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「典礼革命——パウロ六世の新しいミサ」XXIV章

典礼革命の設計者
アンニバーレ・ブニーニ大司教

マイケル・デイヴィース著

翻訳 『フマネ・ヴィテ』研究会会員

もし、C・S・ルイスのザ・スクルーテープ・レターに出てくる悪魔の一人に、典礼を荒廃させる許可が与えられたとしても、これほどうまくはできなかったでしょう。

ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント
「荒らされたぶどうの園」

アンニバーレ・ブニーニ大司教は、一九一二年、イタリアのチヴィテッラ・デ・レゴに生まれました。彼は一九二八年、ヴィンセンチオ宣教会員として神学の勉強を始め。一九三六年、司祭に叙階されました。十年間ローマ郊外にて教区の仕事に、一九四七年から一九五七年まで布教出版物の執筆及び編集に従事しました。また、一九四七年には典礼研究の分野にも積極的にかかわり、二十年間にわたって、イタリアで最も有名な典礼出版物の一つである Ephemerides Liturgicae の編集長を勤めました。彼は数々の学術刊行物に投稿し、また種々の百科事典や辞書に典礼について多くの記事を執筆し、学術書、一般書両方の分野で数多くの本を出版しています。

一九四八年、ブニーニ神父はピオ十二世の典礼改革委員会長官に任命、一九四九年、教皇庁立プロパガンダ・フィデ大学教授、一九五五年、教皇庁立教会音楽大学教授、一九五六年、典礼聖省顧問、一九五七年、ラテラン大学典礼学教授に任命されています。

その後、一九六〇年、ブニーニ神父は、たとえ決定的ではなかったとしても、教会史上に重要な影響を及ぼし得る立場に置かれました。つまり第二バチカン公会議のための準備委員会の長官に任命されたのです。1   委員会の教父たちが議論するため提出される「提案」に関して、彼は影響力を奮うことができました。(元司祭でバチカン内に親しい友人がいる)カルロ・ファルコーニ氏は、準備委員会で出された典礼改革草案が「ブニーニの草案」であったと言っています。2   ブニーニ自身の出版物ノティツィエでも強調されているように、公会議で教父たちが結局採択してしまった典礼憲章は、準備委員会でブニーニが取り仕切ってきた「草案」とまったく同じものでした。3

フランス人のドミニコ会員で典礼研究者P・M・ギー神父は、公会議準備委員会のメンバーですが、彼によれば

ブニーニ神父はピオ十二世により設定された典礼改革委員会長官でした。これは幸いでした。彼は天性の組織者かつ偏見のない司牧的精神の持ち主でした。チコニャーニ枢機卿と共に、彼はヨハネ二十三世によって推薦された精神の自由を、議論の中に吹き込むことができたと多くの人が認めています。4

ブニーニ神父は、一九六二年四月一日のオッセルヴァトーレ・ロマーノに改革委員会の仕事について長い記事を書いています。

ブニーニの典礼改革提案は、最終的な形が整えられ、一九六二年一月十三日の準備委員会総会の投票で採択されました。しかし、この段階で、委員会議長であった八十才のガエターノ・チコニャーニ枢機卿には、いくつかの文章の中に危険が内在していることを悟るだけの先見性がありました。ギー神父は「この改革プログラムは非常に広範にわたっているので、チコニャーニ枢機卿は躊躇した」と言っています。5   議長であるチコニャーニ枢機卿にこの草案にサインするよう説得できなければ、この草案は阻止されたことでしょう。大多数の委員が賛成しても、この枢機卿がサインしなければ提案は通過しないのです。そこで、ブニーニ神父は行動する必要がありました。彼は急遽、教皇ヨハネ二十三世に接近し、教皇は関与することに同意しました。教皇はアムレト・チコニャーニ枢機卿(教皇庁長官であり、かつガエターノ・チコニャーニ枢機卿の弟)を呼び、兄の所へ行き、彼がこの案に署名するまでは戻って来ないように命じ、アムレト・チコニャーニ枢機卿は従ったのです。

