マイケル・デイヴィース著
成相明人 訳
1570年に「トレント公会議のミサ」を制定した教皇ピオ五世
「日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる」(マラキア 一・十一)
「わたしたちのミサは、本質的変化無しに、最も古い典礼から発展した時代にまでさかのぼることができます。それは、一方では、シーザーが世界を征服し、キリスト教の信仰を踏み消すことができると思い、他方では、わたしたちの信仰の祖先たちが夜明け前に集まり、神であるキリストを讃えて賛歌をささげた時代の典礼を思い起こさせるものです。未解明の問題は残るものの、また、後の時代に加えられた変更にもかかわらず、キリスト教世界にトレント公会議のミサほど由緒ある儀式は他に存在しない、というのが本研究の最終結論です」
アドリアン・フォルテスキュー
ミサ・ローマ典礼の研究(一九一二年)、二百十三ページ「ほぼ、聖グレゴリオ(†六〇四年)の時代以降から、それほど大切でない細々した点を除いてだれも敢えて変更しようとしなかった、典文、式次第、順番が、聖なる伝統として残っています」
アドリアン・フォルテスキュー
ミサ・ローマ典礼の研究(一九一二年)、百七十三ページ
この小冊子は主に、アドリアン・フォルテスキュー神父の古典的研究書The Mass: A Study of the Roman Liturgy, London, 1912(ミサ・ローマ典礼の研究)に見られる材料を編集したものです。いくつかの重要箇所には引用箇所を挙げてはあります。が、本書はもちろんそれ以上にこの偉大な司祭・研究者の著書に基づいています。フォルテスキュー神父の著書は現在絶版になっています。しかし、この小冊子をとおしてその実りの幾分かを皆さんも味わって欲しいものです。また、近い将来、ミサに関するフォルテスキュー神父の著書をさらに広範に再編集・出版できることを希望しています。
マイケル・デイヴィーズ
ミサの歴史に関する最古の出典は、明らかに新約聖書の中にある最後の晩餐の記述です。そもそも、キリスト教の典礼が存在するのは、わたしたちの主がご自分のことをわたしたちが忘れないように、ご自分のなさったことをするようにおっしゃったからです。異なる様式に従う感謝の典礼儀式によって少々の差異があったとしても、例外なくどの典礼も「これ」つまり、ご自分がなさったことをするように、というそのご命令に従います。聖体祭儀の決定的な祝い方は主の死から十年も経過しないうちに発達し、一世紀の終わりが過ぎる頃まで継続されました。さらに、一五七〇年、最終的完成を見たローマ教会のミサにも明白にその名残を見ることができます。
聖体祭儀に関して、最も古く、かつ最も詳細を究めた記述は聖パウロのコリント前書にあります。それはもちろん福音書に先立つものです。書かれた場所はエフェソ。年代は紀元五二〜五五年です。コリント前書で聖パウロが使った式文は、使徒たちが執り行っていた典礼がすでに採用されていた式文そのものであることについて、学者たちは一致しています。聖パウロを引用しましょう。
わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。: 食事ののち、杯をも同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。: だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである(コリント前書十一・二十三〜二十七)。
このくだりは教義的にも意義深いものがあります。聖体祭儀と御受難の同一化がそれです。イエズスの血によって、新しく、かつ永久的契約が神と人との間に結ばれます。主の生け贄は神秘的に最後の晩餐で先取りされていました。使徒たちは、そして含蓄的に彼らの後継者たちは、主を記念して聖体祭儀を祝うよう命令されています。この記念の効力は絶対的で、それは救いをもたらす主の死を世の終わりに至るまで継続させる宣言にほかならず、それは主が再臨ローマ教会のミサ小史の日に栄光の中に帰って来られる日まで実際に主の受難を再現させます。聖体祭儀は受難(ギリシヤ語ではアナムネシス)の記念であり、それは祭壇上で実際に血を流すことがなくとも主の受難を再現させます。最後になりますが、わたしたちの救い主の御体と御血をささげ、拝領するというこの聖なる儀式にあずかるためには魂の絶対的な清らかさが必要とされます。
聖パウロの記述と共観福音記者の記述を組み合わせると、初代のすべての典礼で見られた聖体祭儀典礼の本質的要素に到達します。主はパンを取られ、感謝をささげ、祝福し、それを割られ、弟子たちに食べさせるためにそれをお与えになりました。その後、主はブトウ酒の杯を取り、また感謝をささげ(ルカとパウロはこの二度目の感謝を省略しています)、その上に制定(もしくは聖別)の言葉を唱え、弟子たちに与えて、飲ませられました。このようにして、ここにキリスト教の聖体祭儀に必要な五つの必須の要素があるのに気づきます。1・パンとブドウ酒が祭壇に運ばれる。2・祭司が感謝をささげる。3・そして、パンを取り、それを祝福し、聖別の言葉を唱える。4・同じことをブドウ酒に対しても行う。5・聖別されてキリストの体になったパンは割られ、カリスの中身つまり聖なる御血と共に参加者が拝領する。
典礼に関するわたしたちの知識は二世紀になるとさらに増加します。異教徒であったローマ人、当時、ビシニア総督であった、小プリニウス、つまりC・プリニウス・チェチリウス(およそ六十二〜一一三年)の証言は特筆に値します。一一一〜一一三年頃、彼は皇帝トラヤーヌスに報告を送り、キリスト教徒の取り扱いについて指示を仰いでいます。彼は、拷問に絶えかねて棄教したキリスト信者たちから、キリスト信者について聞いたことを描写しています。棄教者であった情報提供者について、彼は満足そうに書いています。「全員が皇帝と神々の像を礼拝した後、キリストを呪っています」。それから、彼は棄教者たちがキリスト教の礼拝について漏らしたことを報告しています。
彼らは、定まった日(stato die)の夜明け前(ante lucem)に集まり、二組に分かれて交互に(secum invicem)神であるキリストを誉め称える聖歌を歌い、誓い(sacramento)によって犯罪を犯さないこと、盗んだり、姦淫したり、嘘をついたり、約束を破ったりしないこと、あずかったものを返すことを拒まないことを約束します。これが、自分たちの落ち度もしくは過ちのすべてであることを白状しています。その後、彼らは散会するのですが、再び集まって、普通の無害な食物を食べるのでした。彼らの言うところによると、彼ら(棄教者で情報提供者)は、あなたがお命じになったように、私的な集会(hetarias)を禁じたわたしの命令以後、そうすることを止めたそうです。1
定まった日(status dies)は明らかに主日のことです。プリニウスによると、二つの集まりがあり、早い方では聖歌を歌い、彼らが食物、つまりアガペもしくは聖体を食べるのはもっと後からの集まりででした。決して悪いことをしない誓いというのは、おそらくプリニウスが混乱していたからそう思ったのでしょう。彼は当然、それら秘密の集いが陰謀を企む者たちのある種の誓いが関係するとでも思っていたのでしょう。情報提供者たちが白状した唯一の義務というのは悪事をしないということでした。プリニウスの手紙は初代教会の典礼についてわたしたちがすでに知っていることに、何か付け足すようなものではありません。それでも、キリスト教徒が夜明け前に集うこととか「神であるキリスト」に聖歌を歌うことなど、異教徒が初めてキリスト教に言及していることから、ここで触れる価値があります。
初代教会のキリスト信者は、ヴルガータ訳の聖書でチェナクルムと訳している、大きな食堂のある信者の家に集まって神を礼拝していました。その理由は、迫害されていたキリスト信者には大きな建物を建設することが不可能だったからです。典礼の詳細はごく初期の教父時代から世紀を経るに従ってますます分かってきます。その発展は段階的で、自然発生的でした。祈りと定型文、そして後には儀式中の動作はそうする中に定型化していきます。従属的部分の種々なやり方と、場所によって異なる箇所が大事にされることで、異なる典礼が発達することになります。しかし、すべてが最終的には聖書に見られるパターンに落ち着きます。ローマのミサは、中世期の教皇の規定とかでなく、わたしたちがまず書簡、使徒行録、福音の中に見いだす典礼形式です。
最初の二世紀、典礼的一致はかなり存在してはいたものの、それは絶対的一致ではありませんでした。もしかすると三世紀末かもしれませんが、遅くとも四世紀半ばまでに典礼儀式書が使用され始めたのは確かです。しかし、現存する最古のテキストは七世紀のものです。西方教会ではグレゴリオ聖歌の旋律が編纂される九世紀になるまで、記符法が使用されることはありませんでした。四世紀までに使用されたことが確かに判明しているのは、教訓を朗読するために使用された聖書だけです。詩編と主の祈りを信者たちは暗記していました。それ以外の祈りは即興的なものでした。現代のわたしたちが知っているような意味での儀式書らしきものは、おそらく存在していなかったのでしょう。何をやるにしても、それは実際的目的のためになされました。教訓はしかるべき場所から、皆に聞こえるように、大きな声で読み上げられ、パンとブドウ酒が適当な時間になると祭壇に運ばれました。何であれ、明らかに最高の尊敬の念をもってなされたはずです。そして時と共に、自然に尊敬のいろいろな印が生まれ、それらは習慣として確立されるようになりました。つまり、典礼動作が儀式化されたのです。
