の告解後、最初の告解なら洗礼後に犯した罪を克明に調べることです。

698 良心の糾明はどのようにしますか。

良心の糾明は、思い、言葉、行ない、あるいは怠りをもって、神の十戒、教会の掟、身分に応じた義務に反して犯した罪で、まだ告解していないものをすべて注意深く思いだし、調べることです。

699 ほかにも糾明することがありますか。

ほかにも、悪い習慣や罪の機会について糾明します。

700 良心の糾明の時、犯した大罪の数も調べますか。

良心の糾明の時、犯した大罪の数も調べるべきです。

701 罪はどんな場合に大罪となりますか。

罪が大罪となるのは、重大な事がらについて、はっきり意識し、完全に承諾して犯すときです。

702 重大な事がらとなるのはどんな場合ですか。

重大な事がらとなるのは、神の十戒や教会の掟にいちじるしく背いた場合です。

703 はっきり意識して犯すとはどんな場合ですか。

はっきり意識して犯すとは、重大な悪を犯していることを完全に知っている場合です。

704 完全に承諾して犯すとはどんな場合ですか。

完全に承諾して犯すとは、罪であると知りながら、すすんで罪を犯す場合です。

705 良心の糾明には、細心の注意が必要ですか。

良心の糾明には、非常に重要な仕事をするときに見せるような細心の注意が必要です。

706 良心の糾明にはどのくらい時間をかけるべきですか。

良心の糾明に要する時間は必要に応じて変わります。すなわち、良心の負担になる罪の数や質によって、また、前の告解からどれほど日数が経ったかによって変わります。

707 どうすれば告解前の糾明をやさしくできますか。

その日の行ないの糾明を、毎晩するなら、告解前の良心の糾明はやさしくできます。

Ⅳ  痛悔について

708 痛悔とは何ですか。

痛悔とは、犯した罪を心から悔み忌みきらうことです。

709 痛悔には幾種ありますか。

痛悔には、二種あります。完全な痛悔と不完全な痛悔です。

710 完全な痛悔とは何ですか。

完全を痛悔とは、無限に善であり、全ての人に愛されるべき神を侮辱した罪を悔み忌みきらうことです。

711 なぜ「完全な」痛悔と呼びますか。

「完全を」痛悔と呼ぶのは、

① 自分の利害からではなく、神を愛する心から、犯した罪を悔み、

② あとで告解する義務が残るとは言え、この痛悔によってただちに罪のゆるしを得ることができるからです。

712 それでは、完全な痛梅があれば、告解と関係なしに罪のゆるしを得ることができるのですか。

完全な痛侮があっても、告解する意志がなければ、犯した罪のゆるしを得ることはできません。

713 なぜ完全な痛悔に恩恵を取り戻す力があるのですか。

完全な痛悔に恩恵を取り戻す力があるのは、この痛悔は愛から生まれるものであり、愛のあるところに大罪はあり得ないからです。

714 不完全な痛侮とは何ですか。

不完全を痛悔とは、最高の審判者としての神を侮辱したことを悔むこと、すなわち、現世と来世における罰を恐れたり、罪の醜さを恥じて、罪を悔むことです。

715 よい痛悔であるためにはどんな条件が必要ですか。

よい痛悔であるためには、次の四つの条件が必要です。つまり、痛悔は、内的、超自然的、最高、普遍的でなければなりません。

716 痛悔は内的でなければならないとはどんな意味ですか。

口さきばかりの痛悔では役に立たず、心から、意志から出る痛悔であるべきだという意味です。

717 なぜ痛悔は内的でなければならないのですか。

痛悔が内的でなければならないのは、罪によって神から離れた意志が、犯した罪を忌みきらうことによって再び神に戻らなければならないからです。

718 痛悔が超自然でなければならないとはどのような意味ですか。

主の恩恵によって痛悔の念を起こし、信仰に動かされてその痛悔を持たねばならないという意味です。

719 なぜ痛悔は超自然的でなければなりませんか。

痛悔が超自然的でなければならないのは、罪のゆるし、成聖の恩恵、永遠の栄光への権利を得るという痛悔の目的が超自然的であるからです。

720 超自然的な痛悔と自然的な痛悔との違いをもう少し詳しく説明して下さい。

無限に善であり、すべての人に愛されるべき神を侮辱したゆえに罪を悔み、天国を失い、地獄に価する罰を恐れたり、罪そのものの醜さを恥じて罪を悔む人は、信仰上の動機に基づく痛悔をしたわけですから、超自然の痛悔を持っています。しかし、人から受ける恥辱や罰と全く現世的な害を恐れて、改心する人は、ただ人間的な動機から罪を悔むことになりますから、自然的な痛悔を持っていることになります。

721 なぜ痛悔は最高でなければなりませんか。

痛悔が最高でなければならないのは、罪が最高善である神への侮辱である以上、罪をあらゆる悪のうちでも最も重大な悪として忌みきらわねばならないからです。

722 不幸なでき事にあって涙を流すように、痛悔にも涙が必要ですか。

涙は必要ではありません。苦しみや災いを悲しむ以上に真剣に心の中で神を侮辱したことを悔めばよいのです。

723 痛悔は普遍的でなければならないとはどのような意味ですか。

痛悔の念は、犯した大罪すべてに及ばなければならないという意味です。

724 なぜ痛悔は犯した大罪すべてに及ばねばならないのですか。

たとえ一つでも大罪を悔まない人は、神の敵のままの状態にいることになるからです。

725 痛悔の心を持つにはどうしなければなりませんか。

痛悔の心を持つには、真心から神に願い、罪を犯すことによってはかり知れない悪をなしたことを考えて、痛悔の心を起こすように努めなければなりません。

726 罪を忌みきらう心を起こすために何をしますか。

罪を忌みきらう心を起こすためには、

① 神の正義の厳しさと、霊魂を醜くし、地獄の永遠の苦しみに価するものとした罪の邪悪な力、

② 神の恩恵、友情、神との親子関係、そして天国に入る権利を失ったこと、

③ 私のために、そして私の犯した罪が原因となって御死去になられたあがない主を侮辱したこと、

④ 創造主である神を軽んじ、何物にもまして愛され、忠実に仕えられるべき最高善である御方に背いたこと

を考えます。

727 告解をするとき真心から痛悔の念を持つように努力しなければなりませんか。

告解をするときには、真心から痛悔の念をもつように努力しなければなりません。痛悔は最も必要で、痛悔がなければ告解も無効となります。

728 小罪だけを告解するときも、すべての小罪を痛悔しなければなりませんか。

小罪だけを告解するときは、小罪のうちのいくつかを痛悔すれば充分です。しかし、犯した罪すべてのゆるしを得るには、自分で犯したとわかっている罪をすべて痛悔しなければなりません。

729 小罪だけを告解する人がその小罪のいずれについても痛悔していないとき、よい告解をしたと言えますか。

小罪だけを告解する人がその小罪のいずれについても痛悔していないとき、告解は無効です。その上、痛悔の念を持っていないと知っているなら、汚聖の罪を犯します。

730 小罪だけの告解を確実に秘跡にするために何をしなければなりませんか。

小罪だけの告解を確実に秘跡にするためには、すでに告白した大罪を心から悔むのが賢明なやり方です。

731 しばしば痛悔の祈りを唱えるのはよいことですか。

しばしば、特に就寝前や大罪を犯したことに気づいたり、その疑いのある時、痛悔の祈りを唱えることは、神の恩恵をできるだけ早く取り戻すのに非常に有益です。この習慣があれば、死の危険のある時のように緊急の場合にも、同じように痛悔の念を起こす恩恵を得るのが容易になります。