後に、典礼準備委員のある顧問は述べています「老齢のチコニャーニ枢機卿は頭上に書類を振り回し「彼らはわたしがサインするのを望んでいるが、わたしにはそれが望ましいか、望ましくないか分からない」と、涙ぐみながら言ったと伝えられます。しかし、仕方なく彼は書類をテーブルの上に置き、筆を執り、署名し、その四日後、息を引き取りました。6

ブニーニ草案はこのようにしてぎりぎりで救われました 。教皇ヨハネ二十三世の命令によりブニーニ神父は、ラテラン大学教授職と典礼改革準備委員会長官の任を解かれました。7   教皇は、なぜ急遽この措置をとった理由を漏らしませんでしたが、公会議の準備にこれほど影響のあった聖職者に対し、公然と思い切り厳しい行動を教皇がとられたということは、大変大きな問題があったに違いありません。カルロ・ファルコーニ(前述の元司祭)は彼の著書 Pope John and his Council(教皇ヨハネ二十三世と公会議)で、第二公会議の第一会期時代の日記で、ブニーニの解任は時代逆行であると非難していますが、以下を付け加えています。

しかしながら、ブニーニは自分の提案を何とか公会議に関しては通してしまいました。もしこれが決まり、また、この追放された典礼委員会長官の提案が、他の進歩的提案の成功に道を開くかも知れない、ということは興味深いことです。8

ブニーニの解任は、まさに馬が馬小屋から逃げだしてから、小屋に鍵をかけるようなものでした。フランシスコ会のヘェルディナンド・アントネッリ神父に与えられていた公会議の中の様々な委員会の長官ポストに、もしブニーニ神父が任命されていたとすれば、公会議では自分の草案を容易に通すことができたことでしょう。しかし、それは大事ではありませんでした。重要なのは草案自体で、ファルコーニの心配にはあまり根拠がなかったのです。公会議教父たちのために準備されていた草案は七十二ありました。これは教会史始まってこの方もっとも苦労して、丹念に作成された草案群でした。9   しかし、これらはあまりにも正統的で、進歩主義者たちにとっては、叩き台としてさえも、受け入れがたいものでした。ベルギーはニーメゲンのカトリック大学で教義神学を教えていたベルギー人、ドミニコ会のエドワード・シレーベックス神父の教唆で、これらの草案はすべて拒否されました。しかし、唯一の例外がブニーニ草案だったのです。シレーベックス神父によれば、これは「すばらしい作品」でした。10

ブニーニ草案が、結局は本質的変更なしに通過した、唯一の草案であることに注目して、ノティツィエは、一九七二年、非常な満足感をもって、当時を振り返っています。

ヴィルトゲン神父のコメントは以下のとおり。

…非常に多くの司教と顧問たちが、教皇ヨハネ二十三世によってライン川周辺諸国から典礼委員会準備委員に指名されていました 。その結果、彼らは、提案に自分たちの考えを挿入することに成功し、彼らが受け入れやすいと信じた文書が通過しました。

ルフェーブル大司教は、その他の草案について以下のように書いています。

さて公会議において何が起こったか分かるでしょう。開会から二週間後、準備されていた他の草案は一つ残らず破棄されてしまいました。すべてが否決され、ゴミ箱に捨てられたのです。それらは一行たりとも残らず、捨て去られました。13

典礼憲章については、拙著 Pope John's Council(教皇ヨハネ二十三世の公会議)の十六章で詳しく論じました。あの章でわたしは、多くの時限爆弾、つまり教父たちが投票の際に見破れなかった、そして自由主義者たちが悪用することのできるあいまいな文章に注意を喚起しました。ライン川周辺諸国のグループは、この憲章を解釈(説明)する権限のある公会後議委員会を設立するよう圧力をかけてきました。その理由は、「公会議の教父たちが帰国した後、教皇に近い保守派勢力が、委員会の採用した進歩的法案を阻止するかも知れないことを、彼らが恐れたからでした」。14