ラバボつまり手洗いがその明らかな例です。どの典礼でも、司式者は信者が祭壇にささげたものを神にささげる前に、手を洗いますが、これは明らかに尊いものに関する細心の注意であり、尊敬の印です。聖トマスによると「わたしたちはきれいな手でなければ尊いものに触れようとしません。ですから、汚れた手でこれほどにも偉大な秘蹟に近づくことはふさわしくないように思われます」。2 手洗いはほぼ間違いなく魂を清める印になりました。これは他のどの宗教の儀式的手洗いについても言えることです。もともと、手洗いの際に唱えられる特定の祈りはありませんでしたが、司祭がそのときに清めを願う祈りを唱えるのは当然のことでした。そして、典礼儀式書にその祈りが取り込まれるようになるのです。詩編二十六にある「主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し…」こそ正にそのために打ってつけでした。ミサの儀式のほとんどはこのような純粋に実際的動作から発達しました。最初の二世紀に見られる純粋な儀式的動作は、祈りのために跪くとか立つ動作、平和の抱擁などのある種の姿勢ですが、これらはすべてユダヤ教から相続したものです。3
ミサの式順、つまり儀式の一般的大要がほぼ無意識的に恒常化したのは容易に理解できます。何であっても、同じことを絶え間なくしていれば、人々は自然に同じ仕方に落ち着くものです。それを変更するに足る理由がありませんでした。式順を突然変えたりすれば、人々は嫌がったはずです。初代教会の信者たちは、例えばどこで教訓が読まれるか、御聖体拝領がいつであるか、祈るためにいつ起立するか心得ていました。求道者たちがミサのある部分には参加していても、参加を許されなかった部分もあった事実は、ある程度統一された式順が存在したことを示しています。しかし、定型化されてはいなかったものの、祈祷文も、少なくともその輪郭が、自然と統一されることになります。ここでも、習慣、慣習がその式順を固定化するのです。人々は皇帝のために祈ることを期待されるのがいつであるか、感謝とか願い事のために祈るのがいつであるかを知っていました。最古の時代にさかのぼることができる対話形式の祈りも、少なくとも、そのような祈願の一般概念が統一されている必要がありました。人々は、司式司祭がどの時点で何を言うか知っていたからこそ、定まった時点で「アーメン」「主よ、憐れみ給え」「神に感謝」などと応答していました。ドラマ様式の対話であれば、互いが何を言うかあらかじめ知っていなければなりません。ですから、式順とか祈祷文の構成は同じになっていきます。わたしたちは、多くの場合、まったく同じ言葉が使用されているのに気づきます。時として長い祈願文であっても繰り返されます。これは容易に理解できるのです。
まず、旧新約聖書には、ユダヤ教儀式の中でよく知られていた多くの祈願文がありましたが、これらはキリスト教徒も典礼祈願文として使用しました。そのいい例は「アーメン」「アレルヤ」「主よ、憐れみ給え」「神に感謝」「…代々に至るまで」「主である神は祝せられさせ給え」などでした。それだけではありません。即興的祈祷は必ず一定の構成になってしまいます。同じことを求めて祈れば、すぐに同じ言葉を繰り返すようになるものです。これは即興の説教でも同じです。初代教会の信者たちが使用していた言葉は聖書からの引用で満ち充ちていたので、司教が祈る都度、例えそう望んだとしても、他の言葉とか形式を使用することはもはや可能ではなかったはずです。そして、別にそうする必要もありませんでした。公的な祈願で同じ表現が繰り返して使用されました。いつも聞き慣れている祈りはすぐに正しい祈りになってしまいます。特に、詩編とか主の祈りのように、典礼はすでに恒常化した形式の例を含んでいました。ミサを司式する順番を迎えた若い司教であれば、尊敬すべき先任者であった司教が唱えていたのと(記憶している限り)同じ言葉を使うに越したことはありませんでした。先輩であった司教の祈りを、人々も、そしておそらく助祭として自分自身も、しばしば耳にしていたし、またそれに対して恭しく応答していたからです。4
歴史的要因は典礼の祝い方について決定役割を果たしました。迫害があった時代には、当然、短時間に簡単に済ませることが最優先されました。コンスタンティヌス大帝による迫害停止とテオドシウス一世(三八九〜三九五)によるキリスト教の国教化は典礼儀式の発達に劇的な変化をもたらしました。集う会衆の数も増加します。教会建築とか内部造作等を賄う寄付金のお陰で祭具とか祭服も豪華になります。そのような寄付をする当人たちは、自然、可能な限り豪華で美しいものを購入することを期待します。当然、平行して、典礼の儀式も、荘厳な行列が加わり、儀式の神的性質が強調されるようしになり、もっと込み入ったものになります。四世紀に、儀式の複雑化は西側よりもむしろ東方でもっと急速、かつ大規模に進められます。しかし、キリスト教界での典礼様式の全体的変化は、不法で私的であった儀式から帝国公認の公的儀式への変化によって始まった、と言えます。
典礼に関する四世紀以降の詳しい資料はふんだんに残っています。エルサレムの聖キリロ(†三八六)、聖アタナジウス(†三七三)、聖バジリウス(†三七九)、聖ヨハネ・クリゾストムス(†四〇七)は、自分たちが行っていた儀式について入念な記録を残してくれています。ローマで初期に執り行われていた儀式については、それ以外の場所のものより情報が少ないのは残念です。コンスタンティヌス大帝治下でのカトリック教会公認と三二五年ニケアで行われた公会議は、大まかに言って、典礼研究では大きな曲がり角でしょう。四世紀頃から、完全な典礼儀式書が編纂されるようになり、教会で使用されるために最初の" Euchologion" つまりミサ式次第とか" Sacramentaries" つまり準秘蹟に関する本が書かれるようになります。" Euchologion" とは聖体の祭儀、聖務日課の固定の部分、秘蹟と準秘蹟を執行するための儀式を含む、東方教会の典礼書です。つまり、ミサ典書の主要部分、司教常式書、ローマ典礼での儀式書を包含するものです。この頃までに、昔ながらの流動的、画一的な儀式が場所によって異なる典礼に具体化します。これら異なる典礼にはすべて共通の起源が見られ、一般的に言えば同一のアウトラインに従っています。いまだに残る昔からの典礼の起源として四つの典礼にさかのぼることができます。その中の三つは、三総大司教区都市、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアです。典礼方式の一般的規則は「典礼は総大司教区に見習う」ということでしょう。残りの一つはガリカン(初期フランス)典礼ですが、これはこの規則の例外でした。ローマ総大司教区の管轄下にありましたが、ガリア典礼はローマで使用されていた典礼に基づくものではありませんでした。本書はローマ典礼の発達のみを取り扱うので、アレクサンドリアとアンティオキア典礼には触れません。しかし、ガリア典礼は最終的に確立されたローマ典礼の発達にかなりの影響があったので、本研究の対象になります。
八世紀に至るまで「典礼は総大司教区に見習う」とする一般的原則が西方教会に当てはまらなかったことは異常であり、例外です。ローマの司教が西方教会の総大司教であったことについて異論を唱える者がいなかったのは事実ですが、西側の諸教会はローマ総大司教の典礼に従おうとしていませんでした。八世紀まで、ローマ典礼はローマ市だけで使用される地方典礼に過ぎませんでした。それはイタリア北部でも採用されていませんでしたし、イタリア半島南部にさえ自分たちの典礼がありました。(ラテンではあってもローマではない)これら西方の典礼のことをおおざっぱに「ガリカン」典礼と呼びます。このような呼び方は、これらの典礼がローマ典礼とは異なるものの、互いには緊密に関連したことからも根拠があります。ガリア地方(古代フランス)で使用された厳密な意味でのガリア典礼については、他と比較して、最も詳しく知られています。それから少し姿を変えた典礼はスペイン、ブリタニア、イタリア、その他の国々に見られます。一般的に受け入れられている説によれば、ガリカン系典礼はおそらくアンティオキアなどの東方に起源があり、四世紀にミラノで採用されて以来、西方教会内に広まりました。当時、ミラノは北部イタリアにあっては首都大司教座であり、西方世界では二番目に重要な都市でした。