Ⅴ  生活を改める決心

732 生活を改める決心とは何ですか。

生活を改める決心とは、今後再び罪を犯すまい、そのために必要なあらゆる手段を構じょうという固い決意をすることです。

733 よい決心はどのような条件を備えなければなりませんか。

よい決心は、絶対的、普遍的、実効的という三つの条件を備えなければなりません。

734 絶対的な決心とはどのようなことですか。

絶対的な決心とは、時、場所、人などによって限定されない決心ということです。

735 普遍的な決心とはどのようなことですか。

普遍的な決心とは、すでに犯した大罪も犯すかも知れないものも含めてすべての大罪を避けるという決意を持たねばならないということです。

736 実効的な決心とはどのようなことですか。

実効的を決心とは、決して罪を犯さず、罪の機会を避け、悪い習慣を捨て、罪を犯したことによって生じた義務を果すという固い決意をすることです。

737 悪い習慣とは何ですか。

悪い習慣とは、罪に慣れて、罪を容易に犯す習性のことです。

738 悪い習慣を直すには何をすべきですか。

悪い習慣を直すには、自分をよく監視し、しばしば祈り、告解をし、定った霊的指導者を得て、その助言やすすめを実行しなければなりません。

739 危険な機会とは何ですか。

危険を機会とは、その事柄の性質から、あるいは私たちの弱さから、罪を犯す原因となる時・場所・人・物などのことです。

740 危険な機会をさけるのは重大な義務ですか。

大罪を犯す原因となるような、いわゆる、罪の近因的な機会と呼ばれる危険な機会を避けるのは重大な義務です。

741 罪を犯す危険から逃げられないときは、何をしなければなりませんか。

罪を犯す危険から逃げられないときには、聴罪司祭に相談し、その勧めに従うべきです。

742 生活を改める決心をするため何を考えるべきですか。

生活を改める決心をするためには、痛悔の念を起こすのに役立つのと同じこと、つまり、神の正義を恐れ、神の無限の善性を愛する動機になる事を考えるべきです。

Ⅵ  告白

743 良心の糾明、痛悔および決心をしたあと、何をしますか。

良心の糾明、痛悔および決心をしたあとで、告解場に行き、罪のゆるしを得るために聴罪司祭に犯した罪を告白します。

744 絶対に告白しなければならないのはどんな罪ですか。

絶対に告白しなければならないのは、犯した大罪すべてですが、合わせて小罪を告白するのは良いことです。

745 告白にはどのようなことが要求されますか。

告白は、謙虚、完全、率直、慎重そして簡潔でなければなりません。

746 謙虚でなければならないとはどのようなことですか。

告白は謙虚でなければならないとは、聴罪司祭に罪を言い表わすとき、心の中にも、ことばの上でも、高慢な態度を見せてはならず、裁判官の前で罪を認める犯罪人のような気持で臨まなければならないということです。

747 完全でなければならないとはどのようなことですか。

告白は完全でなければならないとは、前の告解以後に犯した、覚えている限りの大罪と、その事情と数をあますところなく言い表わさねばならないということです。

748 完全な告白をするために、特にどのような事情を説明しなければなりませんか。

完全な告白をするためには、罪の種類を変える事情について特に説明しなければなりません。

749 罪の種類を変える事情とは何ですか。

罪の種類を変える事情とは、

① 小罪を大罪に変える事情、

② 一つの悪い行ないが種々の掟にそむくために大罪の上にさらに他の大罪が重なる時の事情です。

750 小罪を大罪に変える事情の例を一つ掲げて下さい。

たとえば、口実のためうそをつき、それがもとで他人に重大な害を与えた人は、この事情を説明しなければなりません。この場合、儀礼的なうそが有害なうそになり、大罪を犯すことになったからです。

751 一つの悪い行ないが種々の掟にそむくために大罪の上にさらに大罪が重なる事情の例をあげて下さい。

たとえば、聖なるものを盗んだ人は、盗みの罪に汚聖の罪が加わりますから、その事情を言い表わさなければなりません。

752 罪を犯したかどうか確信の持てないときは、それを告白すべきですか。

罪を犯したかどうか確信の持てないときは、告白する義務はありません。しかし告白したいなら、確信が持てないことを言わなければなりません。

753 犯した罪の数を正確に憶えていないときはどうするべきですか。

犯した罪の数を正確に憶えていないときは、およその数を言わなければなりません。

754 大罪や必要な事情を述べることを忘れた人はよい告解をしたと言えますか。

犯した罪を思い出すために注意深く糾明したあとで、大罪や必要な事情を述べることを忘れたとしても、よい告白をしたと言えます。

755 告白のとき大罪を忘れていたなら、別の告解でそれを言い表わさなければなりませんか。

告白のとき大罪を忘れ、あとで思いだした場合には、次の告解で言い表わさなければなりません。

756 恥かしさから告白のときわざと大罪を隠せば、どのような罪を犯しますか。

恥しさから告白のときわぎと大罪を隠せば、秘跡を汚し、重大な汚聖の罪を犯すことになります。

757 告白のとき大罪をわざと隠した人はどうしなければなりませんか。

告白のとき大罪をわざと隠した人は、そのとき告白すべきであった罪と何回隠したかを聴罪司祭に言い、前の有効な告解から告白しなおさなければなりません。

758 告白において罪を隠したい誘惑を感じたら何を考えなければなりませんか。

告白において罪を隠したい誘惑を感じたら次のことを考えなければなりません。

① すべてをお見通しになる神の御前で、恥じらいもなく罪を犯したこと。

② 犯した罪を聴罪司祭にひそかに告白する方が、罪を隠して不安な気持で過し、不幸な死を経て、公審判のとき、すべての人の前で恥しめを受けるよりはるかによいこと。

③ 聴罪司祭はこの秘跡の秘密を守る義務があり、この義務を守らなければ重大な罪を犯し、現世と来世できびしく罰せられること。

759 告白は率直でなければならないとはどのような意味ですか。

告白は率直でなければならないとは、言い訳したり、増減することなく、犯した罪をありのまま言い表わさなければならないという意味です。

760 告白は慎重でなければならないとはどのような意味ですか。

告白は慎重でなければならないとは、告白するときには、憤しみのあることばづかいをし、他人の罪を明かすことのないように気をつけねばならないという意味です。

761 告白は簡潔でなければならないとはどのような意味ですか。

告白は簡潔でなければならないとは、聴罪司祭に無駄なことは何も言わないように努めるべきだという意味です。

762 自分の罪を他人である聴罪師に告白するのは特に、恥ずべき内容なら気の重いことではありませんか。

自分の罪を他人である聴罪司祭に告白するのは、たしかに気の重いことです。しかし、これが神の掟であり、他の方法では絶対に罪のゆるしを得ることはできない上に、勇気を出して告白すると数多くの恵みと大きな慰めを代償として受けることができますから、どうしても告白しなければなりません。

Ⅶ  告白の仕方

763 告解場に入ったときはどうしますか。

まず司祭の前にひざまずき、「父と子と聖霊との御名によりて。アーメン。われ、霊父の祝福を乞い願う」と唱えます。

764 司祭が祝福を与える間、どうしますか。

謙虚に頭を垂れ、祝福を受け、十字架のしるしをします。

765 十字架のしるしをしたあとは、何を言いますか。

十字架のしるしをしたあとは、「全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人および霊父に向いて、われは思いと言葉と行ないとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る」と唱えます。

766 この祈りのあと、どうしますか。

次に、この前いつ告解し、罪がゆるされ、償いを果し、御聖体を拝領したことを言い表わし、その後におかした罪を告白します。

767 罪の告白を終えたら、どうしますか。

罪の告白を終えたら、さらに、このほか洗礼以来犯したすべての罪およびある徳に反する罪、たとえば貞潔や第四戒などに反する罪を痛悔し、告白します。

768 こうしてすべての罪の告白を終えた後どうしますか。

こうしてすべての罪の告白を終えた後、「かくおぼえたる罪とおぼえざる罪と、洗礼以来犯したる罪とを、ことごとく痛悔し、これがゆるしと償いとの御恵みを乞い求め奉る」と祈ります。

769 罪を告白した後さらに何をしなければなりませんか。

罪を告白した後には、慎んで司祭の言葉を聞き、償いを果す意志をもって受け入れ、さらに、罪のゆるしを受ける時には、痛悔の祈りを唱えなければなりません。

770 罪のゆるしを得た後はどうしなければなりませんか。

罪のゆるしを得た後は、主に感謝をささげ、償いを果し、司祭の助言を実行に移さなければなりません。

Ⅷ  罪のゆるし

771 司祭は罪を言い表わす者にはいつも罪のゆるしを与えますか。

司祭は、罪のゆるしを受けるに足ると判断した者にのみ罪のゆるしを与えます。

772 聴罪司祭は、時によって、罪のゆるしを延ばしたり拒否することができますか。

聴罪司祭は、時によって、罪のゆるしを延ばしたり拒否することができるだけでなく、この秘跡を汚さないためにそうする義務があります。

773 罪のゆるしにふさわしくないのはどんな人ですか。

罪のゆるしにふさわしくないのは、主に次のような人です。

① 主な信仰の奥義を知らず、各自が身分に応じて知っておくべきキリスト教の教義を怠慢から学んでいない人、

② 良心の糾明を著しく怠り、痛悔の念も後悔のしるしも示さない人、

③ 他人から奪った財産を弁償し、名誉をつぐなうことができるのに、それを拒否する人、

④ 本心から敵をゆるせない人、

⑤ 悪い習慣から逃れるために必要な手段を講じない人、

⑥ 罪の近因的機会を避けようとしない人。

774 罪のゆるしを受けるにふさわしくないと思われる人にゆるしを与えるのを延ばす聴罪司祭はあまりにも厳しすぎないでしょうか。

罪のゆるしを受けるにふさわしくないと思われる人にゆるしを与えるのを延ばす聴罪司祭はあまりにも厳しいとは言えません。かえって、愛情ある処置であり名医が病人の生命を救うためにたとえ苦痛を与えることがあってもあらゆる治療法を試みる態度に似ていると言えます。