ヒーナン枢機卿は、公会議顧問たちが世界に公会議を説明する権限を与えられる危険について「そういうことが決してあってはならない」と教父たちに警告したものです。15   しかし、実際に起きたのは正にそういう事態でした。「これら委員会のほとんどの委員たちが、教皇の同意により、公会議専門家たちから選ばれています。この委員会の役目は公会議諸憲章(布告)を実施することであり、また必要であれば、公会議法令、教令、宣言の説明をすることでした。

一九六四年三月五日、オッセルバトーレ・ロマーノは、コンシリウムとして知られるようになった典礼憲章実施委員会設立を報じました。この会の指導的メンバーは主としてこの憲章を立案した委員会の委員たちから成っています。一九六四年二月二十九日、ブニーニ神父は同委員会の長官になりました。

理屈ではコンシリウムは諮問機関であり、提案された改革を実施するのは、典礼礼拝聖省または秘跡聖省です。これらの省は教皇パウロの教皇庁改革の一環として、一九六七年八月十五日、使徒憲章 Regimini Ecclesiae Uoniversae によって公布されていました。ブニーニ神父の影響力は、彼が典礼礼拝聖省の副長官に任命されてから増大しました。しかしながら、パウロ六世はもう一つの使徒憲章 Sacra Riuum Congregatio を一九六九年五月八日に出し、それにより典礼礼拝聖省を神礼拝聖省と列聖列福聖省に分けました。これは、一九六九年四月三日の典礼憲章 Missale Romanum による改訂ローマミサ典書の公布の直ぐ後に続いてのことです。使徒憲章 Sacra Riuum Congregatio はコンシリウムを別組織として廃止しました。コンシリウムは特別委員会として、そのメンバーと顧問を保持したまま典礼改革が完成するまで神礼拝聖省に合併されました。コンシリウムの公報(新聞)であるノティツィエはこの省のものとなりました。ブニーニ神父はこの新しい省の長官に任命され、ますます力を得ました。事実、少しの誇張もなくコンシリウム、つまりブニーニ神父が、礼拝聖省の実権を握ったということです。ノティツィエの四〜六月号はブニーニ神父の任命を伝え、次のように述べています。

ノティツィエのこの号は、新しい典礼省の指示によって出されました。教皇パウロ六世は、四月二十八日の枢機卿会議でこれを発表し、五月八日、使徒憲章「典礼聖省」によってこれを公認しました。新しい省はより堅固な法的基盤の上に立ち、公会議、準備委員会、全典礼の執行に関連したコンシリウムの過去五年間の仕事をより効果的に、新たな責任をもって継続するでしょう。コンシリウムはこの省の特別委員会として改革の完成までその業務を継続するでしょう。

ブニーニ神父は、今や陰で扇動精神と継続主義により改革を支配し広げて行くことのできる、最も影響力の大きい地位に就いたのです。委員会、省,コンシリウムの名目上の長にはレルカロ、ガット、サベラ、ノックス枢機卿たちが就いたり、止めたりしましたが、ブニーニ神父はいつも残っていました。一九七二年一月七日ブニーニ神父はその仕事の報いとしてディオクレティアーナの名義大司教に任ぜられました。一九七四年まで彼は、自分の典礼改革はカトリック教会の大部分の征服だと誇ることができました。改革は四段階に分けられると説明しています。1、ラテン語から各国語への移行。2、典礼書改正。3、典礼書翻訳。4、ローマ式典礼を各個々の教会の慣習、考え方に改作(適応)変化させること。

この行程は(即ちこれはローマ式典礼のいかなる痕跡をも排除することを意味するものですが)すでに始まり、そしてより一層の注意と準備をもって続行して行くと彼は主張しました。