八世紀頃から、ローマの地方典礼が次第に西方教会内に広まり、ガリア典礼と入れ替わります。しかし、その過程でガリア典礼の影響を受けることになります。今でも、西ヨーロッパには二箇所で昔ながらのガリア典礼が使用されています。その一つがスペインのトレドです。これはモサラベ典礼とも呼ばれます。(訳者・「モサラベ」とはムーア人征服後のスペインで、ムーア王に服従することを条件に信仰を許されたキリスト教徒のことです。)厳密に言えば、モサラベ地方は、七一一年以降、ムーア王に征服されることになった地方にのみ適用されます。その残存している形にはスペインの古代典礼の名残が見られます。十一世紀以降、モサラベ典礼はローマ典礼に取って代わられ、消滅したかのようにさえ見られました。一五〇〇年、トレド大司教であったヒメネス枢機卿(†一五一七)がその典礼書を改訂し、トレド、サラマンカ、バイヤドリッドに支部を置き、その保存を図りました。しかし、最近に至るまで、それが使用されたのは同枢機卿によって建立されたトレド大聖堂コルプス・クリスティ聖堂においてのみでした。しかし、その典礼には、特に聖変化の言葉において、ローマ典礼の要素が含まれていました。モサラベ典礼は、現代、許可があれば、スペインの他の地方でも使用が可能です。しかし、残念なことに、それはもはや第二バチカン公会議以降の考え方を組み込み、徹底的に改革された版でしかありません。
ミラノ市にも独自の典礼があり、広くアンブロジオ典礼と呼ばれています。しかし、聖アンブロジウスが同典礼にある半ダースほどの賛歌を作詞した、ということ以上を証明できる証拠は存在しません。しかも、この典礼はトレドのそれと比較すれば、はるかにローマ化されており、ローマ典文全文を含んでいます。ミラノの人たちはローマ典礼を押しつけようとする試みに反抗して、幾度かにわたって、手に武器を持って立ち上がったものです。しかし、それも教皇パウロ六世の新しいミサに同調して、一九七〇年以降はかなり修正されてしまいました。
四世紀中頃までに、いくつかのミサ典礼書が存在したのは確かです。それ以前に何か文書があったという証拠は見つかっていません。書かれている典礼の前半部分はディプティックdiptychsであったようです。ディプティックdiptychsという言葉はギリシア語に由来し、二回折り曲げられていることを意味します。ディプティックは(初めはロウで覆われた)二枚の額で、本のように蝶つがいがあり、折り畳むことができました。一枚には祈りを依頼した生きている人々の名前が書かれていました。もう一枚には死者の名前が書かれてありました。これらの名前は典礼中の指定されたとき、助祭が読み上げたものです。東方教会におけるこの習慣は中世期後半に至るまで続きました。その後、教訓が典礼書に書かれていました。司教が合図するまで、聖書から適当な箇所を取り上げて朗読する習慣は、各ミサで一定数のページを読むというもっと秩序あるやり方に変わっていきます。それを示すメモが聖書の余白に書かれるようになります。その後、朗読箇所の最初と最後の言葉を書いたインデックスができあがります。聖書以外にも例えば聖人伝とか聖務日祷にある説教が読まれるようになりました。朗読箇所を指示するための完全なインデックスは" comes" " liber comitis" または " comicus" つまり「本の同伴者」などと呼ばれていました。最後に、労を省くために必要に応じたテキスト全体が書かれるようになります。典礼用の福音朗読集(evangeliarium)と書簡朗読集(epistolarium)が誕生し、それは後に完全な朗読集(lectionarium)発達するのです。聖ジェローム(三二四〜四二〇)は、伝統的ローマ典礼の各主日ミサで朗読される書簡と福音を選ぶよう教皇から委託を受けた、と広く信じられています。5 その間、司式司祭と助祭が唱える祈願文も書かれるようになりました。
ここで、わたしたちは昔のやり方と西方教会で現在なされているやり方が異なっていることに注意しなければなりません。現在の典礼書は何のために使用するかによって作られます。ですから、ミサ典書にはミサに必要なことがすべて書かれています。聖務日課書には聖務日課に必要なことが書かれてあります。すべての東方教会で今でも守られている昔のやり方によれば、その本をどの儀式に使用するかでなく、だれが使用するかによって内容が決まります。一つの本は司教もしくは司祭がどの儀式でも使用する式文が含まれています。助祭には助祭用の本が、聖歌隊には自分たちの本があります、等々。司祭たちも必要に応じて使用する司教用の本は司教儀式書(Sacramentariumまたはliber sacramentorum)でした。その内容は、奉献文、集会祈願、序唱などのように、聖体祭儀で司式者が受け持つ部分だけが書かれてありました。つまり、書簡、福音、また歌われることになる昇階唱などは含まれていませんでした。含まれていたのは、叙階式、洗礼、祝福、祓魔式など、ミサ以外の多くの儀式、つまり司祭として必要なすべての祈りでした。助祭には助祭用の本(diakonikon)がありました。しかし、ローマ典礼における助祭の役目は福音を歌うことだけでしたから、この本は東方典礼にだけ存在していました。そして後の時代になると、聖歌隊は詩編と答唱が書かれたliber antiphonariusもしくは gradualis, liber responsalis と psalteriumを持つようになります。さらに後にはhymnariuim, liber sequentialis, troponarius、その他が作られ、中世期初期にはいろいろな版が見られました。
四世紀の終わりにかけて、ミラノの聖アンブロジウスは新受洗者を対象とした指導書集であるDe Sacramentisで、奉献文の中心部分を引用しています。それは伝統的なローマ典文の対応箇所と大体同じですが、少し短縮されています。Quam oblationemつまり聖変化の前の祈りから、聖変化の後で唱えられる生け贄の祈りを含むわたしたちの伝統的奉献文の中心部分が、四世紀末に存在していたことが、ここで疑いの余地なく明らかになります。
最古のローマの司教儀式書が、ローマ典礼にとっては最初に登場する完全な資料になります。使われた言葉はローマ典礼の言語として、徐々にギリシア語に取って代わったラテン語でした。使用言語のこの交代が、三世紀半ばから四世紀の終わり頃までにあったとも言われるものの、それが正確にいつ起こったかについて学者間の一致はありません。長期にわたる移行期間中に、両方の言語が並行的に使用されていたことに間違いはありません。7 ラテン語の優れた表現能力は確かにローマ典礼のあり方に影響を及ぼしています。ラテン語は、修辞学的で冗長になりがちなギリシア語と比較して、どうしても簡潔で飾りが少ないのです。ラテン語のこの傾向は、ローマ典礼のミサを特徴付けずにはおきませんでした。8
司教儀式書の中では、三人の教皇、レオ(四四〇〜四六一)、ジェラシウス(四九二〜四九六)、大聖グレゴリオ(五九〇〜六〇四)に因んで名付けられた三つが最も古く、完全で、重要です。儀式書に付けられたそれぞれの名前は著者名を示すのでしょうが、大聖グレゴリオの場合でさえもそれを証明することはできません。ジェラシウスの儀式書に関しても、教皇ジェラシウスが何らかの貢献を果たしたかどうかは不明です。聖レオ教皇の場合、レオの儀式書にあるいくつかの祈願文は彼自身の作であるかも知れませんが、これも確定はできません。でも、グレゴリオの儀式書にはほぼ確かに自分の書いたものが掲載されていると言われます。これら三つの中でも最も古いレオの儀式書(Sacramentariuom Leonianum)は、ヴェローナの司教座参事会図書室に保存されている七世紀の写本に見られます。この儀式書の前に存在したのはLibelli Missarumと呼ばれるものでしたが、これらはある特定の教区もしくは地方で使用されていたミサを部分的に記録したものでしたが、固定している奉献文自体とか、朗読とか歌唱の部分ではありませんでした。それらは即興的祈願文と儀式書で固定化された形式をつなぐ役割を果たしていました。実際に残存している写本はありませんが、文献としての言及、特に、Libelliの集成である教皇レオの儀式書によってその存在は確定できます。不幸なことに、この収録は完全でなく、ミサの式次第と奉献文もありませんが、今でもローマミサ典書に見られる多くの固有ミサを含んでいます。
ジェラシウスの儀式書は厳密な意味で最も古いローマミサ典書です。それはレオの儀式書よりはるかに完成されており、教会歴年に従って祝日が記載されています。また、それには奉献文といくつかの任意ミサも含まれています。今なお失われずに残っている写本は八世紀のもので、いくつかのガリア典礼からの材料も含んでいます。
大聖グレゴリオが教皇になったのは五九〇年で、六〇四年まで在位しました。その十四年の在位中に成し遂げた功績はほとんど信じられないぐらいです。この教皇による重要な改革の中でも重要なのは典礼改革でした。同教皇の在位は、どの点から見てもわたしたちが知っている状態にまで教皇が仕上げたローマミサの歴史に残ります。教皇はジェラシオの儀式書を集成し、一冊にまとめました。その際、多くを省略しましたが、変更箇所はごく限られています。今日わたしたちがグレゴリオ儀式書と呼ぶものは教皇自身の作とは言えません。他にもいろいろ証拠があるのですが、そこには教皇自身の祝日が含まれているからです。しかし、間違いなく言えることは、それが教皇の典礼改革に基づき、自分が書いたいくらかの材料を含んでいます。