775 罪のゆるしを延ばされたり、拒否された人は、告解をあきらめるべきですか。

罪のゆるしを延ばされたり、拒否された人は、絶対に告解をあきらめるべきではありません。謙虚に自分の恥しい状態を認め、聴罪司祭の良き助言を聞き入れ、できるだけ早く、罪のゆるしを得るのにふさわしい人になれるよう努力しなければなりません。

776 聴罪司祭を選ぶにあたって何をすべきですか。

信心深く博識ある慎重な聴罪司祭を得るために、まず神の御助けを願うのが良い信者のすべきことです。そして、選んだ聴罪司祭を信頼し、その人を裁判官か医者であると思って、完全に従わねばなりません。

Ⅸ  償いについて

777 償いとは何ですか。

償いとは告白後に司祭が命じることを果すことによって、神の正義に対して何らかの弁償をすることです。

778 司祭が命じる償いは果さなければなりませんか。

司祭が命じる償いは果さなければなりません。もし理由があって果せないときには、謙虚にそのことを告げかわりに他の償いを得なければなりません。

779 いつ償いを果さなければなりませんか。

聴罪司祭がとくに時を指定しない限り、できるだけ早くそして成聖の恩恵を持っている間に償いを果さなければなりません。

780 償いはどのようにして果さなければなりませんか。

償いは信仰の心をもって完全に果さなければなりません。

781 償いを命じるのは何のためですか。

告解の秘跡による罪のゆるしによって罪と永遠の罰はゆるされますが、この世または練獄で果すべき有限の罰が残るのが普通です。従ってこの有限の罰を償わせるために、司祭が償いを命じるのです。

782 洗礼の秘跡によって犯した罪のすべての罰がゆるされるのになぜ、告解の秘跡では罰の一部しかゆるされないのですか。

洗礼の秘跡によって犯した罪のすべての罰がゆるされるのに告解の秘跡では罰の一部しかゆるされないのは、洗礼後の罪は神の恵みを深く知りながらも、その恩を忘れて犯したので、洗礼前の罪とは比較にならないほど重大な意味をもつからです。また、告解は、犯した罪の償いを義務づけることによって、再び罪を犯さないための予防ともなります。

783 自分の力だけで神への償いを果すことができますか。

自分の力だけでは神への償いを果すことができませんが、キリストと一致すればこれを果すことができます。それは、キリストの御受難と御死去のいさおしにより、私たちの行ないに新たな価値が与えられるからです。

784 司祭が命じる償いを果せば、犯した罪のすべての罰を消し去ることができますか。

司祭が命じる償いを果すだけでは、犯した罪のすべての罰を消し去ることはできません。従って、自発的にほかの償いをしてこれを補うように努めなければなりません。

785 償いの業にはどんなものがありますか。

償いの業は、祈り、断食、ほどこしの三種類にわけることができます。

786 祈りによる償いとは何ですか。

祈りによる償いとは、あらゆる種類の信心の業のことです。

787 断食による償いとは何ですか。

断食による償いとは、あらゆる種類の犠牲をささげることです。

788 ほどこしによる償いとは何ですか。

ほどこしによる償いとは、霊的、物的なあらゆる種類の慈善事業のことです。

789 司祭の命じる償いと自発的に選んでする催いとのどちらにより大きな力がありますか。

司祭が命じる償いにより大きを力があります。命じられた償いは秘跡の一部を成し、イエズス・キリストの御受難のいさおしの力をより多く受けることができるからです。

790 司祭による罪のゆるしを得たばかりの人が、神の正義に対して完全に償いを果さないで死んだ場合、この人は直接天国に行きますか。

その人はまず練獄に行き、そこで神の正義に対して償いを果し、罪から完全に潔められた後、天国へ行きます。

791 信者は練獄の霊魂が受ける罰を軽くすることができますか。

信者は練獄の霊魂が受ける罰を、祈り、ほどこし、慈善事業、免償、とくにミサ聖祭の聖なる犠牲によって軽くすることができます。

792 告白後、償いのほかに何をしなければなりませんか。

もし不当に他人の財産や名誉に害を及ぼしたり、つまづきを与えたときは、罪の告白後、償いのほかにできるだけ早く、奪った財産を返し他人の名誉を回復し、つまづきを取り除かなければなりません。

793 どうすれば他人に与えたつまづきを取り除くことができますか。

つまづきの原因となる行ないを止め、ことばと行ないと良い模範を示すことによって他人に与えたつまづきを取り除くことができます。

794 他人に害を加えたときはどのようにして償いをしなければなりませんか。

他人に害を加えたときは、ゆるしを乞い、必要な場合には、適当な処置をとって埋め合せをしなければなりません。

795 よい告解をすることによってどのような効果を得ることができますか。

よい告解をすることによって次の効果を得ることができます。

① 犯した罪のゆるしと神の恩恵を受け、

② 心の平安と落着きを回復し、

③ 再び天国への道が開かれ、永遠の罰が有限の罰に変わり、

④ 再び罪を犯さないための力と免償の恵みを得る

ことができます。

Ⅹ  免償について

796 免償とは何ですか。

免償とは、教会が告解の秘跡以外に与える有限な罰のゆるしです。

797 教会はだれから免償を与える権能を授かりましたか。

教会はイエズス・キリストから免償を与える権能を授かりました。

798 どのようにして、教会は免償を通じて有限の罰をゆるしますか。

教会は、教会の宝と呼ばれる、イエズス・キリストならびに、聖母マリアと諸聖人の豊かないさおしを私たちに恵与することにより、免償を通じて有限の罰をゆるします。

799 免償を与える権能はだれにありますか。

免償を与える権能は、全教会のためには教皇のみが有し、教会が認めた場合各教区のために司教がこれを有します。

800 免償には幾種類ありますか。

免償には、全免償と部分免償の二種類があります。

801 全免償とは何ですか。

全免償とは、犯した罪の有限の罰をすべてゆるすものです。従って、全免償を得た後死んだ人は練獄を経ず直接天国へ行けます。

802 部分免償とは何ですか。

部分免償とは、犯した罪の有限の罰の一部だけをゆるすものです。

803 教会が免償を与える目的は何ですか。

有限の罰をすべてこの世で償うことのできない私たちを助けるために教会は免償を与えます。初代の教会においては非常に厳しい償いの規則に従って与えられた免償も、今は、信心の業やキリスト教的愛徳を実行することによって得ることができるようになりました。

804 部分免償の効果は何ですか。

部分免償を得るために定められた善業を果すと、まずその善業によって神から有限の罰のある程度のゆるしを受けます。さらに、教会は免償をもって、それを受ける人に同じ程度のゆるしを加えて与えます。

805 免償について充分知っておくべきですか。

免償については常に、充分知っておくべきです。なぜなら免償によって神の正義に対する償いを果し、より早く容易に天国への道に入ることができるからです。

806 免償を得るためには何が必要ですか。

免償を得るためには、

① 少なくとも、規定の行為の終了の際に成聖の恩恵をもち、

② 教会の定めた条件を果し、

③ 免償を受ける意向をもち、

④ 免償の恵与者の従属者であること

が必要です。

807 免償は練獄の霊魂にも与えられますか。

免償は練獄の霊魂に代願としていつも譲ることができます。

808 聖年の免償とは何ですか。

聖年の免償とは、普通二十五年毎に与えられる全免償のことで、保留されていた罪や徴戒罰をゆるし、誓願を変更するなど多くの特典を与えます。

第七章・病者の塗油

809 病者の塗油とは何ですか。

病者の塗油とは、生命の危うい病人にまず霊的な安らぎを与え、さらに、健康の回復を助けるために定められた秘跡です。

810 病者の塗油の秘跡にはどのような効果がありますか。

病者の塗油の秘跡には、

① 成聖の恩恵を増し、

② 小罪をゆるし(病人が痛悔の念を持ちながら告解できないときには大罪もゆるし)、

③ 悪への傾きを弱め、

④ 病苦、誘惑に対する力と、聖なる死をとげるための力を与え、

⑤ おぼしめしならば健康も回復させる

効果があります。

811 いつ病者の塗油を受けなければなりませんか。

病者の塗油を受けなければならないのは、信者が物事をわきまえる年令に達した後に、病気や老衰のため生命が危うくなった時で、病人の意識が確かで、まだ命に望みがある間に授けなければなりません。