そして、彼の力が頂点に達したときに、ブニーニ大司教は突然解任され、全世界の自由主義カトリック信者は吃驚させられました。大司教は解任させられたばかりでなく、彼が全権を握っていた省は解散させられ、一九七五年七月三十一日の英語版オッセルヴァトーレロマーノの中に公表されたパウロ六世の使徒憲章「コンスタンス・ノービス」により秘跡省に合併されました。新しい省は秘跡神礼拝聖省と称されました。そして枢機卿ノックスが最高長官,イノチェンティ大司教が長官、モニョーニ師が秘跡担当副長官、ノエ師が神礼拝担当副長官となりました。この任命にブニーニの名前はなく、世界中の自由主義者は落胆しました。イギリスのザ・タブレット及びアメリカで最も自由主義的な紙ザ・ナショナル・カトリック・リポーターの D・O'Grady は憤慨して書いています。

廃止された礼拝聖省長官だった大司教アンニバーレ・ブニーニは教会典礼改革の重要な人物であったが、新省のメンバーにはなっていない。彼の長い経験にもかかわらず新省設立の相談さえ受けなかった。彼はこのことをフィジーでの休暇中に聞いた…この突然のやり方は、地方聖職者と共同での改革を支援して行こうというブニーニラインにとって予測できないことであった。ブニーニ大司教は次の十年間地方の習慣との結合を典礼に導入することに関わろうと思っていた。彼は公会議以後の典礼改革の継続を主張していた。

一九七六年一月十五日号オッセルバトーレ・ロマーノは次のように報告しています。:

教皇は、イランの教皇庁大使としてディオクレチアーナ名誉大司教閣下アンニバーレ・ブニーニを任命した。このポストは明らかにブニーニ追放のためにわざわざ作られたものである。

一九七三年に出版されたディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント著「荒らされた葡萄の園」の中には、適切な描写があります。

もし、C・S・ルイスのザ・スクルーテープ・レターに出てくる悪魔の一人に、典礼を荒廃させる許可が与えられたとしても、これほどうまくはできなかったでしょう。

この記述は改革自体関する客観的評価に基づいています。ローマ式典礼が故意に破壊されたのかどうか、ということは論外のことで、それはすでに破壊されたのです。もしこの破壊がお人よしの(善意の)無分別な決定の結果であるなら、客観的な事柄は変わらずに残るはずです。しかしながら、この破壊な完璧さは、多くの人に本当に無分別な方策の結果に過ぎないのだろうかという疑問を起こさせました。イタリアの代表的カトリック作家ティト・カッシーニが、一九七六年四月ブニーニ大司教がフリーメーソンであると公に非難したことは、さほどの驚きではありません。一九七六年十月八日、フィガロ紙は、ブニーニ大司教がかつてメーソン等に加入したことはない、と述べているレポートを公表しました。

わたしはこのことについて、独自の調査をした結果、下記の事実の真実性を保証することができます。

ある大変名声の高いローマの司祭が、ブニーニ大司教はフリーメーソンであると証明できると思われる証拠を持つにいたりました。彼は教皇パウロ六世にこの情報を手渡し、もし教皇が断固として行動をとらないならば、自分の良心の平安を保つためにもこの事実を公にせざるを得ないと警告しました。その結果、ブニーニ大司教は解任されました。上記のを立証するためにわたしは、ある共通の友人を通じて、これに関わった司祭に接触を持ちました。彼は国際的に知られた学者で、イタリア語を話す司祭でした。わたしは彼に教皇に渡された事実の詳細を公表することができるかどうか聞きました。そして以下の返事を受け取りました。

残念ながらあなたの要請には応じられません。これによってブニーニ大司教が去ることになったこの告発にまつわる事項は極秘で、いつまでもそのまま(極秘)であり続けます。ブニーニ大司教が即ポストを解かれた事実だけで十分ではありませんか。これは説得力のある論拠です。

筆者が立証した事実は、ブニーニ大司教がフリーメーソンであるという証拠にはなりませんでした。筆者が立証したのは、ブニーニがメーソンである、と主張する証拠書類が教皇に提出されたということです。そして教皇はブニーニ大司教を解任し、イランに追放しました。この証言とはまったく関係なく、すでにパウロ六世が何らかの理由でブニーニ大司教の解任と省の解散を決定していた、という単純な一致も理論的には可能です。しかしながら、これは少しばかり無理のある解釈で、他に準備された別の説明があると思います。