聖グレゴリオによる改革の基調は、それまでに受け継がれてきた伝統への忠実さでした。ラテン語Traditioの語源は「手渡す」という意味です。教皇の改革は主にすでに存在していた儀式の簡素化とさらに整理された再編成でした。例えば、ミサにおける種々の祈祷文は集会祈願、奉納祈願、拝領祈願の三つになりました。当時、ミサ典文、序唱、Communicantesと Hanc Igiturのために追加された文章中の変化が整理されたのです。これらの変化は現在も、例えばクリスマスとか復活の季節などのごくわずかな場合に見られます。教皇の主な功績は確かにローマ典文の決定的編纂でした。朗読集もこの教皇によって決定的な形を整えますが、これは後、さらなる変化を遂げることになります。聖ピオ五世(一五六六〜一五七二年)のミサ典書(一五七〇年版)にあるミサの式次第は、わずかな追加と拡充を除けば、教皇聖グレゴリオが確立した式次第と、非常に細かいところまで一致しています。またグレゴリオ聖歌として知られる比類ない聖歌の体系化も、主にこの教皇の功績です。
聖グレゴリオが改革したローマ典礼のミサは次第に勢力範囲を広げ、最終的にはイタリアだけでなく、アルプスの向こう側でも支配的になりました。ローマ教会の威信、その典礼の落ち着いた雰囲気、ローマには使徒たちの頭とその他多くの殉教者の墓があるという事実、これらが相まってローマ典礼に従うべきであり、そこに権威があるとする風潮が強まるのです。それだけではありません。スペインのトレドを除くと、ヨーロッパには強大な首座司教の教区が存在しておらず、また当時の不穏な情勢もこの急速な勢力拡張を容易にしました。しかし、この拡張期にローマ典礼は、早い時期から東方教会の習慣をいろいろ採用していたガリア典礼の伝統も取り込みました。このようにして、ガリア典礼のいくつかの特徴はローマにまで広がりを見せ、ついにはローマ典礼のミサ自体に組み込まれることになるのです。
聖グレゴリオの名をいただく司教儀式書は、この教皇の在位以降にできることになった儀式書群の総称になりました。グレゴリオ儀式書の中で最重要なのがアドリアヌスの儀式書です。この儀式書は、ローマ典礼に準拠して帝国内の典礼統一を望んだカール大帝の要請に応じて、教皇アドリアヌス一世(七二二〜七九五)が皇帝に送ったものです(七八五年もしくは七八六年)。その際、皇帝はイギリスの修道者アルクインの助力を得ます。アルクインは、ローマの儀式書に欠けていたものを、当時、ガリアに広まっていたジェラシアヌスの儀式書から採用しました。最終的なローマ典礼のミサ典書が編纂された際、その土台になったのがこのガリア化されたローマ典礼のミサなのです。十一世紀までに、そして遅くても十二世紀までに、このガリア化されたローマ典礼のミサは西方教会で使用されていた純粋なガリア典礼に取って代わりました。例外がトレドのモサラベ典礼と、ローマ化されてはいたもののミラノのアンブロジオ典礼でした。「典礼は総大司教区に見習う」という原則が東方教会だけでなく、西方教会でもやっと普及したことになります。
ローマ典礼には、ガリア典礼を通じて、エルサレムとその他東方教会に起源がある入念に装飾を凝らし、象徴に溢れる部分の追加がなされました。純粋なローマ典礼は極端なほどに単純、禁欲的、平板でした。それには、何か実際的な目的がない限り、どのような飾りも容赦しないという面がありました。その祈願文は短く、威厳に溢れてはいましたが、東方教会の喜びに溢れる修辞学的技巧と比較すると、あまりにも簡素でした。現代使用されるミサ典書にある聖週間の典礼の大部分、また、装飾的で象徴に溢れるろうそくの祝福とか枝の祝日の行列は、ローマ以外で祝われていた典礼に起源があります。アドリアン・フォルテスキュー神父は以下を書いています。
美学的観点からこれらの追加を批判するとすれば、それらはあまりにも楽しすぎます。昔ながらのローマ典礼は、その威厳と単純さにかかわらず、退屈になりがちであるという不利な点がありました。東方とガリアの典礼はあまりにも装飾的で、長く、わたしたちの好みに合いません。現代のミサにあって、もともとローマ典礼に属していなかった要素は、ローマ典礼の威厳にとってマイナスになるどころか、それに十分な変化と控えめな感動を付け加え、それを最も美しくしてくれます。9
ここまでで、わたしたちは中世期初期に達しました。これから後の時代、ミサ自体の式次第がどのように変化したかについて記録することはあまりありません。その発達史は忘却され、ミサは聖で、冒してはいけない遺産になっていたからです。ミサが詳細に至るまで変化することなく、使徒たちから直接引き継がれてきたとか、聖ペトロ自身が書いたなどと広く信じられていたものです。以下に引用するアドリアン・フォルテスキュー神父によると、典礼の本質を、現代のわたしたちが知っているようなものにまで完成してくれた大聖グレゴリオの治世は、ミサの歴史にとって画期的であったと考えられます。
それだけでなく、聖グレゴリオが、ミサの本質的部分つまり奉献文に変更を加えた最後の教皇であったということが語り継がれた伝統になっていました。ベネディクトゥス十四世(一七四〇〜一七五八)によると「聖グレゴリオ以来、奉献文に追加したり、変更を加えたりした教皇はいません」。
これがまったく正確であるかどうかはそれほど大事ではありません。たとえ、恐らくあちこちにいくつか「アーメン」が忍び込むような小さな追加があったとしても、重要な点は、ローマ教会内に、奉献文を変化させてはならないという千年以上になる伝統があったということです。以下にガスケ枢機卿を引用しましょう。
十三世紀も変化することなく保存されたという事実は、常に払われていた尊敬、遠い昔から伝わった尊い遺産に触れる際に払われた畏敬を雄弁に物語ります。11
ミサの儀式は聖グレゴリオの時代以降も、実は、発達し続けるのですが、フォルテスキュー神父は以下のように説明します。
後代のすべての変更は元からの並べ方に当てはめられています。しかも重要なところに変更が加えられることはありませんでした。おおむね、聖グレゴリオの時代から、教会はミサのテキスト、式次第、配列を、さほど重要でない箇所を除き、だれも敢えて触ろうとしなかった聖なる伝統と見なしています。
後代の追加の中でも、現在の形で祭壇の下で唱える祈りは最新のものになります。あの部分は中世期に唱えられた私的な準備から発達したもので、ピオ五世のミサ典書(一五七〇)以前、公式に編入されたことはありませんでした。13
栄光唱は、まず、祝日に司教ミサで歌われるためにだけ、徐々に導入されました。恐らく起源はガリア典礼にあるのでしょう。クレドがローマに導入されたのは十一世紀になってからです。奉献の祈りとラバボは十四世紀の頃やっとアルプスの彼方から導入されたのです。Placeat、祝福、最後の福音は中世期になってから徐々に広がりました。14
これらの祈りの大部分は例外なく、公にローマ典礼に組み込まれる何世紀も前から典礼中に使用されていました。Suscipe sante Paterは禿頭王カール(八二三〜八七七)の祈祷書にまでさかのぼることができます。
大聖グレゴリオ時代以降にローマ典礼のミサに導入された祈りは、プロテスタント改革者たちが真っ先に廃止しました。その中に、ミサの始めに祭壇の下で唱えるJudica me, Deusが含まれます。その中には神の祭壇に登る司祭への言及があるからです。聖母と聖人たちに取り次ぎを願うConfiteorは特に受け入れがたいものでした。また、明らかに生け贄を指す術語を含む奉献の祈り、聖体拝領後のPlaceat tibiはプロテスタントの神学とまったく相容れません。
これらの祈りがプロテスタントの異端にとって受け入れがたかったのは、当然のことです。なぜなら、聖霊の導きによって、教会がそれらの祈りを受け入れた理由の一つは、信ずべき教義が、そこに非常に明白に含まれていたからです。儀式がその内容をますます明瞭に示すようになるこの傾向は、" Lex orandi, lex credendi" (祈りの法則は信仰内容の法則、つまり、信仰は祈りの内容によって決まる)の原則にぴったり当てはまります。この原則をフェルナンド・カブロルO・S・B・師が、自分が発行したDaily Missal(毎日のミサ典書)の序文で明瞭に説明しています。
五世紀のある教皇はある有名な論争中に、" Legem credendi lex statuat supplicandi" (祈りの法則が信じる内容を確定するように)と発言したのですが、これはそれ以来神学的原理として通用してきているのです。つまり、教会の典礼はその教義を明示するのです。
教会にとって何にもまして大事なことは、教会が守り続けている信仰の完全さです。ですから、教会はその公式の祈りと礼拝が教義と矛盾することを見過ごすことはできません。そのために、教会は常に典礼のあり方については細心の注意をもって、そこに少しでも間違いがあればそれを訂正、排除しながら監視してきました。
それ故に、典礼書はカトリック信仰の真の表現であり、神学者たちが信仰を守るため信頼して根拠にできる源泉です。典礼はloci theologici(神学者にとっての根拠)であり、この意味でその代表がミサ典書であると言えるのです。ミサ典書はもちろん神学の教科書ではありません。それは神を礼拝する祭の道具であり、最新の神学的論争とは何の関係もありません。それにも拘わらず、ミサ典書の中には、御聖体、生け贄、祈り、キリスト教的礼拝、御託身、贖罪など、キリスト教教義の壮大な総合があり、実に、信仰のすべての玄義がそこに表明されています。