812 なぜ病人の意義が確かで、まだ命に望みのある間に病者の塗油を授けるよう努めねばなりませんか。

病人の意識が確かで、まだ命に望みのある間に病者の塗油を授けるよう努めねばならないのは、充分な準備をしてこの秘跡を受ければ多くの効果を得ることができるだけでなく、自然の力を助けて、おぼしめしならば健康を回復させる力を持つこの秘跡を病人の生命が絶望状態になるまで待つべきではないからです。

813 病者の塗油を受けるには何をしなければなりませんか。

病者の塗油を受けるには、成聖の恩恵をもち、秘跡の力と神の御慈悲を信頼し、すべてを主の御旨に委ねなければなりません。

814 塗油を授ける司祭を前にして病人はどのような気持を抱かなければなりませんか。

塗油を授ける司祭を前にして、病人は司祭をお遣わしになった神に感謝し、できれば自らすすんで秘跡を求め、喜んで授からなければなりません。

第八章・叙階

815 叙階とは何ですか。

叙階とは、神の礼拝と救いに関する諸秘跡を司る権能を与える秘跡で、神の聖務者としての消えない印章を霊魂に刻み付けます。

816 なぜ叙階の秘跡と呼ばれますか。

叙階の秘跡と呼ばれるのは、この秘跡が上下関係にある種々の品級にわかれており、これが位階制度を形成するからです。

817 品級には幾種ありますか。

最高の品級は司教で、これは司祭職の全権能を兼ね備えています。ついで司祭、そして助祭があります。

818 イエズス・キリストが直接に叙階の品級をお定めになったのですか。

イエズス・キリストが直接にお定めになったのは、司教と司祭の品級で、そののち使徒たちを通して助祭をお定めになりました。

819 イエズス・キリストはいつ叙階をお定めになりましたか。

イエズス・キリストが叙階をお定めになったのは、最後の晩餐において使徒たちとその後継者に御聖体を奉献する権能をお授けになった時です。そして、御復括の日には、同じ人々に罪をゆるし、または保留する権能をお与えになり、こうして彼らを新約による完全な権能を有する最初の司祭とされました。

820 この秘跡の授与者はだれですか。

この秘跡の授与者は司教だけです。

821 それでは、司祭職は非常に尊いものですか。

イエズス・キリストが、御自分の真の御体と神秘体である教会との両方を司るための二重の権能と、全ての人を永遠の生命に導く使命とを、司祭職に託されたことからみて司祭職が非常に尊いものであることがわかります。

822 カトリック教会に司祭職は必要ですか。

カトリック教会に司祭職は絶対必要です。なぜなら司祭職がないとミサ聖祭をはじめ大部分の秘跡にあずかることもできず、信仰の教義を教える人がいないために信者は牧者を失った羊のように狼のえじきになってしまうからです。要するに司祭職がないとイエズス・キリストが設立された通りの教会が存在しないことになります。

823 ではカトリックの司祭職がこの世に欠けることはありませんか。

カトリックの司祭職は地獄の攻撃にもかかわらず世の終り迄存続します。イエズス・キリストが、地獄の力も教会を破滅させることは決してないと約束されたからです。

824 司祭を軽んじると罪を犯しますか。

イエズス・キリストは使徒たちに「あなたがたを軽んじる者は私を軽んじるのである」と言われたことからわかるように、司祭に対する軽蔑や侮辱は直接イエズス・キリストに対するのと同じことです。従って司祭を軽んじると非常に重大な罪を犯します。

825 聖職につく人はどんな目的を持つべきですか。

聖職につく人は神の光栄と人々の救霊を唯一の目的とすべきです。

826 聖職につくにはまず何が必要ですか。

聖職につくにはまず神の召し出しが必要です。

827 司祭職に召されているかどうかを知るために何をしなければなりませんか。

司祭職に召されているかどうかを知るためには、

① 神の御旨を表わして下さるよう熱心に願い、

② 教区の司教か学識があり慎重を霊的指導者の助言をあおぎ、

③ 学問、聖務その他司祭職固有の務めを果す適性を持っているかどうか慎重に考慮

しなければなりません。

828 神の召し出しなしに司祭職につくのは悪い事ですか。

神の召し出しなしに司祭職につく人は、重大な罪を犯し、霊魂を破滅させる危険に身をさらすことになります。

829 親が現世的な動機から、召し出しを持たない子供を聖職につかせようとするのは悪いことですか。

現世的な動機から、召し出しを持たない子供を聖職につかせようとする親は重大な罪を犯します。神が持っておられる聖職者を選ぶ権利を不当に侵すことになる上に、子供を永遠の罰を受ける危険にさらすことになるからです。

830 叙階の秘跡に関する信者の義務とは何ですか。

叙階の秘跡に関する信者の義務とは次のようをものです。

① 自分の子供や目下の者が自由に神の召し出しに応じるように助けること。

② 教会に善き牧者と熱心な聖職者をお授け下さるよう神に願うこと。

③ 叙階の秘跡を受け、神のしもべとして自分を献げた全聖職者を特に尊敬すること。

第九章・婚姻

Ⅰ  婚姻の秘跡の本質

831 婚姻の秘跡とは何ですか。

婚姻とはイエズス・キリストが制定された秘跡で、信者の男女間に神聖で不解消の絆を結ばせ、清く愛し合い、子供をキリスト教的に教育するための恩恵を授けます。

832 結婚はだれによって定められましたか。

結婚は神御自身によって地上の楽園において定められ、新約の時代になってイエズス・キリストにより、秘跡の権威にまで高められました。

833 婚姻の秘跡は何を象徴していますか。

婚姻の秘跡は、イエズス・キリストとその花嫁であり、私たちの母である聖なる教会との間にある不解消の堅い絆による一致を象徴しています。

834 なぜ婚姻の絆は不解消なのですか。

婚姻の絆は不解消で、配偶者の一方が死亡しない限り解くことはできないのは、初めから神がこのようにお定めになり、主イエズス・キリストも厳かにそう宣言されたからです。

835 信者の男女は秘跡と関係なく、単なる契約としての婚姻を結ぶことができますか。

信者にとって婚姻とは、イエズス・キリストが秘跡の権威にまで高められた自然の契約のことですから、信者の男女が秘跡と関係なく、単なる契約として婚姻を結ぶことはできません。

836 信者の男女は秘跡でない真の婚姻を結ぶことができますか。

信者の男女は、秘跡でない真の婚姻を結ぶことはできません。

837 婚姻の秘跡の効果は何ですか。

婚姻の秘跡は、① 成聖の恩恵を増し、② 夫婦がその務めをよく果せるよう助力の恩恵を与えます。

Ⅱ  秘跡の授与者・儀式・準備

838 婚姻の秘跡の授与者はだれですか。

婚姻の秘跡の授与者は、結婚する信者の男女で、相互にこの秘跡を授け合います。

839 この秘跡はどのようにして授けられますか。

この秘跡は契約としての性質をもつところから、男女の信者が主任司祭またはその代理者と二人の証人の前で婚姻の合意を表明し、互いに秘跡を授け合います。

840 それでは、主任司祭が婚姻を結ぶ二人に授ける祝福は何のためですか。

主任司祭が婚姻を結ぶ二人に授ける祝福は、秘跡が成立するために必要ではありませんが、教会の名において二人の婚姻の成立を認め、神の祝福をさらに豊かに願うためです。

841 婚姻を結ぶ者はどんな意向を持たねばなりませんか。

婚姻を結ぶ者は、① 結婚生活にお呼びになった神の御旨に従い、② 結婚生活において自己の聖化に努め、③ おぼしめしによって子供を授かったときは、キリスト教的な正しい教育を与える意向を持たねばなりません。