ブニーニ大司教が自らのメーソン加入を否定したことは、プロテスタントが新ミサ典書の編集に関わっていたということを、彼が否定したことに照らしあわせて考えるべきです。

コンシリウム(典礼憲章実施委員会)において、オブザーバーたちはどのような役目を担っていたでしょうか? ブニーニの言によれば、彼らは「単なるオブザーバーでしかありませんでした。まず第一に彼らは研究会に出席していただけです。第二に彼らは非の打ちどころなく、思慮深く振る舞いました。彼らは議論に介入することなく、決して語ることも求めませんでした」。

わたしは一人のオブザーバーにわざわざ直接手紙を出しました。彼の確言によれば、オブザーバーたちは研究会にまったく出入り自由で、率直に見解を交換し、活発に活動していました。わたしはこの本の補遺で、オブザーバーの役目についての完全な証拠書類を提出しています。

同じような出来事が、悪名高い新しいミサのための典礼総則七章に関しても起きました。下記の説明は、ジェルネ枢機卿からあるフランス人司祭に与えられ、ラ・パンセ・カトリック誌に発表されました。

ブニーニは、発議されたミサ典書と典礼総則のテキストを教皇のところへ持って行きました。教皇自身はミサ典書のテキストを検査するだけに止め、典礼総則は教理聖省へ付託するようブニーニに指図しました。しかしながら前例ない不従順で、ブニーニは典礼総則のテキストを省に付託することなく、印刷してしまいました。

同時に教皇は、教皇庁の何人かの枢機卿の憤慨に値する反応を知ったとき、悲しみ、屈辱、怒りで涙を流しました。ジュルネ枢機卿自身それを目撃しています。彼は新しい版を印刷することを決めましたが、もう一方はすでに印刷され、発売されていました。教皇が典礼総則に公式の拒否を出さなかったことに対して、わたしが驚きを示したとき、枢機卿はただ彼の腕をあげ「あ…!」と答えただけでした。

アメリカ人のマイラン・ミクリッチ神父は、公式の英語訳ミサ典書の中に教義にかかわる大変重大な誤りを発見し、その版を教義聖省長官フランジョ・セペ枢機卿に提出しました。ミクリッチ師とセペ枢機卿の二人は共にクロアチア系です。セペ枢機卿は非常に重大な誤りなので直ちに訂正されるべきであることに同意しました。ミクリッチ神父は個人的にブニーニ大司教に会見し、ブニーニは必要な訂正がなされることを約束しました。

以下はミクリッチ神父の見解です。「問題はブニーニが本当に訂正を要求したのか、それとも英語圏典礼国際委員会事務局が彼を無視したのかは、彼だけにしか分かりません。」

教皇ヨハネ二十三世の公会議における典礼改革に対するわたしの反対は、ブニーニ大司教がメーソンである、ということによるのではないことを強調します。わたしの反対の立場は単に改革そのものと、その教会の生命に対する影響に基づきます。もし仮に、大司教がメーソンからはほど遠く、今世紀で最も真面目で、献身的人物の一人であると証明されたとしても、新ミサ典書に対するわたしの反対は少しも弱められるものではありません。ブニーニ大司教がローマ式典礼を破壊したことは簡単に証明できる歴史的事実です。フォン・ヒルデブラント博士は 地獄から来た悪魔でもこれ以上のことはできなかったと表現しています。彼がこの破壊の仕事を善意をもってしたのか、悪意をもってしたのかは、かなり興味を引くところですが、この章では、彼の行動の典礼に対する具体的意図は述べません。これは、交通事故の致命的被害者とよく似ています。警察は飲酒運転が彼を殺したと起訴するでしょう。運転者が有罪であっても、無罪であっても、被害者が死亡した事実を変えることはできません。これについて、超自由主義典礼家ジェリノー神父は「わたしたちが知っていたローマ式典礼はもう存在しない。それは破壊された」と証言しています。