司教座聖堂参事会員ジョージ・スミス師の編纂による、権威あるカトリック教義の解説には以下を見いだすことができます。
秘蹟的典礼の発達史を通じて見られるのは、追加、自然成長、さらに完全、明白に意味を伝える象徴主義を獲得する試みによって、常に発達しようとする傾向です。16
西方教会の健全で不変の伝統は、十六世紀、プロテスタント改革者たちによって初めて中断されることになりました。彼らは、典礼儀式の劇的改革を始めたことによって、教会の伝統から離れました。そして、彼らが改革した典礼が正統的なものであったとしても、結果は同じであったでしょう。彼らがどのような意味で異端的であったかは、儀式中に何が行われたかということより、彼らが伝統的な儀式書から何を省いてしまったかによって分かります。一八九八年、ウェストミンスター州のカトリック司教たちは、英国の改革者たちによって始められた典礼革命を痛烈に非難する文書を出しました。このような革命は、司教座聖堂参事会員スミス師が明確に系統立てて説いた原則と、根本的に相容れないものでした。自分たちの儀式を簡素化して、原始教会の習慣に立ち戻るという英国国教の主張をスミス師は厳しい言葉で弾劾したものです。一方、カトリック司教たちは、ある国もしくは地方が自分たちの儀式を創作できることを否定しました。
原始教会時代からわたしたちに受け継がれている伝統的形式を省略したり、変更してはなりません。なぜなら、これほど昔からの慣用であれば、使用されている過程で、不必要な追加がたとえあったとしても、神に守られている目に見える教会を信じている人たちの考えによれば、少なくとも必要なものはすべてそこに残っているに違いないし、伝えられてきた儀式を厳格に守っていれば、常に間違いがないと感じることができるからです。その反面、もしわたしたちが何かを省略したり、変更したりすれば、重要な部分を失っている可能性があると感じるのです。そして、この健全な道はカトリック教会が常に従ってきたものでした…しかし、初期に、地方教会には新しい祈祷文とか儀式を付け加えることが許されていたことは認めます…しかし、以前使用されていた祈祷文とか儀式を廃止することも許されていたという説には歴史的根拠がありませんし、まったく信じにくいことです。そこからして、クランマーはこの前例のない道を選び、著者の考えによれば、非常に考えられないような乱暴さで行動したと言えるでしょう。17
わたしたちが読唱ミサと呼ぶミサの発達は、フォルテスキュー神父が修正と呼んでいるものの中で最も重要です。読唱ミサの簡潔さは、それが原始的な形であったという印象を与えがちです。しかし、事実は正に逆です。それは後代になって簡略化されたものです。ローマ教会のミサに関してここまでに書かれてきたものは、すべて、盛式ミサについてでした。初めから、典礼が助祭と侍者、自分の部分を歌う会衆についての記録があります。
中世期まで、一日に祝われるミサは一度だけでした。司教もしくは年長の聖職者が司式し、それ以外の聖職者たちは、聖体を拝領するか共同司式していました。同じことは現在でも東方教会で行われています。東方教会に読誦ミサに相当するミサは存在しませんし、一つの教会に祭壇が一つという元々の習慣が保たれています。でも、中世初期になると、それぞれの司祭が毎日自分のミサをささげるようになりました。この習慣は典礼だけでなく、教会建築とか教会法にまでも深い影響をもたらしました。
この変化は神学的理由によるものでした。一つ一つのミサには神の前で執り成しの生け贄として一定の価値があります。ですから、二つのミサは一つのミサと比較すれば倍の価値があるということになります。一定の意向のためにミサをささげて、謝礼を受け取る習慣はこのようにして生じました。特に、死者ミサがささげられる場合その必要が感じられました。信仰深いカトリック信徒であれば、自分の魂の安らぎのためにミサがささげられるように遺言状などで指示し、この目的のために修道院などに遺産を残すように手配したものです。中世後期になると、特定の人物のために死者ミサをささげるための特別礼拝室が設けられるようになります。九世紀にもなると、多くの司祭が一日に何回もミサをささげるという習慣まで生じたものです。(十三世紀になるとミサを何度もささげるような行き過ぎは禁止されます。いくつかの司教会議は主日、祝日、もしくは特別な必要がある場合を除いて、司祭たちに日に一回以上ミサをささげることを禁止しました。)
ミサの回数が増えると、多くの司祭たちが同時にミサをささげる教会と修道院には複数の祭壇が設けられるようになります。九世紀にもなるとすべての大きな修道院は毎年何百も何千ものミサをささげるようになります。これらの要素が重なって、現代のわたしたちが読唱ミサと呼ぶ短いミサが生まれ、この読唱ミサが今日わたしたちが知っているミサ典書の編纂につながるのです。
既述のように、初期の典礼書はそれを使用する特定の人たちのために編纂されていました。司祭の本はミサ典文とか他の儀式を含む儀式書でした。そこに自分が唱えない教訓とか交唱がある必要はありませんでした。しかし、単独でミサをささげるとなると、そこにいない助祭とか聖歌隊に代わって、自分でもこれらの部分を唱える必要が生じてきます。ですから、これらの部分も含んだ本が必要になってきました。このような動きの始まりを示す儀式書は六世紀頃から知られています。九世紀にもなると、聖人共通のミサは書簡、福音、聖歌隊が受け持つ部分を含むようになります。十世紀には、ミサ全体のテキストを含む Missale Plenarium、いわゆる完全なミサ典書に近いものが出現するようになります。
真の意味ですべてを含む完全なミサ典書の必要性は、教皇イノセント三世の治下で、自分たちの任務を果たすため、しばしば遠隔の地まで旅する必要に迫られたローマ教皇庁職員がそれを必要としたために、特に強く感じられるようになりました。ですから、そのタイトルもMissale Secundum Consuetudinem Romanae Curiaeで編纂されたものでした。これが各地に広まり、ついにはローマ典礼として知られるようになります。この動きには、新しく創立されて、急速な発展を遂げたフランシスコ修道会の修道者たちが、行く先々に、最後にはアメリカ新大陸にまで、このミサ典書を運んでいったことも、少なからず貢献しています。十三世紀にもなると、もう儀式書については聞かれなくなります。
次いで、読唱ミサが盛式ミサに影響を及ぼします。元々、司式司祭は自分の部分を唱えるなり、歌うなりしていて、ほかの部分、つまり教訓、昇階唱、その他は聞いていました。
後に、自分で侍者とか聖歌隊の部分まで受け持たねばならなかった読唱ミサで、これらの部分まで唱えることに慣れた司祭は、盛式ミサでそれらの部分も唱え始めました。
このようにして、侍者とか聖歌隊が歌う部分を司式者が低い声で唱える現在の方法が生まれたのです。
ローマ典礼の勝利について書かれてはありますが、それは決して完全な画一を意味するものではありませんでした。中世期には、例えば英国のソールズベリー式典礼のような地方版または一地方の習慣も広がっていました。国と国で差異があっただけでなく、教区間でも違いが見られました。中世期のミサ典書を比較すると、実際には、どの司教座大聖堂、例えばドミニコ会、カルメル会、カルトゥジオ会のように、どの修道会にも独自の典礼様式がありました。しかし、これらはあくまでもローマ典礼の変形であって、異なる典礼と見なされるモサラベ典礼とかアンブロジオ典礼などと混同されてはなりません。フォルテスキュー神父は以下のように説明しています。
重要なことに関する限り、ソールズベリー式典礼(そして中世期に見られたほかのすべての典礼様式)は、現代でも使用されているローマ典礼そのものでした。全体の順序とか組み合わせが同じであるだけでなく、すべての重要な祈願文も同じでした。本質的要素である奉献文は一言一句わたしたちのものと同一でした。中世期の司教たちは一人として聖変化の言葉を変えようなどとは思いませんでした。19
十三世紀の教皇イノセント三世の統治と、一五七〇年に発行された聖ピオ五世のミサ典書の間にある期間に見られるローマ典礼ミサ典書の歴史で、唯一重要な出来事といえば、印刷されたミサ典書の出現でした。印刷術の普及は典礼の統一に決定的役割を果たしました。最後に印刷された英国のソールズベリー式典礼ミサ典書は、チューダー王朝の女王メアリー統治の最終年一五五七年版のものです。一四七四年、ミラノで最初のローマ典礼ミサ典書が印刷されました。それは現代でも、同市アンブロジオ図書館で閲覧することができます。このミサ典書はMissale Romanum Mediolaniとして知られます。通常文、奉献文、季節固有の祈願文、その他多くの部分は一五七〇年に出版された聖ピオ五世のミサ典書とまったく同じです。