842 実りある婚姻の秘跡にあずかるためにはどのような準備をしなければなりませんか。

実りある婚姻の秘跡にあずかるためには、① 神の御旨を知り、結婚生活に必要な恩恵を得るために神に祈り、② はっきりした約束をする前に、親に対する服従と尊敬の念から、それぞれ自分の親に相談し、③ 前もってよい告解をし(必要なら総告解)、③ 互いに罪の機会となるような、あまり親密なことば使いや行ないを避けなければなりません。

843 夫婦の主な義務は何ですか。

夫婦の主な義務は、

① 結婚の忠実を完全に守り、いつ、どんを場合にもキリスト信者らしくふるまい、

② 互いに愛し、忍耐し合って、平和で調和のとれた生活をし、

③ 子供が生まれたならば、必要なものを与え、キリスト教的教育をほどこし、神の召し出しに自由に応じるよう助ける

ことです。

Ⅲ  婚姻の条件と障害

844 信者が有効な婚姻を結ぶには何が必要ですか。

信者が有効な婚姻を結ぶには、無効障害を持たないこと、また少なくとも主任司祭(また教区長)あるいはその代理と二人の証人の前で、自由に婚姻の同意を表明することが必要です。

845 信者が正当な婚姻を結ぶためには何が必要ですか。

信者が正当な婚姻を結ぶためには、禁止障害を持たないこと、またキリスト教の主な教えを知り、恩恵の状態にあることが必要です。これがないと汚聖の罪を犯すことになります。

846 婚姻の障害とは何ですか。

婚姻の障害とは、婚姻を無効あるいは違法とする事情のことで、前者を無効障害、後者を禁止障害と呼びます。

847 無効障害の例をあげて下さい。

無効障害とは、三親等の血縁関係、霊的親族関係、公的誓願、異宗支障などのことです。

848 禁止障害の例をあげて下さい。

禁止障害とは、混宗支障、私的誓願などのことです。

849 婚姻に障害のあることがわかった場合、教会関係者に知らせる義務がありますか。

婚姻に障害のあることがわかった場合、教会関係者に知らせる義務があります。そのために、主任司祭は婚姻の予告をすることになっています。

850 婚姻の障害を定め、免除する権能と、婚姻が有効か否かを判断する権能を有するのはだれですか。

婚姻の障害を定め、婚姻が有効か否かを判断する権能を有するのは、教会だけです。また、教会だけが婚姻の障害を免除することができます。

851 なぜ教会だけが婚姻の障害を定め、婚姻が有効か否かを判断する権能を有するのですか。

教会だけが、婚姻の障害を定め、婚姻が有効か否かを判断する権能と障害を免除する権能とを有するのは、信者同志の婚姻において、契約と秘跡を切り離すことはできず、婚姻の契約も教会の権能のもとにあるからです。また、教会だけが聖なる事柄に関する法を定め、決定する権能をイエズス・キリストから授けられたからです。

852 国家は離婚によってキリスト教的婚姻の絆を解消することはできますか。

国家は秘跡に介入する力も、神が結び合わされたものを離す力も有しませんから、キリスト教的婚姻の絆を解くことはできません。

853 民法上の結婚とは何ですか。

民法上の結婚とは、夫婦とその子供に民法上の効果を与え保証するために、国法により定められた結婚の形式のことです。

854 信者には、民法上の結婚だけで充分ですか。

民法上の結婚は秘跡ではないので、信者にとって真の婚姻とはなりません。従って、信者には民法上の結婚だけでは充分ではありません。

855 それでは、民法上の結婚をして同居する男女の信者はどういう状態にありますか。

民法上の結賠をして同居する男女の信者は、大罪を犯し続けていることになり、その夫婦行為は神と教会の掟に反する行為となります。

〔註〕民法上の結婚は、秘跡としての真の婚姻ではありませんが、信者は市民として民法上    の効果を得るために、民法に従ってすみやかに届け出なければなりません。

徳および信者の知っておくべき事柄

第一章・おもな徳

Ⅰ  対神徳について

856 徳とは何ですか。

徳とは、善を知り、これを容易かつ敏速に実行させる霊魂の習性のことです。

857 おもな超自然徳はいくつありますか。

おもな超自然徳は、三つの対神徳と四つの枢要徳の七つです。

858 対神徳には何がありますか。

対神徳には、信仰、希望、愛の三つがあります。

859 なぜ信仰・希望・愛の超自然徳が対神徳と呼ばれますか。

信仰・希望・愛の超自然徳は、神御自身がお与えになる徳で、神を直接の対象としますから、対神徳と呼ばれるのです。

860 直接神を対象にするとはどういうことですか。

直接神を対象にするとは、人は、信仰の徳によって神と神の啓示された事柄を信じ、希望の徳によって神を所有する希望をもち、愛の徳によって神を愛し、神のために自分と隣人を愛することです。

861 いつ神は対神徳を霊魂に注入されますか。

神は成聖の恩恵をお与えになる時、霊魂に対神徳を注入されます。従って、人は洗礼の秘跡を授かる時、聖霊の賜物と一緒にこれらの徳を受けるのです。

862 救いを得るためには、洗礼において対神徳を注入されるだけで充分ですか。

物事をわきまえる年令に達した人が救いを得るには洗礼において対神徳を注入されるだけでなく、これらの徳を実践しなければなりません。

863 いつ信仰・希望・愛の徳を実践しなければなりませんか。

信仰・希望・愛の徳を実践しなければならないのは、① 物事をわきまえる年令に達してから、② 生きている間に何度も、③ そして、生命が危うい時です。

Ⅱ  信仰の徳について

864 信仰の徳とは何ですか。

信仰の徳とは、神が霊魂に注入される超自然徳で、これによって人は、神が啓示された事柄および、教会の教える真理を神の権威によって受け入れるのです。

865 どこで神から啓示された真理を知ることができますか。

神から啓示された真理は、不可謬性を有する聖なる教会を通じて知ることができます。すなわち、イエズス・キリスト御自身から直接教えを受けた聖ペトロの後継者である教皇および使徒たちの後継者である司教団を通して知るのです。

866 聖なる教会が教える事柄を確信できますか。

教会は決して欺かれない、というイエズス・キリストのおことばがありますから、聖なる教会の教える事柄を確信できます。

867 どのような罪を犯すと信仰の徳を失いますか。

教会が教える信仰箇条の一つでさえも、否定したり、わざと疑ったりすれば信仰の徳を失います。

868 どうすれば一旦失った信仰の徳を新たに得ることができますか。

一旦失った信仰の徳を新たに得るためには、犯した罪を悔み、聖なる教会の信じることをことごとく再び信じなければなりません。

Ⅲ  信仰の奥義について

869 信仰の真理をすべて理解することができますか。

信仰の真理をすべて理解することはできません。中には信仰の奥義と呼ばれるものがあるからです。

870 奥義とは何ですか。

奥義とは、理解できなくても信じなければならない、人間の理性を超越した真理です。

871 なぜ奥義を信じなければなりませんか。

無限の真理であり善であって、人を欺くことも、御自分を欺くこともあり得ない神が奥義を啓示されたからです。

872 奥義は理性に反しますか。

奥義は人間の理性を超越するものですが、理性に反するものではありません。それどころか、理性が奥義を信じるよう働きかけるのです。

873 なぜ奥義は理性に反しないのですか。

奥義を啓示されたのは、人間に理性の光をお与えになった神御自身にほかならず、神が自己矛盾をおかされることはあり得ませんから、奥義は理性に反しないのです。

Ⅳ  聖書について

874 神が啓示された真理はどこに見出すことができますか。

神が啓示された真理は、聖書と聖伝に見出すことができます。

875 聖書とは何ですか。

聖書とは、預言者、聖書記者、使徒、福音史家たちが聖霊の神感によって書き記した一連の書物で、教会が正典と認め受け入れたものです。

876 聖書は幾部から成っていますか。

聖書は旧約聖書と新約聖書の二部から成っています。

877 旧約聖書とは何ですか。

旧約聖書とは、イエズス・キリスト以前に神感によって書かれた書物です。

878 新約聖書とは何ですか。

新約聖書とは、イエズス・キリスト以後に神感によって書かれた書物です。

879 聖霊の神感とは何ですか。

聖霊の神感とは、① 聖書の著者に筆をとる心を起こさせ、② その知恵と意志とを書くべきものに向かわせてそれを書かせ、③ 書くときに誤りがないように導く神の超自然の御助けです。