ザ・コンシリアー・チャーチ(公会議で変革された新しい教会)は、ブニーニ大司教在任中、少しの嫌疑も受けず、制裁の被害にもあったことがないということを、信仰深い大部分の信者に確信させることを大変重要視していました。ブニーニ自身の刊行物であるノティツィエは一九七二年二月号で彼が司教職に昇進したことにたいする賛辞を述べ、一九五七年彼はラテラン大学司牧典礼教授に任命されたと述べています。この章でわたしは、すでに示していますが、ヨハネ二十三世の命により一九六二年彼はこの職を解任されています。ある一人のカトリック平信徒はカトリック・メディアに課せられた検閲を無視して、一九七五年十二月一日のロンドン・デイリーテレグラフの手紙で、ブニーニ大司教はメーソンに加入しているということに言及することができました。そのまさに次の日、カトリック情報局主任ジョージ・L・レオナルド大司教からの返答が掲載されました。平信徒の主張は十分な情報のない、中傷的なものであるとして、レオナルド大司教は次のような理由を述べました。

教皇庁ラテラン大学は独自のスタッフを持っています。ブニーニ大司教がこの大学の教授であったことは絶対にありません。従って、あきらかに(貴社の通信員の証言のように)解任されたこともありません。ブニーニ大司教は尊敬すべき当局(権威筋)から最も優れた能力のある典礼専門家であると見なされています。彼はバチカンの公式出版物に神礼拝について書いています。

ザ・コンシリアー・チャーチ(公会議の変革された教会)は次のように言っています。

ブニーニ大司教が陰で扇動して行った典礼改革に、責任があると言えたとしても、パウロ六世が、新ミサ典書について責任をとるべきであることに変わりはありません。教皇は全ての公式変革について行政上の責任を負わねばなりません。教皇が好むか好まざるかにかかわらず、彼はそれを認可し、つまり正統と認め、それを否認したり、撤回したりしませんでした。しかし、教皇の行政上の責任に加え、彼は単に公式変革を認めただけでなく、それらに対し熱意を持っておられました。教皇はそれらを賛美し、擁護し、新ミサ典書を受け入れようとしない保守主義者にそれを受け入れるよう命令しました。幸運にも教皇は法的束縛によりトレント式ミサを捧げることを禁じるために教皇権を発動することはありませんでした。これによりパウロ六世が、新しいミサを確信よりも弱さによって受け入れた、と結論付けるのは誤りでしょう。このことは、一九六四年から一九七五年までブニーニ大司教の秘書であったために一歩一歩着実に典礼改革が実施されてきたことを見守ってきたゴッタルド・パスカレッティ神父によって確認されています。一九八〇年四月三日発行のイタリア紙イル・セッティマナーレのインタビユーで、彼は次の質問をされました。「どの程度までパウロ六世は典礼改革に関与しましたか?」彼は次のように答えました。

典礼改革は間違いなくパウロ六世の最も大きな仕事だとわたしは思います。 パウロ六世は枢機卿、司教そして典礼法実施のために自身で作ったコンシリウムの顧問たちを利用しました。その上、一九六七年のシノドスのときには司教たちに相談し、また聖務日祷の祈祷書についても各司教の意見を聞きました。パウロ六世は他の重要な事柄例えば聖変化したパンを拝領者の手に渡すこと等についても同様にしました。準備段階の典礼改革提案においても、その仕事の最後の段階においてもパウロ六世自身問題点や出された答えを研究しました。公文書にはパウロ六世自身の手で書かれた彼の望み、承認を示している注釈、所見、覚え書きの反駁できない証拠が存在します。ささに彼は改革の適用を司牧的感性と理解で見守りました。パウロ六世は新しい典礼を祝福し、必要なら勇気ある歴史的決断をもって関与しました。例えば、自国語を典礼全体に広げ、新しい奉献文を是認しました。

このように、ブニーニ大司教をローマ式典礼を破壊した典礼改革の偉大な設計者であると書くことは正しいですが、この改革の責任は正義に基づいて、教皇パウロ六世の肩の上のも置かれなければなりません。そしてそれはこの書物のタイトル「パウロ六世の新しいミサ」を説明し、正当化します。