十五世紀、ヨーロッパで印刷術が普及する前、どのミサ典書、聖書、司教儀式書、昇階唱集、交唱集、聖務日課も、例外なく美しい手書きによるものでした。それに要した修道者たちの労力は想像することすらできません。どの修道院にもscriptoriumがありました。しばしば無名のこれら修道者による色模様や飾字で飾られた写本は、美術史上に残る最大傑作として数えられます。これら極めて貴重で、かけがえのない宝物を宗教改革家たちは破壊してしまいましたが、このような行為は宗教に対してだけでなく文明に対する冒涜と言えましょう。あまり知られていない事実ですが、このような破壊は、これらの写本に例えようもなく美しく反映されていた典礼自体が祝われた教会、修道院、大聖堂を破壊した事実に劣らぬ暴挙でした。イングランドとウェールズ地方の人々のものであった文化遺産に宗教改革がもたらした破壊については、J・J・スカリスブリック博士がその著書The Reformation and the English People(宗教改革と英国の人々)に詳しい評価を残してくれています。
イングランド地方では、一五三六年から一九五三年にかけて、前代未聞の規模で、美しく、かけがえのない美術品の破壊と略奪が行われました…終わりの頃になると何千もの祭壇までもが持ち去られ、無数のステンドグラスの窓、聖像、壁画も消え去り、数多くの図書館、聖歌隊席も破壊され尽くしました。 何千というカリス、聖体容器、十字架、その他も売りに出され、(持ち運びに便利なように叩きつぶされて)破壊され、溶解されました。貴重な祭服等も略奪されました。20
聖ピオ五世は、トレント公会議の教父たちの意向に添って、一五七〇年、ミサ典書を編纂・出版しました。現代、トレント公会議のミサと呼ばれるローマ典礼で伝統的ミサとしてささげられる際に使用されるのは、教皇パウロ六世による一九七〇年のミサ典書ではなく、普通、このミサ典書です。信徒がそれを心から望むのであれば、伝統的なミサがささげられるるべきであるというのは、教皇ヨハネ・パウロ二世が明らかになさった方針です。21
フォルテスキュー神父はトレント公会議教父たちの意志を以下のように書きました。
プロテスタントの改革者たちは、当然、昔からの典礼を破壊しました。彼らが拒絶したのはキリストの現存、聖体の生け贄、その他の考え方そのものの表現でした。それで、彼らは自分たちの主張を取り入れた新しい聖餐式を導入しましたが、当然のこととして、典礼の歴史的な発展から完全に脱落しました。トレント公会議(一五四五〜一五六三年)はこれら新しい儀式がもたらした無政府状態うを正すために、どこでも統一されたローマ典礼のミサが祝われることを希望しました。中世期からの地方版のミサはもうその役割を果たし終えていました。それらは余りに華麗、華美に流れていて、その多様性も混乱の原因になっていました。22
トレント公会議が最優先したのは、聖体に関するカトリック教会の教えを体系化することでした。そして、これは詳細にわたり、明白で、胸がすくような文章で実施に移されました。この教えを拒否するものには破門が宣告されました。さらに、教父たちは自分たちの教えが世の終わりまで変えられることのないように教えていました。
ですから、トレント公会議は、尊敬すべき、かつ神的なこの聖体の秘蹟に関する真正の教義を教えます。カトリック教会はこの教義を常に教えてきましたし、また、主キリストご自身、その使徒たち、絶えず教会を真理に導く聖霊が教会に教えられたとおり、世の終わりまで教え続けるでしょう。公会議は今後、すべてのキリスト信徒が、いとも尊い聖体に関してここに説明、定義されていること以外のことを教えることを禁止します。23
公会議はその第十八会期でミサ典書検討委員会を任命しました。彼らには「聖なる教父たちの習わしと儀式に従って」それを改訂、復旧する任が与えられました。フォルテスキュー神父はミサ典書改訂委員会に任命された委員たちが「自分たちに託された任務を見事に果たした」と考えています。彼らの目的は新しいミサ典書の作成ではありませんでした。むしろ、現存していたミサ典書を、最良の写本、その他の文書を使用して「聖なる教父たちの習わしと儀式に従って」復旧することでした。24 彼は、その新しいミサ典書の特徴になったのが典礼的継続性であったことを強調しています。
委員会がその任務を終える前、つまり、一五六三年十二月四日、公会議が閉会になったにもかかわらず、聖ピオ五世のミサ典書は、単に教皇が個人として公布したものではなく、トレント公会議の決議で公布されたものです。この件は教皇ピオ4世に委託されましたが、教皇自身もその作業が終了する前に逝去しています。ですから、その後継者である聖ピオ五世が、公会議の結実であるミサ典書を、一五七〇年七月十四日、大勅書 Quo Primum Temporeで公布しました。このミサ典書がトレント公会議の決議に基づくものので、その公式タイトルは、Missale Romanum ex decreto sacrosancti Concilii Tridentini restitutum — 「聖なるトレント公会議の教令に従って復旧されたローマ教会のミサ典書」となっています。公会議なり教皇が、法令という手段を使って、一つの完全なミサ儀式を特定し、それを義務として負わせるのは、当時千五百七十年にもなる教会の歴史始まって以来初めての出来事でした。
聖ピオ五世が新しいミサの式次第(Novus Ordo Missae)を公布したのではない、ということを強調し過ぎることは不可能です。西方東方両教会において、ミサの新しい式次第を作成するという考え自体がカトリックの考え方にとってはまったくあり得ないことでした。また、これはいつの時代であっても真実です。カトリックの伝統は伝承されてきたものを重んじ、新しいものには疑惑の目を向けるということではありませんか。ガスケ枢機卿によれば、カトリック信徒であれば、何世紀もの伝統がもたらす権威でもって迫る聖なる儀式に対して、個人としても深い愛を感じなければなりません。
このような乱暴なやり方でミサの式次第が取り扱われると、このミサ式次第を熟知、使用している者にとってはひどい痛みがもたらすことに間違いありません。何しろ、それは神、キリスト、教会に由来するからです。しかし、同じ言葉で祈り、喜びにあっては落ち着き、悲しみにあっては慰めを見いだしてきた、数え切れないほどの世代の敬愛によって聖とされていなければ、これほどの魅力は感じないのかも知れません。25
聖ピオ五世が果たした改革の本質は、大聖グレゴリオの改革と同じく、伝統に対する尊敬です。それまでに伝えられてきた事柄を「乱暴なやり方」で取り扱わなかったことには、だれも異論を差し挟むことができません。一九七一年七月二十四日、タブレット紙への投書欄に、一九七四年の死に至るまで、英国切って高名な学者として知られたデイヴィッド・ノール神父は以下を指摘しています。
一五七〇年のミサは、実にトレント公会議の要請によって生まれたものではあっても、実際、通常文、奉献文、季節固有祈願文、その他多くの部分が、一四七四年のローマミサ典書の写しでしかありません。またそれも重要な点に関しては、教皇イノセント三世(一一九八〜一二一六年)時代の習わしを繰り返しているに過ぎません。それ自体も大聖グレゴリオ(五九〇〜六〇四年)と、その七世紀の後継者たちの習慣を取り入れていました。手短に言えば、一五七〇年のミサはすべての主要点において、イングランドとそこで行われていた典礼を含む中世ヨーロッパ典礼の主流に倣ったものなのです。
一九一二年に執筆したフォルテスキュー神父は、満足の中に以下のコメントを書くことができました。
ピオ五世のミサ典書はわたしたちが今でも使っているものと同じです。確かに後代の修正はありましたが、それはさほど重要ではありません。何事であっても改正をすれば、後で後悔する点が残るものではあります。それでも、正当かつ妥当な批判であれば、ピオ五世の修復が大筋において満足行くものであったことを認めるでしょう。あの委員会の基準は古さでした。彼らは単純さを求めて、後の時代に付け加えられた飾り的な面を廃止しましたが、ややもすると厳格に傾くローマのミサに詩的な美を付与するすべての絵画的要素まで廃止することはしませんでした。彼らは常にミサの中に入り込んでいた長い続唱の大群を整理しましたが、疑いなくその中で最良のものを五つだけは残してくれました。彼らは諸々の行列とか大がかりな儀式はけずったものの、真に意味深い儀式であるろうそく、灰、枝の行列とあの美しい聖週間の儀式は保存しています。西方教会のわたしたちは、ピオ五世のミサ典書という形でローマ典礼を保存できているので、確かに幸いです。26
ローマ教会のミサの由緒深さは強調する価値があります。フォルテスキュー神父が描写する「東方のものはすべて古いとする偏見」なるものがありますが、それは間違いです。現存している東方教会のどの典礼も、ローマのミサほど継続的に使用されてきた歴史のあるものはありません。27 伝統的なローマ典文について言えばなおさらそうです。現代典礼運動の生みの親、ベネディクト会のキャブロル神父は「主要部分は四世紀に書かれたわたしたちのとローマ典礼の奉献文は現代使用されるミサ典文の中で最古のもの、最も尊敬に値するものである」と強調しています。28
第二バチカン公会議以前の典礼運動指導者の一人、ルイ・ブイエ神父も、ローマ典文がどの感謝の典文よりも古いという事実を強調しています。