880 聖書の正典とは何ですか。

聖書の正典とは、教会が確かに聖霊の神感によって書かれたものであると認めた一連の書物のことです。教会は聖伝によってのみ、どの本が聖書の正典に属するかをはっきりと知ることができます。

881 なぜ聖書は書物中の書物と言われますか。

聖書が書物中の書物と言われるのは、その内容と主な著者が崇高であるからです。

882 聖書に誤りがあり得ますか。

聖書に誤りはあり得ません。聖書は神の霊感によって書かれたもので、そのどの部分も神を著者としていただいているからです。

883 聖書の写本や禰訳に誤りはあり得ますか。

聖書の写本や翻訳には、写本家や翻訳の誤りはあり得ます。しかし、カトリック教会が校閲し、認可した版には、信仰と道徳に関する誤りはあり得ません。

884 信者はみな聖書を読む義務を有しますか。

信者にとって聖書を読むのは非常に有益で、大いに勧められています。しかし、聖書の主な内容は、すでに教会の教えに含まれていますから、すべての信者が聖書全部を読む義務を有するわけではありません。

885 聖書のどの翻訳を読んでもよいのですか。

聖書のどの翻訳も、カトリック教会によって、原典に忠実であると認められ、教会の認めた注釈を備えている限り、読むことができます。

886 なぜ教会が認可した翻訳しか読むことができないのですか。

教会が認可した翻訳しか読むことができないのは、教会だけが聖書の正当な保護者であるからです。

887 聖書の真の意味は、だれを通して知ることができますか。

聖書の真の意味は、教会を通してのみ知ることができます。教会だけが、聖書の解釈において誤りを犯すことがないからです。

888 プロテスタントの人から新教の聖書を読むように渡されたとき、カトリック信者はどうしますか。

プロテスタントの人から新教の聖書を読むように渡されたとき、カトリックの信者は、それを読むべきではなく、手元にも置かないようにします。

889 なぜカトリック教会は新教の聖書を禁じるのですか。

カトリック教会が新教の聖書を禁じるのは、内容に変更が加えられ、誤りを含んでいたり、意味の難しい章句の解釈に誤りがあったり明白な説明に欠けているために信者の信仰に悪影響を与えるからです。そのため、たとえ以前にカトリック教会が認めた聖書であっても、教会が認める注釈を加えない改定版は禁じられています。

Ⅴ  聖伝について

890 聖伝とは何ですか。

聖伝とは、イエズス・キリストと使徒たちによって口づから教えられ、その後代々にわたって変更なしに教会を通して継承され、私たちの時代まで伝えられた書き記されていない神の御言葉です。

891 聖伝の教えはどこに見出されますか。

聖伝の教えは、主に公会議の教令、教父たちの著作、ローマ教会に残る記録、典礼のことばや慣習などの中に見出されます。

892 聖伝は聖書と同様に重んずべきですか。

聖伝は、聖書の神の御言葉と同様に重んずべきです。

Ⅵ  希望の徳について

893 希望の徳とは何ですか。

希望の徳とは、神が霊魂に注入される超自然徳で、これによって人は、神が御自分に仕える者に約束された永遠の生命とそれを得るために必要な手段を望み、期待します。

894 なぜ神に、永遠の至福とそれを得るための手段を望み、期待しなければならないのですか。

神に、永遠の至福とそれを得るための手段を望み、期待しなければならないのは、主イエズス・キリストの御功徳によって、慈悲深い神が、御自分に心から仕える者にそれをお約束になり、忠実で全能の神は常に御約束を果されるからです。

895 永遠の至福を得るために必要な条件は何ですか。

永遠の至福を得るために必要を条件は、神の恩恵、善業、そして死に至る迄神の愛に忠実であることです。

896 希望の徳を失うのはどういう時ですが。

信仰を失えば必らず希望の徳を失いますが、ほかに絶望やうぬぼれの罪によっても希望の徳を失います。

897 どのようにすれば、一旦失った希望の徳を再び得ることができますか。

一旦失った希望の徳は、犯した罪を悔み、神の愛に信頼することによって再び得ることができます。

Ⅶ  愛の徳について

898 愛の徳とは何ですか。

愛の徳とは、神が霊魂に注入される超自然徳で、これによって人は、神を神ゆえに、何ものにもまして愛し、また神のために隣人を自分と何じように愛します。

899 どういう動機から神を愛さなければなりませんか。

神を愛するのは、神が最高善であり、無限の善性と完全性を有しておられるからで、神を愛せよという掟から、また授かった多くの恵みのためでもあります。

900 どのようにして神を愛さねばなりませんか。

何ものにもまして、心を尽し、精神を尽し、霊を尽し、力を尽して神を愛さねばなりません。

901 何ものにもまして神を愛するとはどういう意味ですか。

何ものにもまして神を愛するとは、最も完全だと考え愛するあらゆる被造物にもまして神を愛し、全てを投げうっても神を侮辱したり、神への愛を失ったりしない覚悟があるという意味です。

902 心を尽して神を愛するとはどういう意味ですか。

心を尽して神を愛するとは、愛情をことごとく神にささげることを意味します。

903 精神を尽して神を愛するとはどういう意味ですか。

精神を尽して神を愛するとは、すべての思いを神に向けることを意味します。

904 霊を尽して神を愛するとはどういう意味ですか。

霊を尽して神を愛するとは、霊魂の能力すべてを神にささげることを意味します。

905 力を尽して神を愛するとはどういう意味ですか。

力を尽して神を愛するとは、絶えず神への愛に成長し、何事も、つねに神への愛と神をおよろこばせする望みに動かされて果すことを意味します。

906 なぜ隣人を愛さねばなりませんか。

隣人を愛さねばならないのは、神がそうお命じになったから、また、人はみな神のかたどりだからです。

907 敵をも愛すべきですか。

敵をも愛すべきです。敵も私たちの隣人であり、イエズス・キリストも敵を愛するようにとはっきりお命じになったからです。

908 人を自分と同じように愛するとはどんなことですか。

人を自分と同じように愛するとは、自分に望む善をできる限り、人のために望み、与え、さらに、人には悪を望まず、悪を働かないことです。

909 自分を正しく愛するとはどのようなことですか。

自分を正しく愛するとは、神への奉仕につとめ、神にすべての幸福を求めることです。

910 どのような罪を犯すと愛の徳を失いますか。

大罪を犯せば、愛の徳を失います。

911 どのようにすれば一旦失った愛の徳を再び得ることができますか。

神への愛の行為および痛悔とよい告解によって、一旦失った愛の徳を再び得ることができます。

Ⅷ  枢要徳について

912 枢要徳にはどんなものがありますか。

枢要徳には、賢明、正義、剛毅、節制の徳があります。

913 なぜ、賢明、正義、剛毅、節制が枢要徳と呼ばれるのですか。

賢明、正義、剛毅、節制が枢要徳と呼ばれるのは、これらが、すべての倫理徳のかなめであり、基礎であるからです。

914 賢明とは何ですか。

賢明とは、全ての行ないを正しい目的に向かわせる徳で、これによって人間の行ないがよい成果をあげ、ひいては神をおよろこばせする結果を得るように、適切な手段を捜し求めます。

915 正義とは何ですか。

正義とは、他人に対して尽すべき責務を全うし、他人の権利をおかさないよう心がけさせる徳です。

916 剛毅とは何ですか。

剛毅とは、神への奉仕のためには、危険も、死さえもいとわぬ力を与える徳です。

917 節制とは何ですか。

節制とは、感覚的な快楽を無秩序に求める気持を抑え、この世のものを節度をもって使用させる徳です。

第二章・聖霊のたまもの

918 聖霊のたまものにはどんなものがありますか。

聖霊のたまものには次の七つがあります。

① 上智、

② 聡明、

③ 賢慮、

④ 剛毅、

⑤ 知識、

⑥ 孝愛、

⑦ 敬畏

919 聖霊のたまものはどんな働きをしますか。

聖霊のたまものは、信仰・希望・愛の徳を支え、固め、キリスト教的生活を完成させるために必要な諸徳をすばやく実践する助けを与えます。

920 上智とは何ですか。

上智とは、知性を、地上のはかない物事に執着させず、永遠の価値あるものをながめさせるたまもの、つまり、永遠の真理であり、人間の幸福である神を愛し、味わわせるたまものです。