補遺

この章の 活字が組まれてからホミレティック・アンド・パストラレル・レヴュー誌一九八〇年五月号に、わたしを激しく攻撃するブニーニ大司教のかなり激しい攻撃が掲載されました。ブニーニ大司教はわたしのことを中傷者であると述べ、プロの中傷者を仲間に持っていると主張しました。彼は「典礼改革の中には一ヶ所たりとも御聖体に対する信仰に疑問をさしはさむような表現はない」と否定しました。わたしは公式のラテン語テキストの中に、はっきりとした異説(異端)を含んでいると主張したことはありません。わたしが申し立てているのは、ミサの犠牲的な特質に対する信仰が、省略とあいまいな言葉使いによって、ひどく薄められてしまっているいうことです。その幾つかは次の章で明らかにします。もし総則が典礼改革の一部と考えられるなら、それは確かにカトリックの御聖体に対する教えに疑問を投げかけたはずです。

ブニーニ大司教は手紙で、自分はフリーメーソンではなかったという一九七六年の否定を繰り返しています。つまり、この章でわたしが述べたことに対する否定です。わたしはブニーニ大司教がメーソンであることが証明されたと主張したことはないと、強調します。パウロ六世が彼をメーソンであると信じて、彼を解任したとわたしは言っているのです。彼の死後、イタリア語では一九八三年、英語では一九九〇年に出版された The Liturgiacal Reform(典礼改革)で、彼自身このことを認めています。その九十三ページで、ブニーニは、ホミレティック・アンド・パストラレル・レヴューに自分が投稿した手紙を引用して、わたしのことを中傷者と非難しながら、九十〜九十一ページでは、正にわたしが言ったことをはっきりと認めています。ブニーニの解任と神礼拝省の解散に言及して、彼は次のようにコメントしています。

だれも予期しなかった、そして教会の上にこれほどの影響を与える、こにほど思い切った決断に教皇を導いた理由は一体何だったのでしょう。わたしはこの本の序文でわたし自身はこれらの理由が一向に分からないと述べました。しかしながらなぜなのかを知るために、苦悩の中で、あらゆるレベルのたくさんの扉を叩きました。夏の終わり近く、普通は典礼改革に余り熱心でないある枢機卿が「ブニーニ大司教はフリーメーソンであると立証する証拠書類が、教皇様の机の上においてある(持ち込まれた?)のを、自分は見た」と、わたしに教えてくれました。

脚注

(原文のまま)

1. Biographical details of Archbishop Bugnini are provided in Notitiæ , No. 70. February 1972, pp. 334.

2. CF, p. 244.

3. Notitiæ , No. 70, p. 34.

4. VLC, p. 20.

5. VLC, p. 23.

6. RFT, p. 141.

7. CF, p.223.

8. CF, p. 224.

9. RFT, p. 22.

10. AFT, p. 23.

11. Notitiæ , No. 70, p. 34.

12. RFT, p. 23.

13. BS, p. 131.

14. RFT, pp. 287-8.

15. AFT. p. 210.

16. The Tablet, 18 May 1968, p. 489.

17. Notitiæ , No. 70, p. 34.

18. Notitiæ , No. 46, April-June 1969, pp. 1 28-133.

19. AF, p.42.

20. Notitiæ , No. 92, April 1974, p. 126.

21. Ibid.

22. Ibid.

23. The Tablet, 30 August 1975, p. 828.

24. DV, p.71.

25. Net Fumo di Satana (FIorcnce, 1976), p. 150.

26. Notitiæ , No. 95-96, July-August 1974, p. 250

27. La Pens?e Catholique, May 1978, p. 80.

28. Orthodoxy of Catholic Doctrine, vol. 3, No. 2, May 1974, p. 3.

29. PJC, p. 172, footnote.

30. Demain la Liturtgie (Paris, 1976), pp. 9-10.)

31. A. Burnini, The Reform of the Liturgy: 1948-1975 (Minnesota, 1990), pp. 90-1.)