現今のローマ典文は、大聖グレゴリオにまでさかのぼることができます。これほどの由緒深さを誇れる感謝の典文は、西方教会にも東方教会にも存在しません。ローマ教会がこれを捨て去ることは、正教会だけでなく、英国国教と今に至るまで何らかの伝統を保持しているプロテスタント諸派の眼には、カトリック教会がもはやカトリック教会であると主張することを止めるかのように写るはずです。29
どのような観点から見ても、伝統的ローマミサ典書の重要性を強調し過ぎることはありません。二十世紀最高の典礼学者であったと思われる、アントン・バウムシュタルク博士(一八七二〜一九四八年)はこの点を次のように書いています。この礼拝儀式に参与する人は「自分が、キリスト教が始まった時代から祈りと生け贄をささげ人たちと、将来、自分の遺骸が土に帰った後から同じ祈りと生け贄をささげるであろうキリスト信者たちとを、自分が結んでいると感じるものです」。30
ミサの神秘の本質を黙想する人であれば、わたしたちがいかにそれをささげ、司祭がいかにカルワリオの生け贄を繰り返す聖変化の言葉を繰り返し、いかに敬虔な信徒であっても、ミサがささげられている聖堂に一歩でも足を踏み入れることができるか不思議に思い、懼れの念に打たれることでしょう。Terribilis est locus iste: hic domus Dei est, et porta coeli; et vocabitur aula Dei.(ここは畏れるべき所。これは神の家、天の門。ここは神の庭と呼ばれるであろう。)31
聖なる神秘に仕える教会が、それらの神秘を可能な限り荘厳で美しい儀式で飾るのは当然のことです。また、これらの儀式が書いてある本が聖なる神秘自体によって喚起される畏怖と尊敬の念を要請するのは、同じく当然のことです。伝統的ミサ典書に向けられる尊敬の念についてキャブロル神父は以下のように書いています。
ミサと秘蹟の中の秘蹟である聖体に直接関わっているミサ典書を、わたしたちは大いに尊敬すべきです。また同様に、司教儀式書と式典書も、司教儀式書について書いたとき述べたように、初代教会ではミサ典書と一つであったわけですから、わたしたちの尊敬に値するのです。教会自体が、あたかも自分の行為で、ミサ典書がいかに尊敬されるべきであることを教えているかのようです。荘厳ミサの場合、ミサ典書は荘厳な行列で助祭が運びますが、それはその日の福音を彼が読むことになるからです。助祭はそれに向かって尊敬の印である香を振ります。司祭はミサ典書に接吻しますが、それは神ご自身のみ言葉を含んでいるからです。
中世期には、ミサ典書を飾るためにありとあらゆる芸術が惜しまれませんでした。繊細な細密画、実に美しく書かれた書体とレタリング、象牙もしくは金銀の表紙で装丁され、あたかもそれが貴重な遺物でもあるかのように宝石がちりばめられてありました。
教会はミサ典書を常に、漸次的に何世紀もの間、いかなる間違いも忍び込まないよう厳重に監視しました。それは教会の真正な教えのまとめでさえありました。それはミサの間に成就する神秘と教会が唱える祈りの真の意義を啓示するものでした。
キャブロル神父は文学的、審美的観点からもミサ典書の比類ない美に賛辞を惜しみません。神父はミサ典書が「芸術のための芸術」という問題ではないと断言します。
真理があるところには必ず美があることを、わたしたちは承知しています…祈りの美は深い感情の真実かつ誠実な現れにあります。教会は真理の結果として伴うこの形が持つ美しさを決して退けたことはありません。過ぎ去った世紀に教会が美術の粋を惜しみなく降り注いだ壮大な司教座聖堂は正に教会のこの態度を証言しています。
キャブロル神父は、ヨーロッパにおけるキリスト教文明の、極初期かつ形成期とわたしたちをつなぐ生きたリンクとしてのミサ典書の歴史的価値に、注意を喚起します。
もしこれら古の証言が単に考古学の問題であれば、ここでこれ以上の検討する必要はありませんが、それらにはまったく別の重要性があります。それらがわたしたちに伝えるのは教会の永続性であり、その教えの連続性です。わたしたちには教会の伝統による生命があります。しかし西方教会は伝統への忠実と古物蒐集主義とを混同していません。教会は時間と共にその目的に向かって生き、成長します。世紀を通じて変化、成長するミサ典書による典礼はその証拠です。しかし、それは教会が決してその過去を否定しないことも証明します。教会には新しいものと古いものが入った宝物箱を持っています。これが敵でさえも認める教会の適応性の秘密です。教会は一定の改訂を認めても、決してその過去の歴史を忘れることなく、その古からの遺物を慈しみます。
ここに、著者は典礼に対する尊敬と近年見られる典礼復興運動の説明を見るのです。ミサ典書が「古風愛好主義」であるとすれば、それはわたしたちの先祖の信仰表現なのです。正にそういうものをわたしたちは危険から守り、後世に伝えなければなりません。
ダニエル・ロップスは、その著書This Is the Mass(これがミサである)に次のように書いています。
故に、トレント公会議の公共要理で、ミサ典書のどの部分かが無益で余計なものであるとか、そのいくつかの表現が不足であるとか無意味であるなどと宣言したでしょうか。その中でも最も短い式文とか、発音するのにわずか何秒かしかかからないような文章が、全体の欠かせない部分となり、そこに神の贈り物、キリストの生け贄、わたしたちの上に注がれる聖寵が集められ、説かれているのです。この全体的概念は、すべてのテーマが一つの目的に導かれて表現され、発展し、統一に向かう一種の霊的交響楽を目指しています。32
これほどにも広く認められ、賞賛されているローマ典礼の美、価値、完全さは、ファーベル神父から「天国のこちら側で最も美しいもの」と賞賛されました。以下も同神父の文章です。
それは教会の偉大な知恵から生まれ、わたしたちを地と自分の中から上げ、わたしたちを神秘的甘美さと天使的以上の典礼の崇高さの雲で包んでしまいました。また、わたしたちをまるでわたしたち自身の努力によることなくして清め、天的な魅力でもって魅惑しました。それはまるでわたしたちの諸感覚自体がこの世が与えることができる以上の視覚、聴覚、味覚、触覚を見いだしたかのようでした。33
教皇聖ピオ五世の改革以後も見直しはあったものの、第二バチカン公会議後に行われた改革までの改訂は、それほど深い意味を持つものではありませんでした。ある場合などは、現在「改革」と呼ばれているそれらの改訂は、主に印刷所の不注意で忍び込んだ逸脱が目につき始めたときに、聖ピオ五世によって体系化された形にミサ典書を復旧する、という場合もありました。これは、教皇クレメント八世と教皇ウルバノ八世が、それぞれ一六〇四年七月七日その書簡Cum Sanctissimumで、一六三四年九月二日その書簡Si quid estで着手した「改革」については特に当てはまります。これら二人の教皇による「改革」が、教皇パウロ六世の改革の際に前例として使われましたが、このような比較がナンセンスであることは、前述した二つの教皇書簡を読んでみればすぐに判明します。34
聖ピオ十世は改訂をなさいましたが、それはミサのテキストでなく、定旋律の表記法に関するものでした。一九〇六年のバチカン昇階唱には、司式者が歌う新しい、と言うより、復旧された形式がありましたから、ミサ典書に新たに付け加えられなければなりませんでした。
一九五五年、教皇ピオ十二世は、主に典礼歴に関するルブリカの改訂を許されました。一九五一年、同教皇は復活祭前夜の式を当日の朝でなく聖土曜日の夜に移しておられ、一九五五年十一月十六日には、聖週間の儀式を改訂する教令Maxima redemptionis を認可なさいました。これらの改革は教皇パウロ六世の改革に執念深く反対する伝統主義者たちでさえ諸手をあげて賛成しています。
教皇ヨハネ二十三世もルブリカの大改訂をなさっています。これは一九六〇年七月二十五日に発布され、一九六一年一月一日に発効しています。繰り返しになりますが、主に典礼歴に関するこの改訂は、一九六二年発行のミサ典書に取り入れられました。ミサの通常文に加えられた変更は、信徒の聖体拝領前に唱えていたConfiteorの廃止だけでした。これらの改革のどれ一つとっても、それはミサ通常文に意味のある変更を加えているわけではありませんでした。新しいミサを批判する伝統主義者たちに応えようとして、ここに上げた諸教皇たちの改革を前例に出すことは、非学問的であるどころか、不正直でさえあります。
しかし、新しい祈願文とか儀式の追加によって変更が加えられたとしても、聖体祭儀自体の根本的改訂は許さないのが、千六百年以上にもなる東西両教会の絶えることない伝統でした。しかし、新しく書かれた教皇パウロ六世のミサ典書が一九六九年に出版されて、一九七〇年にはついにこの伝統も破棄されることになりました。
ローマ典礼の伝統的ミサである「トレント公会議」のミサに関して、フォルテスキュー神父は以下のように結論付けています(一九一二年)。
トレント公会議以降、ミサの歴史は新しいミサ(つまり、新しく列聖された聖人たちの祝日固有ミサ)の作成と認可の歴史でしかありません。ミサの構造とすべての基本的部分は同じであり続けました。新しく固有祈願文を追加する以外に、尊敬すべきローマ典礼に変更を加えるなど、だれも考えることさえなかったのです。35
以下は、聖ピオ五世のミサ典書について、フォルテスキュー神父が最終的に評価した文章です。