921 聡明とは何ですか。

聡明とは、人間の理性の力だけでは悟ることのできない信仰の真理および神の奥義の理解を助けるたまものです。

922 賢慮とは何ですか。

賢慮とは、生活上の疑問や不安を感じたとき、何が神の栄光と私たちや隣人の救いに役立つかをはっきり悟らせるたまものです。

923 剛毅とは何ですか。

剛毅とは、神と教会の掟を忠実に守るための勇気と力を与えるたまもので、これによって人は、あらゆる障害と敵の攻撃にうち勝つことができます。

924 知識とは何ですか。

知識とは、被造物について正しい判断を下し、これを正しく用い、究極の目的である神に向かわせるたまものです。

925 孝愛とは何ですか。

孝愛とは、諸聖人を崇敬し、愛し、神のために隣人に対して慈悲深く、寛大にさせるたまものです。

926 敬畏とは何ですか。

敬畏とは、神の崇拝をすすめ、神を侮辱することを恐れさせ、悪を捨て善に向かわせるたまものです。

第三章・至福八端

927 至福八端にはどのようなものがありますか。

至福八端は次の通りです。

① 心の貧しい人は幸いである。天国はかれらのものである。

② 柔和な人は幸いである。かれらは地を受け継ぐであろう。

③ 苦しむ人は幸いである。かれらは慰めを受けるであろう。

④ 義に飢えかわく人は幸いである。かれらはあかされるであろう。

⑤ あわれみのある人は幸いである。かれらはあわれみを受けるであろう。

⑥ 心の清い人は幸いである。かれらは神を見るであろう。

⑦ 平和のために働く人は幸いである。かれらは神の子と呼ばれるであろう。

⑧ 義のために迫害を忍ぶ人は幸いである。天国はかれらのものである。

828 イエズス・キリストはなぜ至福八端をお示しになりましたか。

イエズス・キリストが至福八端をお示しになったのは、信者が世俗的な教えを嫌い、すすんで福音の教えを実行するためです。

929 俗世間で、幸いといわれるのはどのような人ですか。

俗世間で幸いといわれるのは、巨大を富と名誉を有し、生活を満喫し、苦しみを味ったことのない人です。

930 イエズス・キリストが幸いだとおおせになった心の貧しい人とはどのような人たちですか。

イエズス・キリストが幸いだとおおせになった心の貧しい人とは、富から離脱した心を持ち、富を有するときはこれを正しく用い、富のないときは特にこれを求めず、富を失ったときには耐え忍ぶことのできる人たちです。

931 柔和な人とはどのような人たちですか。

柔和な人とは、やさしく人に接し、他人の欠点や侮辱を忍び、不平を言ったり、恨んだり、復讐したりしない人たちです。

932 苦しんでいるにもかかわらず、幸せであると言われる人はどのような人たちですか。

苦しんでいるにもかかわらず、幸せであると言われる人は、苦難を耐え忍び、この世にある罪や悪や中傷を見て心を痛め、天国への道は遠く、しかも天国を失う危険のあることを嘆き悲しむ人たちです。

933 義に飢えかわく人とはどのような人たちですか。

義に飢えかわく人とは、神の恩恵と善業にたえず成長することを熱心に望む人たちです。

934 あわれみのある人とはどのような人たちですか。

あわれみのある人とは、神を愛し、神のために人を愛し、霊的、物的に困っている人たちをあわれみ、自分の力と地位に応じて助けの手をさしのべる人たちです。

935 心の清い人とはどのような人たちですか。

心の清い人とは、罪を忌みきらい、罪のない清い生活を送り、特に貞潔に反する罪をすべて避ける人たちです。

936 平和のために働く人とはどのような人たちですか。

平和のために働く人とは、心の平和と人との平和な関係を保ち、相敵対する人々を和解させる人たちです。

937 義のために迫害を忍ぶ人とはどのような人たちですか。

義のために迫害を忍ぶ人とは、信仰とイエズス・キリストの御教えゆえに、人の侮辱、冒涜、迫害を耐え忍ぶ人たちです。

938 イエズス・キリストが、至福八端において約束しておられる種々の報いは究極的には何のことですか。

イエズス・キリストが、至福八端において約束しておられる種々の報いは究極的には天国の永遠の栄光のことです。

939 至福八端は天国における永遠の栄光だけを与えますか。

至福八端は、天国における永遠の栄光を与えるだけではなく、この世においてできるだけ幸福な生描を送るための手段ともなっています。

940 至福八端の教えに従う者は、この世においても報いを受けますか。

至福八端の教えに従う者は、この世においても報いを受けます。それは、至福八端に従うことによって、不完全であるとは言え、永遠の幸福のはじまりである内的な平和と満足を享受できるからです。

941 俗世間の教えに従う者が幸せであると言えますか。

俗世間の教えに従う者は、魂の真の平和を持たず、大きな罰を受ける危険に身をさらしていますから、幸せであるとは言えません。

第四章・慈善事業

942 審判の日に特に報告すべき善業は何ですか。

審判の日に特に報告すべき善業は慈善事業です。

943 慈善事業とは何ですか。

慈善事業とは、霊的、物的に隣人を助けることです。

944 物的な慈善事業の主なものは何ですか。

物的な慈善事業の主なものは次の通りです。

① 病人を見舞い世話をすること。

② 飢える人に食を与えること。

③ 渇く人に飲ませること。

④ 旅人に宿を貸すこと。

⑤ はだかの人に着せること。

⑥ とらわれ人を救うこと。

⑦ 死者を葬ること。

945 霊的慈善事業の主なものは何ですか。

霊的慈善事業の主をものは次の通りです。

① 無学な人に教えること。

② 必要とする人に助言を与えること。

③ 罪人を善に導くこと。

④ 侮辱を許すこと。

⑤ 悲しむ人を慰めること。

⑥ 人の欠点を耐え忍ぶこと。

⑦ 生ける人と死せる人のために祈ること。

第五章・罪とその種類

946 罪には幾種類ありますか。

罪には、原罪と自罪の二種類があります。

947 原罪とは何ですか。

原罪とは、入祖アダムの不従順の罪ですが、その子孫にも伝わりました。そのため人は生れながらにしてこの罪を持っています。

948 アダムの罪はどんな害を与えましたか。

アダムの罪が与えた害は、恩恵の喪失、楽園からの追放、無知、悪への傾き、死をはじめとするあらゆるわざわいです。

949 原罪はどのようにして消すことができますか。

原罪は洗礼によって消すことができます。

950 自罪とは何ですか。

自罪とは、物事をわきまえる年令に達した者が自由意志をもって犯す罪のことです。

951 自罪には幾種類ありますか。

大罪と小罪の二種類があります。

952 大罪とは何ですか。

大罪とは、神の掟を破ることで、これによって神と他人や自分に対する重大な過失を犯します。

953 なぜ大罪と呼ばれますか。

大罪と呼ばれるのは、成聖の恩恵を失わせることによって、肉体の生命である霊魂の命を奪い、霊魂に死をもたらすからです。

954 大罪は霊魂にどのような害を与えますか。

大罪は、霊魂から神の恩恵と神との親しさを奪い、天国への道を閉ざし、すでに獲得した功徳を取り去り、新たな功徳を得ることを不可能にし、霊魂を悪魔に隷属させ、さらに地獄とこの世の罰を招きます。

955 大罪が成立するには、重大な事柄のほかにどのような条件がそろったときですか。

大罪が成立するのは、重大な事柄のほかに、重大であることをはっきり意識し、完全に承諾して犯すという条件がそろったときです。

956 小罪とは何ですか。

小罪とは、神の掟にわずかに背くことで、これによって、神と他人や自分の義務に反する軽い過失を犯します。

957 なぜ小罪と呼ばれますか。

小罪は大罪と比較すれば軽いので、神の恩恵を失うことはなく、神のゆるしも容易に得ることができるからです。

958 それでは小罪を軽視してもよいのですか。

たとえ軽い罪であっても常に神を侮辱することには変わりなく、霊魂に多大の害を与えますから、小罪を軽視するのは大きな誤りです。

959 小罪はどのような害を与えますか。

小罪は次のような害を与えます。① 愛の徳を冷し、力を失わせ、② 大罪に陥る危険を多くし、③ この世あるいは来世において有限の罰を招きます。

第六章・罪源と他の重大な罪

960 悪徳とは何ですか。

悪徳とは、善を避け、悪を行なう悪い心の傾きで、悪業をたびたび繰り返すことによって生じます。

961 罪と悪徳との相違は何ですか。

罪はその場限りの行為ですが、悪徳は罪を犯す習慣のことです。

962 罪源と呼ばれる悪徳はいくつありますか。

罪源と呼ばれる悪徳は次の七つです。① 高慢、② 物欲、③ 色欲、④ 憤怒、⑤ 貪食、⑥ ねたみ、⑦ 怠惰

963 どのようにすれば罪源にうち勝つことができますか。

罪源にうち勝つには、それぞれに反対する徳を実践しなければなりません。つまり、高慢は謙遜によって、物欲は寛大さによって、色欲は貞潔によって、憤怒は忍耐によって、貪食は節制によって、ねたみは兄弟愛によって、怠惰は神の奉仕に対する努力と熱意とによってうち勝つことができます。

964 なぜこれらの悪徳が罪源と呼ばれますか。

これらの悪徳が罪源と呼ばれるのは、他の多くの悪徳と罪の源であり、原因であるからです。

965 聖霊に反する罪はいくつありますか。

聖霊に反する罪は次の六つです。① 救霊の希望を失うこと、② 功徳を持たないのに当然救われるとうぬぼれること、③ 知っている真理を認めず攻撃すること、④ 他人の恩恵をうらやみ、悲しむこと、⑤ 罪に固執すること、⑥ 痛悔せずに死ぬこと。

966 なぜこれらは聖霊に反する罪と呼ばれますか。

これらが聖霊に反する罪と呼ばれるのは、いずれも全くの悪意から犯されるもので、聖霊に帰せられる善性にまっこうから反対するからです。

967 「天に向って叫ぶ罪」はいくつありますか。

「天に向って叫ぶ罪」は次の四つです。① 故意の殺人、② 自然の秩序に反する不純の罪、③ 貧者の圧迫、④ 労働者の賃金搾取や不当な支払停止。

968 なぜ、これらは、「天に向って叫ぶ罪」と呼ばれますか。

これらの罪が 「天に向って叫ぶ罪」と呼ばれるのは、聖霊がそうおおせになられた上にその邪悪さが非常に重大で、明らかであるため神の最も厳しい罰を招くからです。

第七章・四終と罪を避ける方法

969 四終とは何を示すことばですか。

四終とは、聖書で使われる言葉で、人間の生活の最後に起こることがらを示します。

970 四終、つまり人間の生活の最後に起こることがらにはいくつありますか。

四終、つまり人間の生活の最後に起こることがらには、死・審判・地獄・天国の四つがあります。

971 四終の一つ一つを説明して下さい。

死はこの世の人にとっては最後に起こること、神の審判は人の受けるべき裁きの最後のもの、地獄は悪人が受ける最悪のもの、天国は善人が受ける至福の栄光のことです。

972 いつ四終について考えなければなりませんか。

四終について考えれば罪を避けるために効果的ですから、毎日、特に起床の祈りと就寝の祈りのとき、そして誘惑を感じた時に四終について考えなければなりません。

第八章・毎日の信心業

973 朝、目を覚ましたとき何をすべきですか。

朝、目を覚ましたときには、十字架のしるしをし、起床の祈りを唱え、心を神にささげるべきです。

974 床から起きて身仕度を整える間、何を考えるべきですか。

寝床から起きて身仕度を整える間、神が現存されること、またその日が一生の最後になるかもしれないことを考え、節度ある態度で身づくろいをすべきです。

975 起床し、身仕度を整えたあと何をしますか。

身仕度を整えたら、神の御前に居ることを思い、できれば、十字架の前にひざまづき、心から「天主の御前に出でてうやうやしく礼拝せん」、「御恵みを感謝しわが身を献げん」、「罪を避け徳を修むる志を立てん」、「必要なる御恵みを天主に願わん」などの祈りを唱えたあと、主の祈り、天使祝詞、使徒信経、ついで、信徳唱、望徳唱、愛徳唱を唱えます。

976 毎日実践すべき信心の行ないにはどんなものがありますか。

信者ができるだけ毎日実践すべき信心の行ないには次のようなものがあります。① 信心をこめて、ミサ聖祭にあずかる、② たとえ短時間であっても、御聖体訪問をする、③ ロザリオの一連を唱える。

977 仕事を開始するとき何をしますか。

仕事を開始するときには、「主よ、この仕事を御身におささげします。御身の祝福をお与え下さい」と祈り、仕事を神にささげます。

978 どういう目的のために働くべきですか。

神の栄光と神の御旨を果す目的で働くべきです。

979 食卓につく前に何をしますか。

食卓につく前には、立ったままで十字架のしるしをし、次のように祈ります。「主、願わくばわれらを祝し、また主の御恵みによりて、われらの食せんとするこのたまものを祝し給え。われらの主キリストによりて願いたてまつる。アーメン」。

980 食事を終えたとき何をしますか。

食事を終えたら、十字架のしるしをし、次のように祈ります。「とこしえにしろしめし給う全能の天主、数々の御恵みを感謝したてまつる。アーメン。願わくは、死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。アーメン」。

981 悪魔の誘惑を感じたとき何をすべきですか。

悪魔の誘惑を感じたときには、信心をこめて、イエズスと聖母マリアの御名を呼び、たとえば、「主、御身を侮辱することがないように恩恵をお与え下さい」などの射祷を熱心に唱えるべきです。また、他人に気づかれないように十字架のしるしをするのもよいことです。

982 罪を犯したことに気づいたり、その疑いのあるときにはどうしなければなりませんか。

罪を犯したことに気づいたり、その疑いのあるときには、直ちに、痛悔の祈りを唱え、できるだけ早く告解にあずからなければなりません。

983 教会の前を通りかかったときミサ聖祭や聖体降福式の途中であることがわかるとき何をすべきですか。

ミサ聖祭中の教会の前を通りかかったときには、少なくとも霊的聖体拝領唱をとなえて御聖体を讃え、神を礼拝する祈りなどを唱えるよう心がけるべきです。

984 ほかに、どんな祈りを唱えますか。

ほかに、少なくとも正午に「御告げの祈り」を唱えます。

985 毎晩、何をすべきですか。

毎晩、神の現存を思い、朝と同じ祈りを心をこめて唱え、良心の糾明をし、その日に犯した罪のゆるしを願うべきです。

986 寝る前に何をしますか。

寝る前には十字架のしるしをし、その夜自分の一生が終わりうることを考え、たとえば、「イエズス、マリア、ヨゼフ、心と霊魂とを御手にまかせたてまつる。イエズス、マリア、ヨゼフ、臨終のもだえのときに、われを助け給え。イエズス、マリア、ヨゼフ、御保護のもとに安らかに息絶えるを得しめ給え。守護の天使、保護の聖人、我を照らし、守り、導き給え。アーメン」など就寝の祈りを唱え、神に心をささげます。

987 朝晩の祈りのほか、日中にしばしば神に祈るにはどんな方法がありますか。

朝晩の祈りのほか、日中にしばしば、射祷と言われる短い祈りを唱えることができます。

988 射祷をいくつかあげて下さい。

「わが天主、わがすべてよ」、「わが天主、わが心の底より主を愛し奉る」、「わがイエズス、あわれみ給え」、「至聖なるイエズスの御心、御国の来らんことを」。

989 毎日多くの射祷を唱えるのはよいことですか。

毎日多くの射祷を唱えるのは非常によいことです。射祷は、歩いているときも仕事のときにもことばにすることなく、心の中で唱えることができます。

990 信者は射祷のはかに何をすべきですか。

信者は射祷のほかにキリスト教的な苦業を実践すべきです。

991 苦業とはどのようなことですか。

苦業とは、好きなものを控えたり、五感に不快なものや自尊心をきずつけるようなことがらを神の愛ゆえに受入れることです。

992 病人に御聖体が運ばれる時には何をしますか。

病人に御聖体が運ばれる時には、できるなら、潜心し、節度ある態度を保ち随伴します。しかし、それができない時は、その場で御聖体を礼拝し、次のように祈ります。「主、病いの床にある者に主の御慰めと主の御旨に応ずる恩恵を与え、病人の魂を救われんことを」。

993 臨終の床にある人がいることを知った時何をしますか。

臨終の床にある人がいることを知った時には、できるなら教会に行き、その人のために祈ります。それができない時は、自分もやがて死に至る者であることを思いその人のために主に願います。

994 死者があったことを知った時は何をしますか。

死者があったことを知った時には、「すべての死者のための祈り」や「デ・プロフンディス」を唱えると共に、死の意味を新たに考えます。