わたしたちは、教皇レオと教皇ジェラシアノのミサ典書(七もしくは八世紀)の時代にまでさかのぼって、何世紀もの間祝われているミサを、現代でもしばしばささげ続けています。新しいミサが追加されるとき、それは固有祈願文だけが追加されます。ですから、わたしたちのミサ典書は今でも基本的に聖ピオ五世のミサ典書なのです。あの委員会が古いローマの伝統を入念に保存・復旧してくれたことを、わたしたちは心から感謝しなければなりません。本質的に、ピオ五世のミサ典書は教皇グレゴリオの儀式書であり、それはさらに教皇ジェラシアノの本に基づき、そのまた土台になったのが教皇レオの儀式集です。現代の奉献文の中に見られる祈願文は(聖アンブロジオ、およそ三四〇〜三九七年)の論文集De Sacramentis(秘蹟について)、そしてそれに関する四世紀の間接的言及に見られます。ですから、わたしたちのミサは、本質的変化無しにまず最も古い典礼から発展してきた時代にまでさかのぼることができるのです。シーザーが世界を征服して、キリストへの信仰を消し去ることができると確信し、わたしたちの先祖が夜明け前に集まって、キリストを神と讃える賛歌を歌っていた時代の典礼は、今でもわたしたちのローマ典礼に残っているのです。本論の最終的結論は、いまだに未解決の問題はあるものの、また後代の変更はあるものの、キリスト教界にわたしたちのローマ典礼ほどに由緒正しい典礼は存在しないということです。
二十世紀最高の典礼学者の一人、クラウス・ガンバー師は著書The Reform of the Roman Liturgy(ローマ典礼の改革)で、一九七〇年のある急進的典礼刷新を考えついた「専門家」たちの動機に関して、非常に適切な疑問を投げかけています。第二バチカン公会議で、典礼憲章(一九六三年)の一般的ガイドラインに教父たちは確かに賛成の票を投じました。しかし、彼らがこのような刷新を予期していなかったことに間違いはありません。
これらの変革は、本当に信徒の魂について牧者としての配慮からなされたのでしょうか。むしろ、それは伝統的典礼からの根本的離反が目的ではなかったのでしょうか。それは、教会の中を吹きまくっていた新しい精神を反映していないという理由で「トレント公会議のミサ」挙行を不可能にする目的があって、なされたのではないでしょうか。
トレント公会議のミサは「天国のこちら側で最も美しいもの」であるだけではなく、それは決して死に絶えることのないミサでもあります。ミラノの信者たちはアンブロジオ典礼がローマ典礼に取って代わられることを拒否しましたが、ローマ典礼を大事に思う信徒たちもこのミサが廃止されることに抵抗しています。何しろ、それは「シーザーが世界を征服して、キリストへの信仰を消し去ることができると確信し、わたしたちの先祖が夜明け前に集まって、キリストを神と讃える賛歌を歌っていた」時代の典礼ですから。ローマ典礼のミサ挙行は世界中に広がりつつあります。そして毎年、聖ピオ五世のミサだけをささげる決心をした若い司祭たちが叙階の秘蹟を受けているのです。このミサこそわたしたちの先祖が大事にしたミサであり、わたしたちの子孫も大事に思うミサであり続けることでしょう。
万物を治められる神よ、あなたは聖ピオ五世を選び、教会の中に信仰が正しく保たれ、典礼がふさわしく行われるよう導かれました。聖人の取り次ぎによって、わたしたちが信仰と愛に生き、救いの神秘にあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに代々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエズス・キリストによって。アーメン。
NOTES
(脚注は原文のまま)
The chief source for this book was Father Adrian Fortescue's classic work The Mass: A Study of the Roman Liturgy (London: Longmans, 1912). This work is abbreviated as TM in the notes.
1. |
Cited in TM, p. l6. |
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2. |
Summa Theologica, Part III, Q. 83, Art. 5, ad 1. |
3. |
TM, p. 50. |
4. |
TM, pp. 50-52. |
5. |
TM, pp. 255 & 26l. |
6. |
TM, pp. 115-117. |
7. |
TM, p. 126. |
8. |
TM, p. 127. |
9. |
TM, p. 184. |
10. |
TM, p. 172. |
11. |
F. Gasquet & H. Bishop, Edward VI and the Book of Common Prayer (London: John Hodges, 1890), p. 197. |
12. |
TM, p. 173. |
13. |
TM, pp. 183-184. |
14. |
TM, p. 184. |
15. |
TM, p. 305. |
16. |
G. Smith, Editor, The Teaching of the Catholic Church.(London: Burns & Oates, 1956), p. 1056. |
17. |
The Cardinal Archbishop and Bishops of the Province of Westminster, A Vndication of the Bull " Apostolicae Curae" (London: Longmans, 1898), p. 42. |
18. |
TM, pp. l85-190. |
19. |
TM, pp. 204-205. |
20. |
J.J. Scarisbrick, The Reformation and the English People (Oxford: Basil Blackwel1, 1984), pp. 85 & 87. |
21. |
Letter from Augustin Cardinal Mayer, 0.S.B., President of the Ecclesia Dei Commission, to the Bishops of the United States dated March 20, 1991. |
22. |
TM, pp. 205-206. |
23. |
H. Denzinger, Enchiridion Symbolorum (Editio 3 1 ), 873a. |
24. |
TM, p. 206. |
25. |
Gasquet & Bishop' op. cit., p. 183. |
26. |
TM, p. 208. |
27. |
TM, p. 213n. |
28. |
Introduction to the Cabrol edition of The Roman Missal. |
29. |
Cited in Ottaviani et al., The Ottaviani lntervention: Short Critical Study of the New Order of Mass [1969] Fr. Anthony Cekada, trans. (Rockford, Illinois: TAN, 1992), p. 57, n.1. |
30. |
Cited in T. Klauser, A Shorter History of the Western Liturgy (Oxford, 1952), p. l8. |
31. |
From the Common of the Dedication of a Church, The Roman Missal. |
32. |
H. Daniel Rops, This ls the Mass (New York: Hawthorn Books, 1958), p. 34. |
33. |
Cited in N. Gihr, The Holy Sacrifice of the Mass (St. Louis: B. Herder, l908), p. 337. |
34. |
The complete text of both these briefs together with the bu11 Quo Primum can be found in my book Pope Paul's New Mass (Angelus Press, 2818 Tracy Avenue, Kansas City, Missouri 64019, l980) |
35. |
TM, p. 211. |
36. |
TM, p. 213. |
37. |
K. Gamber, The Reform of the Roman Liturgy (Roman Catholic Books, P.0. Box 255, Harrison, New York 10528, 1993), p. 100. |